内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

どこに光を探しにゆけばよいのか

2020-10-31 23:59:59 | 雑感

 拘禁とは、「人の身体を比較的長期にわたり拘束すること」(有斐閣『法律用語辞典』第四版 2012年)である。現在私たちは、新型コロナウイルス感染拡大抑制のために公権力によってなかば拘禁状態を強いられていると言える。
 もちろん完全に自由が奪われているわけではないし、ある場所に監禁されているわけでもなく、これがお互いに感染から身を守るために現在可能な唯一の手段であるとわかっているから、大半の人は仕方がないと、溜息混じりにこの相対的拘禁状態を受け入れている。
 三月の外出禁止令のときとは違って、小中高は教室での対面授業を継続するから、万聖節の休暇明けの月曜日から、通学路と学校近辺にはそれなりに活気が戻ってくるだろう。森、公園、海岸も閉鎖されない。レストランでの食事はできないが、レストランからの持ち帰り、レストランによる宅配は可能である。公共サービスは継続される。
 しかし、さしあたり十二月一日までとなっている外出禁止令について、感染症の専門家たちは、期間が短過ぎると最初から指摘している。閣僚からも、今年のノエル、さらには新年も、これまでとは違った仕方で迎えることになるだろうという言い方で、禁止令の延長の可能性を示唆している。
 三月から五月にかけての外出禁止令のときは、冬が終わり、夏時間に切り替わり、春から初夏へと日が少しずつ長くなっていく季節の変化が落ち込みがちな心に光を注いでくれた。今回はその逆だ。コロナ禍以前も、十月最終日曜日に冬時間に切り替わり、日に日に日が短くなっていくことが実感される十一月に入ると、軽いうつ状態になる人たちが少なくないと言われていた。
 それでも、十一月下旬から灯り始めるノエルのイルミネーションの輝きとマルシェの活気とノエルを家族で祝うことが人々の心を暖めてきた。今年もイルミネーションは例年通りであろうと思うが、肝心の人の流れが戻って来なければ、その輝きも虚ろに見えるだろう。ノエルをこれまでのようには過ごせないだろうという不安は今から人の気持ちを暗くするだろう。コロナ禍とは直接の関係はないが、心を暗くするニュースにも事欠かない。
 ただ待っていても、心を明るくする光はどこからも差して来ない。では、どこに光を探しにゆけばよいのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


前回の外出禁止令がトラウマ化している学生たちの折れそうな心のケアの必要性

2020-10-30 23:59:59 | 雑感

 外出禁止令の発効が万聖節の休暇中のことだったので、ちょうど帰省中の学生たちもいれば、大学が遠隔授業に移行することを知って昨日急いで帰省した学生たちもいたようだ。そのうちの一人から同様な状況の学生たちを代表して、試験も遠隔で行ってほしいとの要望が早速に届いた。これは、大学当局が全学生に向けて、試験のみは大学で行う可能性があることを伝えるメールが送られたことに対する反応である。
 大学が全面閉鎖中だった昨年度後期の期末試験と学年末の追試の際に、遠隔で行われた試験で多数の不正行為があったので、教員の大多数は、少なくとも試験だけは、試験監督ができるように教室で行うことを強く望んでいることがこの通達の背景にある。それに、小中高では、万聖節の休暇が明ける来週月曜日からも教室での授業が継続されることになっているのであるから、大学だけ教室をまったく使えないというのも筋の通らない話である。実際、今回の外出禁止令では、前回と違って、教職員の大学の建物への立ち入りは禁じられてはいないし、実技や実験を必要とする授業に関しては教室で行うことが許可されている。
 試験を遠隔で行うかどうか現時点で決めるのは、したがって、時期尚早である。十二月一日までに状況が多少なりとも改善すれば、試験だけは教室で行うことを求める教員が多数派を占めることは間違いない。それに、前期末の試験期間は、ぎりぎり一月十一日の週まで遅らせることができるのだから、学生たちの上記の要求は性急に過ぎると言わざるを得ない。
 私がその文面から感じたのは、冷静な状況判断ができないほどに学生たちが不安に苛まれていることである。三月の大学封鎖のときは、学生たちにとっても教員たちにとっても天から降ってきたような突然の決定で、全員手探り状態で遠隔授業に移行せざるを得なかった。まったく前例がないことであったから、はじめは不安になる暇さえなかった。ところが、今回は、前回のことがトラウマになって、彼らは最初からひどく動揺してしまっているのだ。
 別の学生からは、ここ数日強いストレスに悩まされていることを吐露する長いメールが来た。少しでもストレスが和らぐことを願いつつすぐに返事を送った。
 また別の学生からは、母親が白血病に罹患しているとの知らせを受けて急遽実家に戻ったとのメールが届いた。「よりによってなんでこんなときに」と心が痛む。「大学の授業のことは何も心配しなくてよい。今は家族とともにお母さんの側にいてあげなさい」と間髪を入れずに返信した。
 遠隔での授業をできるだけ円滑かつ効果的に行うことも大事である。そのための投資もスキルアップも必要であろう。しかし、それだけが教師の仕事ではない。前回の外出禁止令のときも痛感したことだったが、学生たちの折れそうな心のケアもまた教師のミッションである。そう私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第二次外出禁止令発効前日 ― 長い冬の到来を前にして

2020-10-29 23:59:59 | 雑感

 気のせいかも知れないが、ストラスブールの街中の樹々の紅葉は例年よりも美しく見える。コロナ禍で人の移動が制限され、大気がその分清浄化されたことがその理由なのであろうか。
 春から夏へと向かう、外光を求めて体が自ずと動こうとする時期に家の中でじっとしていろと強制されるのは、天気が良ければ良いほど、苦痛である。秋から冬へと向かうこれからの季節、特に冬時間に切り替わる十月最終日曜日以降、日没が日毎に早くなるのが感じられる。それは毎年のことだが、外出が著しく制約され、ノエルのマルシェもないこの冬は、その日の短さがそれだけ辛く感じられるかも知れない。
 外出禁止令発効前日の今日、注文してあった本を本屋に取りに行き、少し遠くまで出かけないと買えない食材などの買い物を済ませておいた。食料品を扱うスーパーその他の店は、外出禁止令中も営業を続けるから、慌てることは何もないのだが、自転車でわざわざ遠くまで買い物に行くのは、多分気が進まなくなるだろうと、今日のうちに少し遠出をしておいたのである。
 三月中旬から八週間続いた外出禁止令のときは、その前にそろそろ散髪に行こうかと思ってはいたのだが、先延ばしにしているうちにカットサロンはすべて閉鎖になってしまった。四月後半から髪の毛がかなり鬱陶しくなってきたが、その時点ではいつまた再開されるかわからなくて、気分まで鬱陶しくなってしまった。それで今日、いつものカットサロンで思いっきり短くしてもらった。これで少なくとも二月は鬱陶しい思いをしなくて済む。
 水泳にも行った。明日からは、当然、プールは閉鎖である。少なくとも十二月一日まで続く外出禁止令下、前回の外出禁止令期間中と同様、毎日一時間ウォーキングする。家の中でもできる運動はあるが、私にはそれではどうも気分転換にならない。
 他方、それと矛盾するようだが、家の中で長時間じっとしていることはあまり苦にならない。一日の大半を机に向かって過ごし、ときどき窓外の色づいた樹々を眺めながら思索に耽ることができるのは、贅沢でさえあると思う。
 今年の冬は長い。その長い冬を「実りの冬」にできたらと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


再び外出禁止令発令

2020-10-28 23:59:59 | 雑感

 三十日金曜日の午前零時から、再び外出禁止令が発効する。さしあたり、十二月一日(火)まで続く。今年の三月十七日から八週間続いた第一回目の外出禁止令ほど厳格ではないが、日常の社会生活は、その活動が再び大きく制約される。
 マクロン大統領の演説では、細部についての十分な説明がなく、それについては、木曜日夜に予定されているカステックス首相の会見を待たなくてはならない。すでに明らかにされたことは、以下の通り。
 可能なかぎりテレワークを一般化する。ただし、公共機関の窓口、工場、農業活動は継続する。自宅外の仕事場で働く人たちの通勤は当然許可されるが、雇用主が発行する証明書が必要。外出禁止令によって仕事ができなくなった人たちには失業手当が支給される(ただし、条件や額はまだ不明)。保育施設、幼稚園、小学校、中学校、高校は、これまで通り、通常の保育と授業を継続する。集会は公的・私的いずれも原則禁止。家族の集会も最小限にとどめる。商業施設は、日常生活に不可欠な施設以外は閉鎖。レストラン・バーは閉鎖。老人ホームの訪問は許可される。病院での診察は継続。フランス国内の移動は、在住地方内に限られる(ただし、ヴァカンス地からの帰路は例外とする)。ヨーロッパ諸国の国境は開かれたまま。ヨーロッパ外からの入国は原則禁止(ただし、海外在住のフランス人は、PCR検査を受けることを条件に帰国可能)。ヨーロッパ外へ移動も禁止。万聖節の休暇中、墓参は許可される。埋葬は引き続き許可される。
 さて、大学はというと、万聖節の休み明けの十一月二日月曜日から全面的に遠隔授業に移行する。ここ二週間ほどの感染状況の急速な悪化からして、予想できたことであるし、三月のときのように何の準備期間もなしではなく、遠隔授業にすでに慣れているので、比較的冷静に受け止めている。中途半端にハイブリッド方式を強いられるよりは、負担は少ない。気持ちを切り替え、あと一日休息してから、遠隔授業への移行のための準備作業に入る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


樹木の哲学(二)― 樹木の沈黙の声を聴き取り、人間の言葉で表現する

2020-10-27 23:59:59 | 哲学

 樹木は自然の最初の実験室である。光化学の実験が実際にそこで行われ、太陽の光エネルギーを化学的に吸収し、地球を緑化した。人類が地球上に登場する前に成功を収めたこの樹木による大実験が人類の誕生の可能性の条件の一つである。
 人類を生かしている樹木の諸特性と無尽蔵性がそれとして人類によって認識されるようになるのは十九世紀末からのことに過ぎない。神話的世界像からも宗教的世界観からも解放され、樹木のものは樹木に返すことを人類ができるようになったのは二十世紀に入ってからだ。
 ところが、二十世紀後半から現在までの数十年間は、森林破壊の時代であり、その深刻化は地球の生態系を脅かしている。人類は自分たちのために一方的に樹木を利用することばかりを考えてきた結果として、自らの生の基盤を破壊しようとしているのだ。
 樹木に関する科学の最新の知見を謙虚に学びながら、哲学がなすべきことはなにか。それは、人間中心的な世界像を根本から問い直すことを私たちに促し続けている樹木の沈黙の声を聴き取り、それを人間の言葉で表現することである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


樹木の哲学(一)― 地球上の諸存在の共生の可能的形態を探究する哲学

2020-10-26 10:43:06 | 哲学

 「世界樹」という神話的世界像は世界各地の古代神話に見られる。世界は、一つの巨大な樹であり、天上界・地上界・地下世界はその樹の部分として互いに繋がっているというのがその基本的なイメージである。巨大な樹木に人間的次元を超越する神聖性を感じたことが世界樹神話を古代人に創出させたのだろう。
 樹木に対するこの神話的感性を喪失した近代人は、樹木の神聖性をもはやほとんど感じることができなくなってしまった。しかし、樹木の「形而上性」までもがすっかり見失われてしまったわけではない。詩人や作家や画家たちは、樹木への崇敬の念を忘れたわけではなかったし、樹木は彼らの芸術的想像力の源泉であり続けた。
 樹木は、つねに沈黙のうちに佇みながら、近代における人間中心的世界像の根本的な見直しを私たちにずっと促し続けてきた。樹木の驚異的な生態を明らかにしつつある現代の科学者たちは、その根本的な見直しの緊急の必要性を訴えている。
 近現代の哲学者たちの中にも、樹木が近代的な思考の枠組みを根本から問い直す存在様態であることに気づいていた人たちがいる。例えば、バシュラールは、万物を構成する地水火風すべてを統合しているものとしての樹木の形而上性を敏感に感じ取っていた。それは、しかし、樹木を形而上的なものの象徴として捉えるということではない。樹木そのものの形而上性に彼は気づいていた。
 樹木は、太古から、太陽の光エネルギーを光合成によって受容し、地上の万物の構成要素である地水火風を繋ぎ合わせ、それらを共存させ、世界を支え、世界が自らの内に新しい形を生み出すための場所と媒介を無償で贈与し続けてきた。
 樹木の哲学は、樹木を隠喩として用いて、概念を操ることではない。人類の生態とも動物たちの生態とも異なる樹木の生態を思考の生ける範型として、地球上の諸存在の共生の可能的形態を探究する哲学である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


愛着アプローチ ― オキシトシン欠乏社会の中で「なつかしい」場所を(再び)見いだすには

2020-10-25 23:59:59 | 読游摘録

 以下、岡田尊司の『愛着アプローチ 医学モデルを超える新しい回復法』(角川選書 2018年)から摘録し、それに若干の私見を添える。
 愛着(attachement)という現象に着目し、理論化したのはジョン・ボウルビィという精神科医である。この仕組みは人間だけのものではなく、哺乳類に共有される生物学的な仕組みである。愛着理論は、この生物学的側面を重視したことで、精神分析などの心理的なアプローチとは、決定的な違いをもつ理論となった。この理論は、一九七〇年代ごろにほぼ確立される。
 この理論によると、幼い子どもと、その子を特別な関心と愛情をもって世話をする養育者との間には、愛着という特別な結びつきが生じる。それによって幼い子どもは、養育者にいつもくっついていようとする。養育者もまた、子供が離れると、不安を感じて警戒することで、外敵や危険から守ることができる。
 愛着の働きは、それにとどまらない。安定した愛着の絆が生まれると、子どもは外の世界に対して関心を示し、探索行動をとるようになる。その結果、社会性や知的な発達が促される。安定した愛着を結んでいる親子においては、親が「安全基地 safe base」として機能している。
 愛着が親子関係においてとりわけ重要なのは容易に納得できることだ。しかし、それだけでなく、誰かとの関係において形成された愛着に基づいた安全基地があるかどうかは、誰にとっても安定した精神生活を送る上できわめて重要だろう。
 この安全基地とは、私たちにとって「なつかしい」場所である。「なつかしい」という情緒が自ずと湧き出て来る場所である。
 安全基地の条件として、応答性と感受性が重要である。応答性とは、子どもの反応に対して、的確に応えることであり、感受性とは、子どもの気持ちや意図を読み取ることである。高い応答性は、高い感受性があってはじめて可能になる。安全基地のこの二条件も親子関係に限定されるものではない。
 愛着理論は、精神分析とは本質的に異なる生物学的基盤をもつ理論であったにもかかわらず、精神分析の亜流のようにみなされ、精神分析の衰退とともに、過去のものとして忘れられていた時期もあった。
 愛着理論の復権の大きな要因の一つは、愛着の生物学的な仕組みが、分子レベルで解明されるようになったことである。オキシトシンというホルモンが親子や夫婦の絆を支えていることがわかってきた。さらに、二十一世紀になって、オキシトシンには、驚くべき働きがあることが解明された。社会性を高め、目を合わせたり、親密な感情を抱いたり、困っている人をやさしく助けたり、寛大に相手を許したりすることにも、またストレスや不安を軽減し、落ち着きを高め、じっとしていることにもオキシトシンの働きが関係していることがわかった。
 精神疾患がかくも多い現代社会は、「なつかしい」場所を喪失した、オキシトシン欠乏社会と言うことができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


うつ病化する現代社会をどう生きるか―認知行動療法と行動活性化療法の予防法的実践

2020-10-24 23:59:59 | 雑感

 岡田尊司の著書を立て続けに数冊読んで、つくづく現代社会の生きにくさを痛感させられ、こんな社会でうつや気分障害にならないほうが不思議だとさえ言いたくなる。私自身、自分自身について、このままだとおかしくなりそうだと思ったことは、ここ数年に話を限っても、一再ならずあった。
 そこへコロナ禍である。それまで特に問題なく家庭生活や社会生活を営んできた人たちだって、ちょっとおかしくなっても仕方ないような状況にすでに半年以上私たちは置かれている。それは私たちそれぞれが頑張って克服するなどというレベルを完全に超えている問題であり、それがいつまで続くかわからないという不確定性は、未来に希望を託すことさえ難しくしている。
 そのうえ、異なるものに対して、異を唱えるものに対して、社会がどんどん不寛容になっていることを示す事件が連日のようにメディアによって報道されている。コロナ禍に対して、社会全体として一貫した対応をしなければ、感染拡大を抑えることも、予防することもできないという状況が、それ以外の事柄についても、異なったものへの不寛容、さらには敵意を増幅してしまっているように思える。
 このような過剰な社会の同調化傾向は、社会全体のストレスを亢進させ、かつストレス耐性を低下させる。結果、社会全体がうつ状態に陥りかねない。
 うつを防いだり、うつから回復するためには、まず否定的な認知や堂々巡りの思考を止めることがとても重要だ。そのためにはどうすればよいか。
 一つは認知療法である。一九六〇年代初頭、若手の精神科医だったアーロン・ベックが創始したこの療法は、患者たちに、まず思考内容を書き留めさせ、それを患者と共に、物事の受け止め方という観点から吟味することからなる。否定的な認知を脱する第一歩は、それを自覚することだということである。
 この認知療法と、恐怖症や強迫性障害の治療として行われていた行動療法を組み合わせて誕生したのが、認知行動療法である。認知的に取り扱うだけでなく、さまざまな実践的トレーニングを組み合わせるのが認知行動療法の特徴である。
 しかし、認知療法に不可欠な記録が継続的にできない人たちもいる。そういう場合にも適用できる方法が、行動活性化療法である。行動を変えることで、間接的に、気分や考え方を変えようとするアプローチである。思考や感情は、行動と密接につながっていて、思考や感情を直接変えなくても、行動を変えることで、変化させることができることをこのアプローチは実証している。
 もし私が、辛うじてであれ、うつにも気分障害にも陥っていないとすれば、それと知らずにこれらの療法を予防策として自分で実践しているからである。つまり、このブログが認知療法に、授業で教師という役割を実践することが認知行動療法に、水泳とウォーキングが行動活性化療法に相当する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『神々の明治維新』・日本学術会議任命拒否問題・SNS時代の知的「権威」

2020-10-23 23:59:59 | 講義の余白から

 今日が前期前半最終日、明日から11月1日まで万聖節の休暇です(バンザ~イ)。毎年のことなのですが、九月一日の新学年開始から休みなしのこの最初の七週間が一年で一番しんどい。今年度は、その上、コロナ禍による特異な条件下でのスタートだったこと、学科内にこれまで経験したことのない問題が発生したことなどが重なり、ほんとうにきつかった。でも明日から小休止です(これって、権利ですよね)。
 今日の授業は、「近代日本の歴史と社会」と「メデイア・リテラシー」の二コマ。
 前者では、安丸良夫の『神々の明治維新 ―神仏分離と廃仏毀釈―』(岩波新書 1979年)の「はじめに」をゆっくりと読みながら、「神仏分離と廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた」という著者の主張の拠って立つところを説明していったが、いつになく質問が多く出て、学生たちが問題に対して強い関心を示していることがよくわかり、大変手応えのある授業であった。
 安丸良夫の文章は、彼らにしてみれば語彙・構文とも難度が高すぎ、一度読んだだけでは構文さえうまくとれない。そういうところで難儀させることがこの授業の目的ではないので、特に大事なところは一文一文、私が直訳あるいはわかりやすく意訳し、細部に拘る必要がないと判断した段落はさっとまとめ、その合間に解説を挟み、質問が出れば、その都度答え、新書にして十頁ほどを一時間二十分で読み終えた。
 「メデイア・リテラシー」では、日本学術会議の任命拒否問題を論じた上久保証人の論説「菅政権ばかりか、日本学術会議も「学問の自由」を守れていない現実」(『DIAMONDE online』10月6日)を取り上げ、日本で今何が問題になっているのかを考えさせた。はじめに、「安全保障関連法に反対する学者の会」の呼びかけ人の中の八人が任命拒否を批判する声明を発表する際に行った14日の記者会見の模様を報道するNHKのニュースを見せた。佐藤学学習院大学特任教授の声明読み上げ、小熊英二、内田樹それぞれの発言内容、益川敏英から寄せられたコメントについて、その都度ヴィデオを止めて、問題の所在に関わる重要な表現への注意を促した。
 論説の本文三段落読んだところで、任命拒否された六人のうちの一人、宇野重規東大教授の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社学術文庫 2019年 初版2007年)の補章「二一世紀においてトクヴィルを読むために」(文庫版で付加)の一部を参考資料として読ませた。この補章には、「SNS時代の知的「権威」」と題された節があり、それがまさに私が学生たち出した課題レポートの問題「SNS時代におけるメディアと一般市民との関係はどうあるべきか。具体例を挙げてあなたの考えを述べなさい」にとってよいヒントになっていたからだ。その節では、情報のやりとりが双方向的なSNSの時代において、旧来の情報発信側の権威が相対化された結果として、現在どのような事態が発生しているかという問題が取り上げられている。
 授業の後は、昨年後期に担当した近現代日本文学の授業で書かせた小論文について詳しくコメントを聴きたいという学生との面談。彼がその小論文で取り上げたテーマは、正岡子規と尾崎放哉における色による視覚的表現性。昨日読み直して準備したコメントを述べる。その後、小論文を離れて、文学研究・歴史研究の方法論の話になり、さらには日本語作文能力の向上のためのヒントなど話し、面談はほぼ二時間に及んだ。
 その後、新任教員との面談四十分ほど。前期前半が終わったところでの総括を行う。懸案事項はもちろん残っているが、なんとか大過なく前期前半は終えることができて、今、少し安堵している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夜間外出禁止令 ― 今、ここで、垂直方向に離脱する

2020-10-22 23:59:59 | 雑感

 とうとうストラスブールでも夜間外出禁止令(午後九時から午前六時まで)が発令されてしまいました。明日金曜日の二四時(つまり土曜日午前零時)に発効し、さしあたり六週間続きます。
 そればかりでなく、ストラスブールを世界的に有名にしているノエルのマルシェも全面的に中止になってしまいました。この中止による経済的損失は極めて深刻で、総額三〇〇億円に上ると言われています。マルシェそのものだけでなく、レストラン・ホテルその他この時期が稼ぎ時の業界にとっては、致命的な一撃になりかねません。もちろん、国、地方、県はそれぞれに支援するでしょうけれども、失業や廃業に追い込まれるケースも出てくるでしょう。すでに今年の三月半ばから八週間続いた外出制限令で窮地に陥っている業界にとって、今年のノエルは、挽回のチャンスだったのに、それが悪夢へと一転してしまいました。
 大学でも、学生たちの中に感染者が増え始めており、まだクラスターの発生には至っていないものの、現在の状況は予断を許しません。大学の全面閉鎖と遠隔授業への全面的移行の命令が発されないかぎり、対面授業は、教室定員の半分という制限を守るという原則に基づいて、さしあたり継続されます。出席学生数が百数十人以上の講義の一部では、年度初めからハイブリッド方式が採用されています。
 私の担当している授業に関して言えば、学部の一コマだけ、二グループに分け、それぞれ隔週で行っています。それ以外は全員出席の対面授業です。学部の残り二コマは、使っている教室の定員が五十八人であるのに対して、登録学生数は三十人なのです。幸い、毎回、少なくとも誰か一人は休んでくれるので、続けられています。「もし全員来たらどうしよう。欠席点あげるから、誰か一人に帰ってもらおうかな」と冗談で言ったら、すごく受けました。こんな笑い事で済んでいるうちはいいのですが。
 いつまで続くかわからない不安な状況下に置かれ続けるというのは、それだけで身心をじわじわと蝕んでいるのが我が身のこととしてわかります。そんな中で希望的観測に身を委ねることもできません。活路は、今ここで垂直方向に離脱することにあるように思えます。