内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学的リズム論の構想

2017-03-31 23:59:59 | 哲学

 ちょうど一週間前の24日の記事で、ジミー・ヘンドリックスの The Star Spangled Banner の演奏についての Lydie Salvayre, Hymne の中の一節を脚注で引用している Jean-Luc Nancy の La communauté désavouée に言及した(これが回りくどい言い方であることはわかっている。でも、これら三者の名前の連関の重要性を無視するわけにはいかない)。
 その引用の中の最後の言葉 « au rythme de tous » が、思いもかけず、私のこれからの思索に方向づけを与えてくれた。まだまったくの手探り状態に過ぎないとはいえ、リズムについて考え始めた。昨日の記事でアリストテレスの『政治学』の一節を取り上げた理由も実はそこにあった。
 日本でリズム論を哲学の枢要な問題の一つとして取り上げた最初の哲学者は九鬼周造だろう。そのリズム論は時間論と不可分である。永遠性・反復・回帰・差異などがそこでの問題である。
 哲学者ではないが、九鬼とほぼ同時代的に、自身の言語理論の重要なテーマの一つとしてリズムを取り上げているのが時枝誠記である。
 そして、この時枝のリズム論に触発されて独自のリズム論を展開しているのが、『言語にとって美とはなにか』の吉本隆明である。
 かたやフランス現代哲学においては、リズムを哲学的な考察の対象とした数少ない哲学者の一人としてアンリ・マルディネを挙げることができる。
 リズム論に関して私自身に何かはっきりとした見通しがあるわけでもなく、年限の決まった何らかの研究プランがあるわけでもない。しかし、上掲の四つのリズム論を手掛かりとして、これまで考えてきたさまざまな問題をリズム論の中で再考することで、それら問題の間に新たな有機的な関連づけを見出すことができるだろうという予感はある。













ハーモニーとリズムがもたらす魂の解放とその自己回復 ― アリストテレス『政治学』第八巻最終章第七章について

2017-03-30 18:41:21 | 哲学

 アリストテレスの『詩学』は、その悲劇論の中に見られるカタルシス理論で有名だが、現存する『詩学』のテキストでカタルシスという言葉が用いられているのはたった一回きりである(1449b28)。
 アリストテレスの『政治学』の最終巻第八巻は、都市における教育論である。その第五章から最終章第七章までの三章は、一種の音楽教育論になっている。その最終章にカタルシスという言葉が出てくる。その箇所で、アリストテレスは、ここではごく一般的な仕方でカタルシスについて語るが、この概念については後により明晰な仕方で『詩学』の中で再論すると注記している。ところが、残念なことに、そのカタルシス論は今日まで伝わっていない。あるいは、そもそも書かれなかったのかもしれない(ここでウンベルト・エーコの名作『薔薇の名前』がアリストテレス『詩学』の「失われたはずの」第三部「喜劇論」をめぐっての十四世紀前半の中世キリスト教世界を舞台としたミステリーであったことを思い出された方々もいらっしゃることだろう)。
 それはさておき、『政治学』のこの最終部分(1341b19-1342b34)の音楽論、私にはとても興味深い。ハーモニーとリズムがもたらす倫理的・教育的効果がそこで論じられている。ハーモニーとリズムをその場面に適切な仕方で用いることで、過度に哀れみの情に引きずられたり、恐怖で身動きが取れなくなったり、熱狂に我を忘れていたりする魂をそのような状態から解放し、我を取り戻させることができるというのがその議論の主旨である。このような魂の解放とその自己回復がカタルシスのようだと言われている。













日常の通勤風景の中で聴くグレゴリオ聖歌による日常空間からの離脱と存在の異貌の現前

2017-03-29 20:40:14 | 雑感

 26日日曜日に夏時間に切り替わって、日没が一時間遅くなりました。毎年のことですが、夏時間に来切り替わった直後は、春の到来を飛び越して、いきなり夏が近づいて来たような気分になります。それが言い過ぎだとしても、年度の終わりももう遠くないなあという、嬉しいような切ないような気持ちで胸が満たされます。今日のようによく晴れた空の蒼さが深い日だとなおのこと。
 自転車でのキャンパスと自宅との行き帰りに音楽を聴くことがソニーのワイヤレス・ヘッドホン MDR-1000X を昨年秋に購入して以来習慣となりました。ノイズ・キャンセリングをONにすると外部の音がほとんど聞こえなくなり、自転車で車道を走行する際これは危険ですから、音量は控えめにしますが、それでも、見慣れた風景が音楽なしのときとは違って見えます。
 どんな音楽を聴きながら走ろうかと、アップル・ミュージックの膨大な音源から探すのも楽しみの一つになりました。まあ、それでもだいたいはクラシック音楽の中から風景と季節にあった「穏当な」選曲になることが多いのですが。
 先日、そんなありきたり選曲がちょっとつまらなく感じられて、何を思ったか、グレゴリオ聖歌を講義の後の帰路の音楽として選んじゃったんです。そうしたら、選んだ自分でもちょっと驚いたのですが、いつもの通勤路の風景がガラッと違って立ち現れて来たのです。というか、普段馴染んでいる空間から自分が離脱してしまいそうな不思議な気分になったのです。日常の風景が遠ざかり、誰もいない空間の中に放り出されたような。音楽によって、自分の周りの一切の存在についての判断中止が到来したかのような。
 あるいはこう言ったほうがいいのかも知れません。日常の風景の中では普段見えていない存在の相貌がグレゴリオ聖歌の異化作用によってそこに現前したのだ、と。













私撰万葉秀歌(14) 「ひとりし思へば」― 昼下がりの春愁、あるいは近代人の孤独の自覚

2017-03-28 18:37:18 | 詩歌逍遥

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば

 『萬葉集』巻十九の掉尾を飾るこの大伴家持の歌はあまりにも有名であるが、和歌の全歴史を通じての屈指の名歌であることに異を唱える人は少ないのではないだろうか。この歌を万葉仮名表記(西本願寺本を底本とし、諸本により校訂した二〇一六年刊行の岩波文庫版による)で読むと、また別の味わいがある。

宇良宇良尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比登里志 於母倍婆

 家持自身がどのように表記したかは今となっては知る由もないが、表記と感情との開きが大きければ大きいほど、愁いも深くなるような気がする。
 のどかな陽光の中のひばりの春空への上昇を見ていると、それとは真逆の方向に自分の心は沈んでいく。
 伊藤博注(角川文庫版)によれば、『萬葉集』中、「ひとり」と「思ふ」を連ねる言い方はこの一首のみ。同注に、「ひとりし思へば」は、「人間存在そのものの孤独感を自覚した言葉」とある。先生が講義で「家持は、日本古代で近代人の孤独を自覚した最初の詩人だった」と仰っていたのを想い出す。













とりとめもなく、何を今さら

2017-03-27 23:59:59 | 雑感

 今日は、なんとなくとりとめもなく、何を今さら、というような話です。
 普段、あれこれのテキストを読み、それらからいわば思考の栄養を吸収して、やっとのことで何か自分の頭で考えている、あるいは考えているつもりになっています。ときどき、その繰り返しがどうしようもなく虚しくなることがあります。こんなことを続けていったい何になるんだろうか、と。
 あるテーマに関して関連書目をいくらか系統的に読み、これまで問題にされてきたことを検討して、今まで見逃されてきたこと、取り上げ方が不十分であったこと、あるいは、扱い方が不適切であったことなどを見出し、それについて考察し、なにか一つ新しい見方をその根拠とともに提示できれば、一応研究発表の形にはなるかもしれません。
 しかし、自分がほんとうに考え抜くべきことはほかにある、そこから逸れてばかりいる、と思わずにはいられないのです。












国際シンポジウムを終えて ― 心の中にまで陽が射し込む夏時間への切り替え

2017-03-26 15:04:42 | 雑感

 昨日午後の和田博文先生の講演を締め括りとして、三日間に渡る国際シンポジウム「モダン再考 戦間期日本の都市・身体・ジェンダー」は無事幕を閉じた。私は今回一発表者として参加したに過ぎないが、全体として内容豊かな発表が多く、それらをめぐって刺激に富んだ議論が活発に行われたいいシンポジウムだったと思う。私個人としても学ぶところは多かった。特に、「モダンガール」たちの一部に見られた自由な生き方と自立の手段の確保と官憲への抵抗姿勢にはちょっと驚きもし、感心もした。
 私自身の発表に対してもわりと反応はよかったと思う。その内容のおおよそは連載「戦中日本におけるもう一つ近代の超克の試み」に述べてあるからここには繰り返さない。
 今回のシンポジウムの内容は、後日フランス語で論文集として出版されることが決まっている。CEEJAからストラスブールへの帰り道、シンポジウム責任者である同僚の車に乗せてもらったのであるが、車中での彼女の話では、今回の出版は、単なる発表原稿の集成ではなく、各発表者が発表で言い足りなかったことも含めて自由に書いてもらうために、最高字数制限ではなく、最低字数制限だけを設けるつもりだという。これはめったにない「太っ腹な」提案である。この機会を利して、私も発表原稿を全面的に見直して、より発展した形で活字として発表したいと思う。
 今日、フランスは朝から全国的に好天に恵まれてれている。アルザス地方の空気はまだ少しひんやりしているけれど、それがかえって気持ちいい。午前十一時には自宅に帰り着いた。
 今日から夏時間。時計を一時間早めるから、今日だけ一時間短い。十月最後の日曜日、冬時間に切り替わるときに「貸与」された一時間を、こうして毎年三月最後の日曜日に「返還」する。それはちょっと辛いけれど、昨日に比べて日没が一時間遅くなり、それだけ日没前の午後の時間が長い。今日は午後八時過ぎまで明るだろう。心の中にまで陽が射し込む思いがする。












孤独な「主体」たちと「束の間の共同体」

2017-03-25 07:50:01 | 哲学

 昨日の記事でナンシー先生の著書の脚注からそのまま引用した Lydie Salvayre の Hymne の一節を、同書の原本に拠って中略部分も復元して再度引用する。

En jouant The Star-Spangled Banner, ce matin du 18 août 1969 à Woodstock, Hendrix fit renaître le sentiment d’une fraternité dont les hommes étaient devenus pauvres, et prêta vie à cette chose si rare aujourd’hui qu’on appelle, j’ose à peine l’écrire, une communauté, une communauté formée, là, dans l’instant, une communauté précaire, heureusement précaire, non pas une communauté de malheur comme il s’en forme chaque jour (on dit que le malheur rapproche et cette idée me fait horreur), non pas une communauté complaisamment apitoyée ou romantiquement doloriste, ni une communauté sous narcose, je veux dire religieuse, non, non, non, mais une communauté de solitaires, chacun plongé entièrement dans sa musique, chacun y trouvant domicile, mais au rythme de tous (p. 191).

 「束の間の共同体」という表現はそれだけを見れば、なにか同じ不幸で結ばれた人たちの共同体を思い浮かべてしまうかも知れない。しかし、作家は、それを否定する。むしろ、「不幸は(人々を)互に近づける」という考えに嫌悪さえ示している。括弧内のこのつぶやきのような一言は、彼女が難民の子としてフランスに生まれ、幼少期は難民キャンプのような「共同体」で過ごし、そこではスペイン語が話され、フランスにあってフランス人たちから疎外されているような場所であったことを考え合わせるとき、より意味深い。
 「束の間の共同体」は、苦痛を慰め合うような、互に「寄り添う」者たちの共同体でもない。何らかの人工的手段で引き起こされる陶酔状態、つまり「宗教的な」共同体でもない。
 つまり、過去に存在したであろう、そして現在も至るところに存在する、存在しうる、あるいは形成されつつある、それら「擬似的な」一切の共同体と「束の間の共同体」とは異なっているのである。もちろん、「約束の地」を目指して艱難を乗り越えていく「選民」たちの共同体でもないことは言うまでもないであろう。
 このような現在において、私たちは、共同体について何を語れるというのか、共同体について何かを語ることにどんな意味がありうるのか。
 ちょっと話が飛ぶようだが、一昨日から始まっている国際シンポジウムでの私の発表はあと三時間後に迫っているが、その中で私が問題にする時枝の「主体」は、まさにこの共同体についての問いと表裏をなしている。










 


孤独なものたちの束の間の共同体

2017-03-24 09:18:26 | 哲学

 昨日の記事の終わりに言及したナンシー先生の著書 La Communauté désavouée の13頁の脚注に2014年ゴンクール賞受賞作家 Lydie Salvayre(スペイン戦争末期に難民としてフランスに移住してきた両親の子として1948年に生まれ、主に南仏で育ち、大学教育を受けた。最初はトゥールーズ大学で現代文学を、続いてマルセイユ大学で精神医学を学び、修了後はしばらく精神科医としてクリニックで働いていたが、三十を過ぎてから文学に手を染めるようになったらしい)がジミー・ヘンドリックスへの頌歌として書いた Hymne(Le Sueil, 2011)からの以下のような引用があり、ちょっと意表を突かれ、心を動かされもした。

En jouant The Star-Spangled Banner, ce matin du 18 août 1969 à Woodstock, Hendrix fit renaître le sentiment d’une fraternité dont les hommes étaient devenus pauvres, et prêta vie à cette chose si rare aujourd’hui qu’on appelle, j’ose à peine l’écrire, une communauté, une communauté formée, là, dans l’instant, une communauté précaire, heureusement précaire [...] une communauté de solitaires, chacun plongé entièrement dans sa musique, chacun y trouvant domicile, mais au rythme de tous (p. 191).

 私はこの曲を知らないし、そもそもジミー・ヘンドリックスを聴いたことも遠い昔にあったかどうかさえ定かではないから、彼の演奏する姿を想像しながらこの引用を読んだわけではない。端的に、作家の言葉に心動かされた、と言ったほうがいい。ヘンドリックスが The Star-Spangled Banner を演奏したとき、その場に生まれた「束の間の共同体、幸いにも束の間の [...] 孤独な者たちの共同体、各自が彼の音楽の中にすっかり浸りきり、各自がそこに棲家を見出し、しかし皆のリズムで」生きる共同体... どこにも安定した場所としては存在しないが、一個の魂の叫びを分有する人々の間で束の間生きられる共同体...
 ナンシー先生によるこの引用には、実は数行に渡る中略があって、それも含めてもう一度この箇所を作家の原本で読むと、もっと複雑な感情が生まれてくるのだが、その部分は明日の記事で引用する。












聖体拝領と共産主義との間で彷徨う

2017-03-23 21:42:31 | 哲学

 今日の記事のタイトルを構成する二概念「聖体拝領」と「共産主義」とを日本語の中だけで考えると両者の共通点が見つけにくいかもしれない。前者はまぎれもなくキリスト教の根本概念の一つであり、後者は明らかに社会・経済・政治的体制の一つを指す。両者のどこに共通点があるというのか。
 しかし、例えば、フランス語で両者について考えるとき、前者は « communion »、後者は « communisme » であるから、文字面からだけでも両者の共通性は目に明らかであり、実際、「ある同じ〈もの・こと〉を共有する」ことという意味を両語はまさに「共有」している。
 両者の間に「共同体」という言葉を置いてみよう。フランス語では、« communauté » であるから、三者が「近接的な」類語であることは一目瞭然だ。
 そして、その語源的な共通性とは別に、現在において認めなくてはならない三者の共通点は、いずれも今の「流行り」ではないということだ。
 こんなことをジャン=リュック・ナンシー先生の La Communauté désavouée (Galilée, 2014) を読みながら一昨日来考えている。














連載を終えて ― 「舞台」の後の「楽屋」での独り言

2017-03-22 00:53:00 | 雑感

 今日の記事は、昨日までの連載という「舞台」を終えて戻ってきた「楽屋」での独り言です。

 言語過程説における主体は、その自律的・独立的・個体的自存性への固執ゆえに、現実の生ける言語主体でありうるためは、あまりにも「孤独」な個体ではないだろうか。この主体もまた、共同体喪失という近代の宿痾に冒されており、その治療法を見いだせないまま、今も彷徨しているように私には思える。
 無傷な傍観者として暢気にそう批評しているのではない。私もまた、そこに安住できるようなあらゆる共同体を決定的に失った、おそらく死ぬまで当て所なく彷徨うだけの個体に過ぎないのだから。
 完全にはわかりあえないことから必然的に発生する他者に対する憎しみと怒りをそれとして相互に認め合う中間領域を共有することに同意し、いかなる同一性への帰属を相手に要求・強要することもない、互いに「不透明」で孤独であることを受け入れる個体間にしか、新しい「共同体」の形成の可能性はない、そう私は絶望的に確信している。