内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

大晦日のご挨拶

2018-12-31 17:47:00 | 雑感

 還暦を迎えた私にとって記念すべき年であった今年(戊戌 つちのえ・いぬ)もあと数時間でその幕を閉じようとしています。個人的には、特にめでたい出来事もありませんでしたが、まずは健康に大過なく一年を過ごすことができたことを何よりも幸いに思っています。この一年の個人的イベントとして印象深いのは、夏の沖縄旅行と岐阜県福地訪問でしょうか。
 真夏と年末年始以外、帰国するチャンスはなかなかめぐってきませんが、日本各地の春秋の美しい景色も嘆賞したいと、このごろしきりに思うようになりました。
 メディアでは、今日について「平成最後の大晦日」、来年について「平成最後の年」、来年4月30日について「平成最後の日」など、それらが何かプレミアムであるかのように喧伝されていますが、それとは別に、私自身の人生も一サイクルを終えつつあるように思います。
 来年について語るのは明日に譲り、戊戌の年の残り数時間は、のんびり過ごしたいと思います。
 皆様も、どうぞ穏やかに良い年をお迎えになられますよう。












死刑制度について考えるということ

2018-12-30 23:59:59 | 哲学

 今日午後、堀川惠子『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』を読み終えた。今朝、堀川惠子の本書に先立つ出版のうち死刑に関係する二冊『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』『永山則夫 封印された鑑定記録』(いずれも講談社文庫、それぞれ2016年、2017年刊。初版はそれぞれ2009年日本評論社刊、2013年岩波書店刊)をヨドバシ・ドット・コムに注文した。都内二十三区に関しては、アマゾンよりヨドバシ・ドット・コムの配送システムのほうが配送が速いからだ。実際、午後2時頃届いた。その前に注文してあった『教誨師』(講談社文庫、2018年。初版2014年講談社)は、朝9時過ぎには届いていた。
 2009年8月に裁判員裁判が始まり、一般市民が死刑制度に直接当事者として関わることがありうるようになってから、関連書籍は目に見えて増えた。死刑制度を存置する法治国家に生きる国民の一人として、死刑を国家による合法的な殺人として認める制度について自分の考えをはっきりさせるための一つの手立てとしてそれらの書籍を真剣に読まなくてはならないと思っている。それは、さしあたりの知識を得るためだけではもちろんなく、人が人を裁くことを正当化する根拠は何なのか、罪と罰はいかに定義され限界づけられなければならないのか、という根本的な問題を自らの問題として考えるためにほかならない。
 いわゆる先進諸国の中で死刑を極刑としている国は極少数であり、その一つが日本であることは繰り返しメディアでも取り上げられてきているし、いわゆる国際世論はこの点について日本を批判してやまない。しかし、言うまでもなく、その「外圧」それ自体は、理性的・自律的判断の根拠ではありえない。人道的見地からの原則的廃止論も、被害者およびその遺族に配慮した心情的存置論も、一個の主体によって理性的に十分に根拠づけられた立場たりえない。
 上掲四書およびその巻末に付された参考文献を読み、さらには仏語での参考文献をも参照しつつ、死刑制度についての自分の立場をはっきりさせていきたいと思う。












現代社会の「罪」と「罰」― 堀川惠子『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』を読みながら思うこと

2018-12-29 23:59:59 | 読游摘録

 冬休み中ということで、普段のように律儀に連載を毎日書き続けることも予告に縛られることもなく、その日その日に思ったことをより自由に記すことを許されたし。
 夜を徹して読書することは若い頃は珍しいことではなかったが、今ではもうそういうことはほとんどなくなった。しない、というよりも、できない。寝床に本を持って入り込んでも三分ともたない。横になるやいなや、ほとんど自動的に体がおやすみモードに切り替わってしまう。
 昨晩、昨日購入した電子書籍版4冊を走り読みするつもりで、タブレットを枕元に置き、読み始めた。11時半頃だったか。最初に開いたのが堀川惠子『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』(講談社文庫、2015年、初版2011年)だった。何頁か読んで次の本に移るつもりで読み始めたが、その書き出しに引き込まれて読み進め、掛け布団をひっかぶった状態では読みにくいので起き上がり、座り机の上にタブレットを置き直して読み続けた。章を追うごとに更に先が読みたくなり、ふと時計を見たら、午前5時近かった。まだ読み終えてはいなかったが、さすがに眠気を覚えたので横になり、7時頃まで眠った。それにしても、こんなことは実に久しぶりのことだった。
 本書の著者の名前さえ知らなかった。取り上げられている死刑囚のことも彼が1966年に起こした事件についても何も知らなかたった。それだからかえって何の先入見もなしに読むことができたとは言える。
 死刑という極刑が、その時代の社会的状況、政治的傾向、法曹界の趨勢、捜査に関わる諸条件、審理に関わる諸条件、容疑者の幼少期の家庭環境・交友関係(あるいはその無さ)・社会的環境等のきわめて多様な諸要素がいかに複雑に絡み合って、求刑そして確定されるのか、そのプロセスが一人の死刑囚の事例を通じて詳細に解き明かされていく。死刑囚の手紙の注意深い読み、関連資料の丹念な調査、当事者たちやその関係者への度重なるインタビューによって、死刑という国家による「合法的な」殺人が、法治国家に生き、その恩恵を享受している私たち国民ひとりひとりにとってどれだけ深刻な問題であるかを本書は私たちに教えてくれる。それだけでなく、死刑確定後、刑執行に至るまでの期間に死刑囚がいかに人間的に変化を遂げていくかまでを著者は追いかけていく。
 また一つ優れたノンフィクション作品に出会えたことを嬉しく思うとともに、その作品から私自身考えるべき重い課題を与えられもした。












先祖の墓参り

2018-12-28 22:21:08 | 雑感

 一昨日の記事で翌日にその続きをと予告しておきながら、芭蕉の『野ざらし紀行』の富士川のくだりの別解の話に進めない。ちょこちょこっと参考文献を覗いて仕立て上げるだけの他愛もない記事にはちがいないけれど、書いている本人にはそれなりに下調べの時間が必要で、その時間が今日は取れなかった。それに、『更級日記』に記された富士河の伝説にもちょっと触れておきたくなったから、『甲子吟行』に立ち戻るのはその後になる。
 今日、午前中、隣家の親族に帰国の挨拶に行く。昼前まで歓談。午後は、父方の祖父母までの四代が眠る港区高輪東禅寺へ一人で墓参り。墓周りの敷地の落ち葉の掃き掃除と墓石の水洗いを済ませてから、花と線香を供え、先祖にこの一年半のあれこれについて報告する。
 子供の頃はわけもわからず親に連れて来られ、青年期はこんなことに何の意味があるとふてくされ、渡仏後は帰国のたびに現状報告のために参り、今は祖父に関わる奇しき縁と今もなお自分が生き長らえる幸いをしみじみと感じつつ、感謝と謝罪の綯い交ぜになった気持ちのままに墓前でしばし頭を垂れる。
 帰路、折からの寒風が頬を刺す。











今年の泳ぎ納め、歯のクリーニング、のんびりと過ごせるこの冬休み

2018-12-27 23:59:59 | 雑感

 2014年12月はその22日に母が亡くなった。その5日前に私は帰国した。その冬休みは、4週間ほど滞在したが、当然休みどころではなかった。2015年の年末年始の一時帰国は、翌年の大学の新しいポストの審査委員会の委員長だったから、冬休み中も日本にいながらその役割のためにやらなければならないことを抱えての帰国だった。2016年は、翻訳の仕事を抱えての帰国で、いろいろ人には会うことができたが、休息はあまりできなかった。2017年は、年末締め切りの原稿を抱えての帰国。年明けから7日の帰国までは少し休めた。今回の帰国は、仕事を抱えずに帰って来ることができた。もっとも、発表やシラバスの準備、帰国前にいくつか片付けておくべき仕事など、あるにはあるが、それらは心理的な負担になるほどのものではない。
 昨日は、新しい眼鏡を作りに渋谷のいつもの眼鏡店に行った。現在掛けている眼鏡の度が合わなくなってきていたので、この機会に新たに作ってもらうことにした。検眼して驚いた。近視が二度も軽くなっているという。店の人によると、年を取るとそれほど珍しいことではないとのことだった。遠近二本と近近一本新調した。仕上がりは年明け。「近近」というはあまり聞き慣れない言葉だが、デスクワークが多く、しかも手元の資料と机上のパソコンの画面くらいまでがよく見えればよいという条件に特化された眼鏡で、私にとってはまさにぴったりで、これまで遠近と併用していた中近は近くの見え方が中途半端で不満だったのだが、その不満がこれで解消されそうだ。とりあえず一本だけにしたが、具合がよければ、夏の帰国時にもう一本作るつもり。
 今日の午前は、徒歩十分足らずのところにある目黒区立五本木小学校内屋内プールで今年の泳ぎ納め。2000メートル泳ぐ。水温が高く、体は浮きやすかったが、上がった後しばらく汗が止まらなかった。午後は、かねてから予約してあった歯医者さんで点検とクリーニング。歯がきれいになると気持ちもすっきりする。












芭蕉と捨子 ― 井本農一『芭蕉 その人生と芸術』より

2018-12-26 23:29:06 | 講義の余白から

 タイトルに掲げた井本農一の本の初版は1968年に刊行された講談社現代新書版。23日の記事で取り上げた廣末保の文章の初版『芭蕉』(NHKブックス)刊行の翌年のことである。
 井本もこの一条を虚構だとする説に反対する。それに、『野ざらし紀行』には、後に『笈の小文』や『おくのほそ道』に見られるような大きな虚構性はないと井本は言う。
 富士川のほとりで、芭蕉は、捨て子を見ても、わずかに袂から喰いものを与えて通り過ぎるのみだった。当時、農村地区では、捨て子は多く、捨て子を収容する施設もなきに等しかったという。ましてや、実事を捨てて俳諧道探究の旅に出た芭蕉には、喰いものを投げ与えて通り過ぎるほか、なにができたであろうか。
 しかし、ただそれだけのことだったのなら、富士川のくだりが書かれることもなく、「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」という句が詠まれることもなかっただろう。
 猿の鳴き声を聞くと断腸の思いがすることを、中国の詩人たちは詩文の中で書き続けてきた。その文学伝統は日本文学の中にも移入・継承され、芭蕉もその伝統を踏まえてこの句を詠んでいる。この句は、そのような伝統的な文学的感性を持った詩人たちに向かって、この眼前の捨て子の酷薄な現実を君たち詩人はどう受け止めるのか、と問いかけている。この問いは、もちろん、風狂精神に徹しようとする芭蕉自身にも向けられている。

現実を捨てて芸術に専念する決心をしたのだが、捨て子を眼前に見て、自分の現実的無力に対する痛切な反省が、その決心を動揺させるのである。しかし、ただ安易に現実を無視するのでなく、この痛切な反省の上に立って芸術に献身しようとするところに、強く、激しく、純粋なものがあるといってよいであろう。(井本前掲書)

 このような「芸術至上主義」に生きる詩人という芭蕉像は、今でも私たちを惹きつけてやまない。しかし、最近の芭蕉研究は、それとは違った芭蕉像を描き出そうとしている。明日の記事ではそれを見てみよう。













搭乗便の機内から、そして羽田からの移動後

2018-12-25 23:59:59 | 雑感

 今、ハバロフスク上空である。あと二時間ほどで羽田に着く。空港では、出発二時間ほど前からゲート前の待合席が混み始め、機内は満席。航行は順調。機内では映画を二本見た後、寝た。熟睡はもちろんできないが、自分のヘッドフォンでノイズキャンセラーをかけると、エンジン音もほとんど気にならない。
 23時20分発の便で、羽田には翌日19時過ぎに着く。夜に出て夜に着くことになり、これだと移動だけで丸一日使ったに等しく、ちょっともったいない気がする。

 羽田には定刻より20分ほど早く到着。いつものようにリムジンで渋谷まで移動するつもりで、カウンターにチケットを買いに行くと、現在、大渋滞で二時間以上かかり、次便もまだ定刻に出発できる保証はない、と言われてしまったので、タクシーにする。
 運転手さんに道順は任せる。リムジンのように都心を通らず、高速も使わず、一般道を使い、産業道路の渋滞を避けるために裏道も利用する。おかげで一時間ちょっとで滞在先の妹夫婦の家に着く。
 今日から、年末年始の半月間お世話になります。












クリスマス・イヴの午後、シャルル・ド・ゴール空港に向かうTGVの中から

2018-12-24 15:48:28 | 雑感

 十五時一分ストラスブール駅発のTGV に先ほど乗り、今車中でこの記事を書いている。クリスマス・イブの午後に長距離の移動をしようとする人は少ないようで、一等車には数人しか乗っていない。もっとも、空港駅の手前に二つ停車駅があるからそこからの乗客もあることだろう。それにしても、ゆったりと快適な気分でストラスブールを出発できたのは嬉しい。時期・曜日・時間帯にもよるが、混雑期は、早めに乗車しないと荷物置き場がいっぱいでスーツケースを置く場所を見つけるのに苦労することさえある。
 今朝もいつものプールで泳いできた。東京滞在中もできるだけ泳ぎに行くつもりなので、まだ今日が今年の泳ぎ納めとはかぎらないが、今年は年間を通してコンスタントにプールに通うことができたことを幸いに思う。年間254回というのは、2009年にパリでプールに通い始めてから、「歴代二位」の記録。最高記録は2011年の265回。しかも、パリで暮らしていた頃は、毎回少なくとも2000メートルは泳いでいたから、1000メートルでさっさと切り上げる今とは違って、それだけ時間もかかったし、負荷も大きかった。今は、距離も時間も少なめ、とにかくコンスタントに泳ぎ続けることを目標としている。
 プールの後は、しばらく家を空けるときの「儀式」である家中の大掃除。年末かどうかは関係ない我が家のしきたりなのだが、やはり年の瀬、一年の汚れを落とすつもりで、家の隅々まで丁寧に拭き掃除する。こうしておくと、帰ってきたときにとても気持ちがよい。
 水道・ガスの元栓をすべて閉め、ガス暖房システムをオフにし、すべての鎧戸を下ろし、もう一度最終チェックをしてから家を後にする。
 ノエルの期間、市内路面電車は、ノエルのマルシェでごった返す中心街の二駅に停車しない。混雑と混乱を避ける安全対策の一つである。車窓から街の賑わいを眺めたが、先々週の乱射事件の影響であろう、昨年ほどの人出ではなさそうだ。といっても、2015年11月のパリでのテロの後ほど極端ではない。あのときは例年の半分以下の人出だった。ノエルのときくらい、たとえつかの間であったとしても、皆が幸せなひとときを過ごせるよう、心から願う。
 明日の記事から年末年始の半月間、東京からの記事発信になる。













芭蕉と捨子 ―『野ざらし紀行』の富士川のくだりをどう読むか

2018-12-23 19:55:18 | 講義の余白から

 木曜日の古典文学の講義で芭蕉の紀行文を紹介したとき、『野ざらし紀行』の富士川のくだりを引用した。

富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣く有り。この川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぐにたえず、露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。小萩がもとの秋の風、今宵や散るらむ、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、

猿を聞く人捨子に秋の風いかに

いかにぞや汝。父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け。

 このくだりは、これまで諸家によってさまざまに論じられてきた。今、虚構性の問題に限って、手元にある三つの注解から、当該箇所を摘録しておく。今日のところは、廣末保『芭蕉 俳諧の精神と方法』(平凡社ライブラリー、1993年、当該の文章の初出は1967年)から。
 廣末は、本書で約十頁を割いてこのくだりについて立ち入って論じている。緊張感を孕んだ鋭利なその考察は、その全文を読むべきなのは言うまでもないが、ここではその終わりの方からその一部を引くにとどめる。

 「汝が性のつたなさをなげけ」ということばは、捨子に対してと同時に、芭蕉自身へのことばではなかったか。捨子と同様、芭蕉もまた肉親や実生活の秩序からはみだして、野ざらしの境涯を生きねばならない人間であった。芭蕉の捨子に対する異常な関心も偶然ではない。
 それは、捨子に対すると同時に自分自身へのことばでもあったと、わたしはとりたい。少なくとも、そのような響きを言外にかさねたとき、「汝が性のつたなさをなげけ」ということばは、これにさきだつ文と句の緊張関係によく耐えることができるし、その結果、このくだりを独立した一篇の作品として破綻なく定着せしめることができる。(140頁)

 廣末が富士川のくだりについて提示している読みは、同書の「序――芭蕉をどう読むか」に示された、主観主義でもなく客観主義でもない方法の実践の試みと捉えることができるが、その序で強調されている「歴史的なパースペクティヴにたとうとする主体的な努力」(12頁)という点で、今日の研究成果からすると、必ずしも十分ではないと言わざるをえないようである。













来年前半の演習・講演・発表の予定について ― 哲学・生命・宗教

2018-12-22 23:59:59 | 哲学

 来年前半に予定されている演習・講演・発表のことを先日来ぼんやりと考えている。それらをすべてを一つの主題をめぐって関連づけるようにしたいと思っている。
 その核になるのが3月14日にリル大学で行う発表である。この発表は、「宗教的生の現象学」というテーマで開かれる研究集会で行われる。宗教とフッサール現象学との関係がその中心的な問題なのだが、この問題を〈外〉から照射する一視角として西田哲学について話してほしいというのが主催者からの依頼であった。受諾の返事の中では、西田とフッサールを直接対質させるのではなく、ミッシェル・アンリの生命の現象学を媒介として話すつもりだとだけ主催者に伝えてある。この冬休みに話の骨子を組み立てておきたい。
 6月29日のイナルコでの発表では、リルでの発表から西田哲学の方に引き寄せて、哲学と宗教との関係について話すつもりだが、まずは3月の発表の骨子ができあがらないことにはその輪郭も定めようがない。ただ、先月のパリ・ナンテール大学での田辺についての発表の際、原稿の半分も読めなかったので、残りについてどこかで発表しておきたいという気持ちもあり、どちらにするか、まだ迷いもある。
 7月27日から8月2日にかけての東洋大学大学院での集中講義「現代哲学特殊演習」では、リルとイナルコでの発表の内容を前提とし、かつ今年の集中講義で取り上げたシモンドンによる技術と神聖との関係についての議論も参照しながら、現代社会における宗教と技術との関係について考察してみたいと思っている。
 4月か5月のいずれかにストラスブール大の日仏大学会館で学術振興会主催の講演をする。この講演は、一般向けであるからあまり専門性の高い話はできない。現代社会における日本人の宗教観について「空」と「結び」をキーワードとして話そうかと思っている。
 1月から5月にかけての修士一年の演習「近現代思想」では、上掲の諸題目と何らかのつながりをある日本語の本を一冊学生たちと一緒に読みたいと思っているが、なかなかこれといった本が見つからない。強制はできないのだが、同意した学生たちには本を一冊買わせて、それを読ませたいと思っている。もうしばらく探す必要がある。