内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

真夏の空の下、シエスタの一日

2016-07-31 07:44:04 | 雑感

 二〇〇九年からのここ八年、毎年夏は日本で過ごしていることになる。今年の夏は、ここ数年の猛暑と比べれば、数日前までは比較的凌ぎやすかった。しかし、一昨日あたりからやはり暑くなってきた。昨日、朝七時過ぎに起きると、気持ちのよい青空が広がっているのが寝室の窓から見えた。
 一昨日までの五日間の集中講義は、毎日午後一時から六時まで、途中二回の休憩を挟んで、授業時間を文字通り目一杯使った。それだけ議論が活発だったということだ。毎日授業が終わった直後には、むしろ心地よい若干の疲労感が残るだけで、翌日に疲労を持ち越すこともなかった。
 しかし、昨日は、この夏一番の暑さだったし、一仕事終えてホッとしたということもあったのだろうか、本を読もうとしてもすぐに眠くなり、午前と午後の二回、それぞれ一時間半ほど昼寝をしてしまった。夕方になって、ようやく気分もすっきりした。
 今日から、この六月にストラスブール大学神学部に提出された博士論文を読み始める。その論文の指導教授からの依頼で、来月二九日に行われる公開審査の審査委員長を引き受けたからである。論文のタイトルは、Penser le néant, vivre libre. Sur quelques thèses de Maître Eckhart et leur résonance dans la philosophie de l’Ecole de Kyoto. エックハルトの神秘主義思想のいくつかの側面を、京都学派の哲学者たちにおける無の概念との対比において、特に西谷啓治のエックハルト研究を手掛かりとして、丹念に分析した研究である。
 この論文を提出したのは、ストラスブール在住の日本人ドミニコ会修道士で、六年前の修士論文の審査のときも私は審査員の一人であった。その修士論文には、方法論的に看過しがたい欠陥があり、表現にも稚拙さが目立ち、審査の席では相当に厳しい意見を述べたのを覚えている。
 ところが、今月上旬、ストラスブールの自宅に届いた博士論文をざっと読んだ時には一驚した。フランス語の表現が見違えるほどに向上している。バランスの取れた読みやすい文章でありながら、微妙な概念的区別にも配慮が行き届いている。論文全体の構成も堅固である。そして何よりも驚いたのは、私が修論の審査のときに指摘したいくつかの重要な方法論的な欠陥が見事に克服されていることだった。優れた論文であることはもう間違いなく、これからじっくり読むのが楽しみである。
 今日は、午前中、近所のプールに泳ぎに行く。ストラスブールを発つ前日に泳いだのが最後だから、十七日振りである。
 今日の午後は、明治大学人文科学研究所総合研究「現象学の異境的展開」の一環として開催されるシンポジウム「リズム」を聴きに行って来る。















































集中講義第五日目

2016-07-30 07:28:22 | 講義の余白から

 昨日は集中講義最終日。前日までと同様、まず、学生たちが送ってくれた前日の演習についての感想・質問に答えることから始める。昨日のテーマが和辻倫理学だったこともあり、それに直接・間接に関わる質問が自ずと多く、私よりもむしろYさんにお答えいただくことが多かった(昨日今日とお疲れ様)。
 感想への応答が一応済んだ後、私が前日までの四日間の総括を簡単に述べた。しかし、それはその四日間の議論の内容をまとめるというよりも、私自身の感想と持論の展開というべきで、まあかなり自由に日頃考えていることを話した(少し調子に乗り過ぎたかな)。
 当初の予定では、その後、学生たち一人一人に課題レポートのラフスケッチを発表してもらい、定刻より一時間早めに終わり、その後はどこか学外の喫茶店のようなところに移動して、「真面目な」雑談をするつもりでいた。学生たちにもそのように前日伝えておいた。
 ところが、学生たちの発表に対して、YさんやMくんがいろいろと質問やアドヴァイスをしてくれて、学生たちもそれに刺激されて積極的に発言してくれたので、結局定刻近くになってようやく演習を終えた。それだけ皆議論に集中していたわけである。
 今年で六年目の集中講義だが、議論の活発さという点では今年が一番だった(これ、お世辞じゃありませんよ)。繰り返しになるが、これはYさんとMくんのおかげである。二人のおかげで学生たちも臆することなく発言してくれた。二人には本当に感謝している。
 その後、キャンパス近くのイタリアレストランに移動し、歓談。話題は多岐にわたり、笑いが絶えず、こんなに楽しい時間を過ごせたのは久しぶりのことだった。しかし、ただ楽しかったというだけではない。どんな話題について話していても、「日々哲学するってどういうことなの?」という問いとどこかで繋がっていたと言っていいと思う。
 学生たちの皆さん、課題レポート楽しみに待ってます。またいつかどこかで会いましょう。
  皆、本当にありがとう。























































集中講義第四日目

2016-07-29 07:40:32 | 講義の余白から

 昨日の演習は、和辻についての博士論文を準備中のYさんが、「近年の技術の倫理学と和辻倫理学」というテーマの下、周到・入念に準備してくれたプランと資料にそって、彼女自身の発表を軸に展開された。
 一コマ目の近年の技術の倫理学についての紹介の中には、私も知らなかった情報が多く含まれていて、大変興味深かった。現代社会において、道徳性が社会の技術的なデザインの中に埋め込まれる形で表現されていること、そのための構成的テクノロジー・アセスメント(Constructive Technological Assessment=CTA)の拡張というフェルベークの技術の倫理学のテーゼが紹介された。その紹介を通じて、高度に技術化し続ける現代社会において、倫理に関わる諸問題がそれに応じて複雑化しつつある現実も浮き彫りにされていった。その現実の複雑化は、私たちの日常生活の中での価値判断にも直接関わってくる。
 そのような現実を身近な問題を通じて学生たちに考えさせるために、Yさんは、「家族との食事中にスマートフォンを使用することは善いか悪いか。その理由も述べよ」という事前課題を学生たちに与えた。それに対する学生たちの回答には興味深いものがあり、私もそれによっていくつか気づかされたことがあった。
 二コマ目の学生たちによる和辻の『倫理学』序論第一節についての内容報告の後、三コマ目では、和辻倫理学の最重要な論点がYさんによって手際よく提示され、それについて出席者全員で議論した。さまざまな論点が出て、十分に議論を尽くすことは時間の制約上無理であったが、和辻倫理学に触れることで善悪の問題を改めて考え直すきっかけを学生たちに与えることはできたと思う。


















































集中講義第三日目

2016-07-28 00:00:00 | 講義の余白から

 昨日は、三木清の『構想力の論理』第三章「技術」を読んだ。同章はほぼ均等な長さの八節に分かれている。学生の出席者は四名なので、前半四節は私がかいつまんで説明しただけで、後半の四節の内容についてのみ、学生たち四人に順にそれぞれ報告してもらった。皆こちらの要求に応える形でよくまとめてきてくれていた。それぞれの報告後、全員で議論した。明日の和辻の読解の準備を引き受けてくれたYさんや南山大学宗教学研究所研究員のMくんも参加してくれたおかげで、いろいろな問題について議論することができたと思う。
 しかし、どの問題についても中途半端なところで終わってしまった恨みがある。その主たる理由は、私自身の読み込み不足にあったことを正直に認めざるをえない。あやふやな答えしかできないところもいくつかあり、教室の空気が少し沈滞、弛緩してしまったときがあった。三木自身の論の展開の不十分さがこちらの理解を妨げているところもあった。
 それでも、面白い質問がいくつか出て、わかっているつもりでいたところに実は大切な問題が潜んでいることに気づかされ、改めてそれについて考える必要に迫られた。これはむしろありがたいことだ。一人で読んでいたのではそれに気づけないままに通りすぎてしまっていたことであろう。
 今年の集中講義は、学生たちが積極的に議論に参加してくれ、しかも知的刺激に富んでいて、楽しい。これには、もちろん、YさんとMくんが出席して活気づけてくれていることが大きく与っている。
 今日も楽しみである。













































集中講義第二日目

2016-07-27 01:56:44 | 講義の余白から

 昨日の演習は、五日間のうち最も困難なテキスト、西田の「論理と生命」読解作業であった。西田のテキストを数行読んでは、私がまず注釈を示し、それに対しての学生たちからの質問を受け、それらに私が答えるということを繰り返しながら、少しずつ読んでいった。
 学生たちにしてみれば、なかなか出口の光が見えてこない長い長い蛇行したトンネルを、あまり頼りにならないガイドの声に導かれながら、手探りで進むような心細さ、頼りなさを感じながらの作業であったことであろう。
 それでも、一読しただけでは何を言いたいのかさっぱりわからないような文章の中に実は生動している西田の哲学的思考の現場に少しずつ彼らの目を開くことができたのではないかと自負している。伊達に長年西田を読んできたんじゃないぜと言いたいところである。
 嬉しいことに、今年の学生たちはこちらの問いかけに実によく反応してくれる。質問の筋もいい。ときにとてもいい具体例を示してもくれる。それによって他の学生たちの理解も深まった。
 その理解は、西田の文章をそれよりもいくらかでもわかりやすい別の言葉に置き換えただけというのとは違う。それだけのことなら、それは理解でさえない。西田が考えていることが自分自身の経験・生活世界の事柄とどこでどうかかわっているのか彼らなりに考えるように促しながらテキストを読んでいくうちに、西田の言葉が彼らの思考空間の中に共鳴を引き起こし、それがあたかも闇夜に閃光が走ったときのように、それまで見えていなかった経験の層をたとえ一瞬でも照らし出す。そんな瞬間が読解作業の過程でそれぞれの学生に起こったことは、演習後にその日のうちに彼らが書いて送ってくれた感想を読んで確認することができた。
 そして、そこからまた新たな疑問が生まれてくる。今日の演習はその疑問に答えることから始まる。




















































集中講義第一日目

2016-07-26 00:16:35 | 講義の余白から

 昨日25日から集中講義が始まった。「現代哲学特殊演習②」という科目名の博士前期課程選択科目の一つである。毎年のことだが、初日になってみないと実際に何人出席するのかわからない。登録名簿には七名記載されていたが、実際に出席したのは前期課程一年生の四名。他の三名について出席者に聞いてみらたら、一名はそもそも前期全然出席しておらず、一名は仕事の関係で時間の都合がつかないらしいとのこと、一名は二年生で彼らもよく知らないらしい。昨日は、第四日目の和辻哲郎をテーマにする日を担当してくれる大学院生も出席してくれた。
 学生たち四人とは昨日が初顔合わせであるから、最初は、例年通り、演習の進め方についてあれこれと小一時間ほど、ときどき脱線しながら説明する。
 続いて、今回の演習のテーマである「技術・身体・倫理」への導入として、村田純一『技術の哲学』(岩波書店、2009年)序章「なぜ、現在、技術は哲学の根本問題となるのだろうか?」を一緒に読み、今、技術を哲学の問題として考えることの重要性について、いくらかでも共通理解を得るところから、実質的に演習を始めた。
 ところどころで学生たちに問いかけたところ、最初からかなり積極的に反応してくれ、しかも面白い質問や的を得たコメントが返ってきた。幸先の良い滑り出しである。
 それに、私と学生たちだけだと、初対面ということもあり、どうしても学生たちの方が気後れしがちなのだが、今回は博士論文準備中の他大学の院生が積極的に参加してくれたことで、より議論しやすい空気が醸成されたと思う。これはまさに望んでいた通りであった。
 学生たちは、西田の『善の研究』を学部時代に演習で読んだ以外には、まったく日本の哲学者を読んだことがないとのことだった。これは毎年同様で、特に驚くに当たらない。
 『技術の哲学』序章を走り読みした後、西田、三木については、私が両者の哲学についてそれぞれ簡略な図式的説明を示し、和辻については院生に同様な説明をお願いした。その説明の後、学生たちに質問を促すと、四人中三人は和辻についての質問であった。やはり三人の中では一番取っ掛かりが見つけやすいからだろうか。
 第二日目以降の課題を与えた後、残りの時間で、技術というテーマについて自由に感想を述べてもらった。それぞれ技術について持っているイメージが随分違うのが面白かった。
 今日26日の第二日目から28日の第四日までは、西田、三木、和辻のテキストをそれぞれ読みながらの議論になる。実りある演習にするべくこちらも準備したい。












































距離のパトスから回帰のパトスへ、戦争の技術から和解の技術へ

2016-07-25 00:00:01 | 講義の余白から

 自然との直接的・無媒介的合一が失われたところに人間存在が成立するということは、その人間存在に対して自然が環境として距離あるもの・超越的なものとして現れるということを意味している。それは同時に、自然に対して人間が距離あるもの・超越的なものとして対峙、対決、そして敵対することを意味してもいる。
 自然からの乖離という人間的条件から、環境として対象化された自然を客観的に認識するロゴスと対象化された自然から独立してそれに対して距離を取ろうとするパトスとが生れる。三木はこのパトスをニーチェが『道徳の系譜学』で打ち出した「距離のパトス」に比定しているが、三木の用法はニーチェ本来の用法とは大きく異る。この距離のパトスが、主体として環境から独立した人間とそれに対する環境との間の戦いの原理だと三木は考える(『全集』第八巻二四九頁)。この距離のパトスと対象を客観化するロゴスとの現実的統一が「戦術」としての技術である。
 しかしながら、たとえ主体として環境から超越した人間が環境に対して「戦闘態勢」に入ることから技術が生まれたのだとしても、技術の戦闘的側面のみを一面的に強調することは正しくない、そう三木は考える(二五二頁)。なぜなら、人間は環境から離れては生きていくことができないからである。自然からの疎外を経験した人間は、遅かれ早かれ、自然との失われた結びつきを再び求めるに至る。しかし、自然からの疎外を一度経験した人間は、対峙する環境と直接的・無媒介的に再び結合することはもはやできない。自然への即自的な回帰はもはや不可能である。
 ところが、まさにこの主体としての人間とそれに対峙する環境との直接的・無媒介的結合の不可能性から、自然との失われた合一を回復しようとするパトスが自然から乖離した人間に生まれてくる。三木はこの結合へのパトスに特に名前を与えてはいないが、私たちはこれを「回帰のパトス」と呼ぶことにしよう。
 距離のパトスは人間を自然の支配へと向かわせる。しかし、自然の支配は自然との恊働なしには成り立たないという自覚が自然への回帰のパトスをもたらす。この自覚が、自然への回帰のパトスとともに、自然と人間との協働的ロゴス化へと人間を向かわせる。
 この回帰的パトスと協働的ロゴスとの弁証法的統一を媒介するものもまた技術であり、この技術は、人間を自然に新たな形で適応させる「和解の方法」に他ならない(二五三頁)。この和解の方法としての技術の探究とその実践との原動力、それが優れた意味での構想力、つまり創造的構想力に他ならない。



















































技術の生み出す形そのものにおいて構想力の論理は展開されていく

2016-07-24 00:00:00 | 講義の余白から

 自然の中の形の生成にも技術的なもの・制作的なものを認める拡張された意味での技術ではなく、人間によって作成された機械的道具による技術という限定された意味での技術については、次の三つの契機を区別することができると三木は言う(『全集』第八巻二四一-二四二頁)。まず、自然法則の認識、次に、人間による目的の設定。そして、両者の総合としての物の実際の変化である。技術はかくして物の形を生産する。
 この技術的な形は、理論的なものと実践的なものとの統一、一般的なものと個別的なものとの統一を表すという意味において、弁証法的なものであると三木は規定する。
 この弁証法という言葉は、当時の京都学派に限ったことではないが、ヘーゲルやマルクスから離れてそれを多かれ少なかれ自己流に使う者によって、その意味にかなり幅があり、それらの間に通底的な本義を認めることは極めて困難である。仮に共通する意味をそれらから取り出すことができたとしても、それはあまりにも漠然としていて、概念としての生産性に乏しいことだろう。したがって、それぞれの著作家がどのような意味で弁証法という言葉を使用しているのか知るためは、その使用例に基づいてそれぞれに固有の定義を引き出す必要がある。
 三木に関しては、『構想力の論理』第三章「技術」の中で技術の定義に即して使用されている場合、弁証法とは、現実の中でのロゴスとパトスとの創造的総合の論理のことである。
 もし自然法則の認識(ロゴス)と人間によって設定された目的(パトス)との総合の仕方が必然的に一義的に決定され得るとすれば、その総合は、発見されるものではあっても、発明されるものではない。しかし、ロゴスとパトスとの現実における総合の仕方は多様であり、一度総合が実現されても、その総合の形は別の新しい総合の形によって乗り越えられていく。このように現実のその都度の総合が発明であることが弁証法的ということなのである。
 ロゴスとパトスとの総合を新しい形において実現すること、それが技術である。したがって、技術は、上に規定した意味で、本質的に弁証法的である。現実の本質的な弁証法に他ならない創造的総合の論理は、技術が自らを現実に展開していくことそのことによって実現されていく。つまり、技術によって形が生み出されるということは、既に確立されている構想力の論理に従って技術が実践されているということではなくて、生み出される形そのものにおいて構想力の論理が現実そのものとして展開されているということなのである。













































発明の論理としての構想力

2016-07-23 00:05:32 | 講義の余白から

 来週の集中講義の準備の一環として、三木清の『構想力の論理』第三章「技術」からの摘録と注解を続ける。
 今日取り上げるのは、「技術の本質は発明にある」というテーゼについての三木の考察である。

発見されたものは新しいと云はれるにしても、元來既にそこにあつたものでなければならなぬ、それはただ覆はれてゐて發見される以前には我々に見えなかつたのみである。これに反し發明といふのは新しいもの、嘗て存在しなかつたものを作り出すことを意味してゐる。二つの場合ともに新しさが語られるにしても、發明は物を存在せしめるに對して發見は物を認識せしめるといふ區別がある。卽ち發明は創造であり、発見は顯示である。(『全集』第八巻二三八頁)

 発明は発見と区別される。発見は認識に関わり、発明は生産に関わる。もちろん、実際には、両者をこのように判明には区別できない場合も多々あることは三木自身認めている。発見があってはじめて可能になる発明があり、発明が発見をもたらす場合もある。そのような場合、両者は現実的に不可分である。しかし、両者を論理的に判明に区別することで、発明に固有な論理とはどのような論理か、という問いを立てることができるようになる。

發明の論理を明らかにするためには、これをその過程の運動そのものにおいて摑まなければならぬ。言ひ換へると、論議的思惟 pensée-discours が問題でなくて行動的思惟 pensée-action が問題なのである。或る批評的思惟 pensée critique が問題でなくて創造的思惟 pensée créatrice が問題なのである。(同巻二四〇頁)

 発明家はどのように考えるのか。

彼は行動人の如く思索する者である。彼は行動人の如くでありながら彼の態度はどこまでも科學的である。(同頁)

 このように発明家において思索と行動とを結び付けているのが構想力である。構想力の論理は、創造的現実に対して追思考的・事後的に基準を提供し、現実の理解を拘束するだけの統制的規則の体系ではない。

構想力はパトスとロゴスとを媒介するものとして發明の根源に立つてゐる。そして構想力は形を作り出すものとして發明の終極に立つてゐる。(同巻二四一頁)












































































構想力の論理は形の論理である

2016-07-22 01:04:03 | 講義の余白から

 三木清の技術の哲学の根本概念の一つは「形」(Form)である。

技術によつて作られたものはすべて形を有し、技術的活動そのものも形を具へてゐる。形の見られる限り、技術が見られることができる。自然も技術的であると考へられるのは、すべて生命を有するものは形を有するところから考へられるのである。生物の形は進化論者が云ふやうに生物の環境に對する適應として、それ故に主観的なものと客観的なものとの統一として生じたものと見られることができ、その限りそこに自然の技術が見られるのである。そして我々に依れば、かやうに形の見られるところに構想力の活動が見られ、構想力の論理は形の論理である。(『全集』第八巻二二七頁)

 構想力の論理が形の論理であるというとき、その形は必ずしも目に見える形に限定されるわけではないはずである。そのように拡張された意味での形に対しては、複数の次元にそれを分けて考察する必要があるだろう。しかし、この引用文にかぎって言えば、目に見える形という限定された意味で使われていると考えても理解に支障を来すことはない。
 形を有つとは、あるものが単独で他とは無関係に己の形を有つということではありえず、必ずや互いに己自身を他から区別する複数の形が相互限定することである。この相互限定は一定の法則に従って実行され、その法則はそれに従う複数の形によって共有される。自然の生成は形の相互限定の過程であり、その過程を一定の方向に限定的に実行するのが「技術」である。
 自然においては、主観と客観との対立がまずあってそれが技術によって解消され、その結果として主観と客観とが統一されるのではない。まったく逆に、ある形の自己限定が他の形を媒介として一定の仕方で実行されているとき、つまり、形が技術的に相互的に自己限定しているとき、より端的に言えば、構想力が働いているとき、自ら形を取り且つ他に形を与えようとするものとその形成を一定の方向に限定するものとがそこに統一されている。その自然的統一が破れるところに、主観と客観との分裂が発生する。構想力は、しかし、新しい形の下に再び統一を回復しようとする。