マルク・ブロックの『歴史のための弁明』第二章「歴史的観察」の要点を二宮宏之氏の『マルク・ブロックを読む』に基づいてまとめる。
過去の人間事象の認識は「それ自体としては把握不可能な過去の事象が、われわれに残した感覚可能な痕跡を手がかりとする認識」である。この「痕跡」は歴史家が史料と呼んでいるものである。この「痕跡」とそれ自体は把握不可能な「過去そのもの」とは明確に区別されなくてはならない。
痕跡は、多種多様であるが、それらは「意図された証拠」と「意図されざる証拠」の二種類にわけられる。今日では後者のタイプの史料が、歴史学の科学性を保証する証拠として重視される傾向にある。それには正当な理由がある。しかし、意図されざる証拠が必ずしも事実を語っているとはかぎらない。
「初めに史料がある。歴史家はそれを集め、読み、その真正性と真実性を吟味すべく努める。それを済ませてはじめて、歴史家は史料を活用することが可能となる」(« Au commencement, diraient-ils volontiers, sont les documents. L’historien les rassemble, les lit, s’efforce d’en peser l’authenticité et la véracité. Après quoi et après quoi seulement, il les met en œuvre… »)とよく言われるが、そこには歴史家の営みついての根強い誤解が潜んでいる。そして、この直後に先日2月23日の記事で引用した箇所が来る。
いかなる史料も「それに問いかけるすべを知らなければ何も語ってはくれないのだ」。「あらゆる歴史研究はその第一歩から、その探究にすでに方向性が含まれている」。「いかなる学問であれ受動的な観察は何ら豊かなものを生み出さない」。
このように引用を重ねた後、二宮氏は次のように「歴史的観察」の章をまとめる。
ブロックのいう歴史的観察とは、このように、過去の人間たちが遺した痕跡を手がかりとするものですが、この痕跡から何ものかを読み取ろうとするならば、まずもって自らの質問表を備えていることが不可欠なのでした。問いかけがあってこそ、史料の表面的な記述以上のことを歴史家は捉えることができるというわけです。(213頁)
ここでの「痕跡」についての説明を読んでいて、パースの記号学の三分類 symbol(象徴)、icon(図像・類像)、index(痕跡・指標記号)をここに導入すると、さらに史料、歴史的観察、歴史学の諸関係を明確にできるのではないかとふと思いついたのだが、この点についてはまた後日(っていつかわかりませんが)立ち戻りたい。