内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

人間存在の根本的感情としての悲しみ(哀しみ)― 夏休み日記(30)

2015-08-31 00:00:00 | 雑感

 「楽しい」夏休みも今日で終り。私の今年の「夏休み日記」も今日が最後。ちょっと憂鬱で感傷的な気分である。
 上代文学の研究者になりたくて万葉集を懸命に勉強していた遠い昔、万葉集の権威の一人であった指導教授が、或る講義で、「慶びの歌に名歌少なく、悲歌に名歌が多い」と、一言仰られたのを、今もよく覚えている。
 人生経験に浅く、何事につけ未熟な当時の私(って、今も大して変わりませんね、情けないことに)は、「そういうものなのだなあ」と、ただ教授の宣われたことをありがたく拝聴するばかりであった。そんな私でも、悪戯に馬齢を重ねて幾星霜、辛い離別も幾度か嘗め、教授のお言葉の意味するところがひどく身に沁みるようにはなった。
 寿ぎの歌は儀礼的な場面でのそれが多く、個人的な慶びや喜びをわざわざ歌にすることは少ない。歌にしてみたところで、人の心にあまり触れて来ないし、響かない。それを聞かされた方、読まされた方は、「そりゃ、よござんした」とか、「おめでとうございます」などとしか、挨拶のしようがないではないか。
 恋は、本来的に、「会いたい人に会えなくて、独り悲しむ」ことだから、悲しいに決まっている。万葉集に「孤悲」と書いて「こひ」と読ませる歌があるのは、ただの言葉遊びではない。まだ日本人が固有の文字も持たない太古からSNSでのコミュニケーションがグローバルに氾濫する今日まで、どれほどの人たちが恋の悲しみを歌ってきたことだろう。
 人はなぜ悲歌に感動するのか。
 悲歌を聴くことで、あるいは読むことで、誰もが一つや二つは負った心の傷が癒されるからだろうか。私は、しかし、それは本当の理由ではないと思う。そんなことで癒される傷は、もともと大した傷ではないのだ。時が癒してくれるかも知れないし、何か新しい出会いがあれば忘れてしまう程度の傷なのだ。
 悲しみ(哀しみ)はもっと本質的な感情なのだと私は思う。悲しみ(哀しみ)は、喜び(慶び)の単なる反対感情ではない。喜び(慶び)が失われたときに発生する「ネガティヴ」なだけの感情ではない。「ポジティヴ」なアクションによって克服されるべき否定的な心理状態なのでもない。それは人間存在に固有な基底的な実存的感情なのだと私は言いたい。
 だからこそ、その感情を見事に言葉にした歌を聴くとき、或は読むとき、私たちは、深く心を動かされるのではないか。
 西田幾多郎が哲学の動機を「深い人生の悲哀」としたのも、決して西田固有の個人的経験にのみ由来する特殊な立場からではなく、人間存在にとって本質的な感情に呼応してのことだと私は考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ビンスワンガー『夢と実存』の新仏訳を読む ― 夏休み日記(29)

2015-08-30 17:58:01 | 読游摘録

 ビンスワンガーの『夢と実存』は、一九三〇年、Neue Schweizer Rundschau に論文として掲載されたのが初出である。 この論文が、フーコーによれば、「厳密な意味で現存在分析(Daseinsanalyse)に属するビンスワンガーの最初のテキスト」である(L. Binswanger, « Introduction », Le rêve et l’existence, trad. par J. Verdeaux, introduction et notes de Michel Foucault, Bruges, Desclée de Brouwer, 1954, p. 14-15)。一九五四年に出版された「夢と実存」の仏訳にフーコーは本文に倍する長さの「序論」を書いているが、これがフーコーの処女作であり、Dits et écrits 1954-1988, Gallimard の第一巻劈頭を飾っているのもこのテキストである。
 この「序論」を伴った『夢と実存』の邦訳は、早くも一九六〇年にみすず書房から出版されており、現在はその新装版(二〇〇一年刊行)が入手可能であるから、同書が日本でも息長く読まれていることがわかる。
 フランスでは、二〇一二年に、フランソワーズ・ダスチュール(Françoise Dastur)先生による新訳 Rêve et existence が Vrin からポッシュ版で出版された。この新訳には、訳者ダスチュール先生ご自身による「前書き」と二十頁を超える「序文」が付され、本文の後には、Elisabetta Basso による三十頁近い「後記」が付け加えられている。「序文」の目的は、論文「夢と実存」をビンスワンガーの思想全体の中に位置づけること、とりわけ、フロイトの『夢判断』との決定的な違いを強調し、フッサールとハイデガーからビンスワンガーが精神医学の方法として学んだこととそこからのビンスワンガー独自の現存在分析の展開を跡づけることである。それに対して、「後記」は、ビンスワンガーの現存在分析に対するフーコーの関係にまつわるこれまでの誤解を解き、「序論」以後のフーコーの思想の展開においてビンスワンガーの現存在分析が果たした役割をより積極的に評価し直すことをその目的としている。
 本文にこれらのテキストを全部合わせても百十頁ほどの小著だが、人間存在における夢の実存的意味をフロイトとユング以後の二十世紀精神史の文脈の中で考える上で、一つの出発点になりうる重要な文献であることに変わりはない。

人間的な現象のうちで昔からつねに解釈の対象とならねばなっかったと思われる現象があるとすれば、それはまさに夢である。ところが、この夢という現象は、どれほど人間が己自身について僅かのことしか知らないか、自分では統御できない諸力の支配下に夜間置かれているかを証示している。

S’il est un phénomène humain qui a depuis toujours semblé devoir être soumis à interprétation, c’est bien le rêve, qui atteste à quel point l’homme sait peu de choses de lui-même et se voit nocturnement soumis à des forces qu’il ne gouverne pas. (Rêve et existence, « Préface », Vrin, coll. « Bibliothèque des textes philosophiques », 2012, p. 9)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ジャン・コクトーが見たリルケの部屋の灯り、遙かなる友情 ― 夏休み日記(28)

2015-08-29 12:14:58 | 読游摘録

 一九〇五年九月半ば、リルケはロダンの秘書となり、パリ南西郊外のムドンにあった当時のロダンの住居兼アトリエに住み込む。そこで、ロダンが受ける作品の注文や書簡の整理と管理とをまかされる。しかし、翌年、書簡の扱いを巡ってロダンと仲違いがあり、五月半ばに解雇されてしまう。
 解雇後、リュクサンブール公園のすぐ近くの rue Cassette に一旦住まうが、一九〇六年七月末から一九〇八年四月末まで、ヨーロッパ各地を旅して歩く。その間、一九〇七年五月末から十月末までは、またパリに滞在している。
 一九〇八年五月一日、リルケは、現在はロダン美術館になっている le Palais Biron の一室に居を構える。これはロダンの勧めに従ったもので、それ以前に既に両者は和解していた。広大な庭がその正面に広がるこの広壮な邸宅は、当時、サクレ・クールの修道院の所有物件であったが、その管理者が邸の多数の部屋を賃貸していて、主に詩人や芸術家などがその借り手であった。ロダン自身、リルケに遅れてこの邸宅の主要部分を借り、そこをアトリエとすることになる。
 リルケと同時期にこの邸宅の住人だった一人に詩人のジャン・コクトーがいる。当時十九歳だったコクトーは、早熟の天才詩人としてすでに名声を得、文学サロンに頻繁に出入りしていた。当時まだフランスでは無名に等しかったリルケのことをコクトーが知る由もなかった。しかし、コクトーは、毎夜遅くまでランプが灯っている邸の隅の窓の一つに気づいていた。それはリルケの部屋から漏れる灯りだった。この邸宅の間借人である期間に、リルケは、『マルテの手記』の主要部分を書いている。
 一九三五年、四十六歳のコクトーは、Portraits-souvenir という回想記を出版している。その中で、コクトーは、当時すでに失われてしまっていた一九一四年以前のパリの文学的・芸術的・社交的世界を描き出している。それは、同時に、若き天才として時代の寵児であった自分の青春時代の回顧でもある。
 全部で十六章あるこの本の第十三章は、l’Hôtel Biron の思い出に割かれている。その最後の半頁にリルケについての思い出が記されている。より正確には、当時は誰の部屋だかわからないが毎夜遅くまで灯っていたランプの記憶が想起されている。それがリルケの居室だったことをコクトーが知るのは、ずっと後年のことである。
 コクトーは当時の自分について、「沢山のことを知っていると思い込み、うぬぼれた青春の手の施しようのない無知の中を生きていた。名声が私に勘違いさせ、挫折よりも質の悪い名声があることを、この世のすべての名声に匹敵する一種の挫折があることを知らなかった」と振り返っている。
 ずっと後になって、毎夜遅くまでランプが灯っていた部屋の住人がリルケだったことを知り、その頃のリルケに遙かなる友情をコクトーは抱く。リルケの部屋のランプが灯っているのをかつて見たことがコクトーを慰める。しかし、当時は、その灯りがその下で自分の思い上がりを焼き尽くせという合図だったことを理解することはなかった。

Longtemps, longtemps après, je devais savoir quelle était la lampe qui veillait toutes les nuits derrière une fenêtre d’angle. C’était la lampe du secrétaire d’Auguste Rodin, M. Rilke. Je croyais savoir beaucoup de choses et je vivais dans l’ignorance crasse de ma jeunesse prétentieuse. Le succès me donnait le change et j’ignorais qu’il existe un genre de succès pire que l’échec, un genre d’échec qui vaut tous les succès du monde. Et j’ignorais aussi que l’amitié lointaine de R. M. Rilke me consolerait un jour d’avoir vu luire sa lampe sans comprendre qu’elle me faisait signe d’aller y brûler mes ailes. (Portraits-souvenir, Grasset, coll. « Les Cahiers Rouges », p. 137)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


他の詩人の詩を筆写する、「声」の到来を待つ、吉増剛造氏の場合 ― 夏休み日記(27)

2015-08-28 00:44:49 | 読游摘録

 昨日話題にした、詩を書き写すという行為が、単に詩作のための修練の一つとして行われるのではなく、言葉の生誕の秘跡に与る、ほとんど宗教的祈りとも言っていいような経験になりうることがリルケを読んでいるとわかる。
 しかし、他の詩人の詩を書き写すという行為が、一方で、その詩人への鎮魂の祈りであり、他方で、詩的創造の現場でもあることを、今年三月のアルザス・欧州日本学研究所(CEEJA)での「間(ま)と間(あいだ)」についてのシンポジウムの開会講演者であった吉増剛造氏の詩的実践から教えられた。
 二〇一二年三月十六日に吉本隆明氏が亡くなったあと、吉増氏は、吉本隆明の初期詩篇『日時計篇』の書写を始められたという。その詩集の全編四七九篇を、ほぼ毎日一篇ずつ、一年半近くかけて、筆写されていったという。そして、講演時現在では、二回目の全編筆写に取り掛かられているところであった。それら筆写された詩篇群の一部を講演会場である CEEJA までわざわざ日本から持ってきてくださった。張り合わされた四つ切の和紙の上に小さな字で隙間なく『日時計篇』の詩篇が書き写されていた。それは時に苦痛をさえ伴う行為であるという。自らの筆で記す文字によって紙の上を満たしていく言葉と言葉の裂け目から生まれてくる新しい「声」(吉増氏はしばしばこの言葉を使う)を詩人は聴き取ろうとする。
 その筆写の過程を説明しているとき、それまでは穏やかな調子で、ときにはユーモラスな語り口をも交えながら話されていた吉増氏が、「体を使わなければ駄目」と、そこだけは語調鋭く、おっしゃられたのが今も耳朶を打つ。
 詩は、頭で考えるものでないのはもちろんのこと、気分に任せて感情を歌うものでもない。詩は、日々の身体的実践の中から生まれてくる言葉を聴き取ることだ、と氏は仰りたかったのだと思う。他の詩人の詩を筆写するという身体的行為もまた、その実践の一つの形なのである。
 詩の筆写などという、とても時間がかかり、しかも、長時間継続すれば身体的にも苦痛を伴いかねない行為などに、一体何の意味があるのだ、まったくの時代遅れだ、と憫笑する、先端技術に淫した若い人たちもいるかもしれない。そんな行為はまったく非創造的だと嘲る、いわゆる「クリエイター」たちもいるかもしれない。
 私は、しかし、吉増剛造氏の実践に深く感動せざるを得なかった。詩の言葉の生誕の瞬間を捉えるために詩人がどれほどの身体的実践を繰り返さなければならないのか、それに慄きさえ覚えた。ただ言葉が生まれて来るのを待つのでもなく、言葉に無理強いをするのでもなく、言葉と言葉との裂け目から「声」が聞こえてくるのを、その到来を、つねに身体を働かせつつ、辛抱強く、注意深く、待つ。
 詩人の生きる姿は、私たちが日々消費する言葉の世界がいかに言葉にとって非本来的な頽落形態であるか、私たちに気づかせる。
 より大きな情報量をより速く処理することを強いられ、それを競うことで、現代の私たちの精神はすっかり疲弊しているように私には見える。
 しかし、それでもなお、たとえ詩人ではなくても、詩の言葉を筆写することによって、私たちもまた、本来的な言葉の到来を待つ姿勢を学ぶことが、まだ、できるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


祈りの言葉を書き写すとき、言葉の生誕の秘跡の communion ― 夏休み日記(26)

2015-08-27 09:45:46 | 読游摘録

 リルケの『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』の中に、パリで悲惨な孤独の中に生きているマルテがボードレールの小散文詩集 Le Spleen de Paris(『パリの憂愁』)の中の « À une heure du matin »(「夜の一時に」)の終りの一節を、「祈りの言葉」として、何度目かに自ら書き写そうとする場面がある。

ぼくのまえには、ぼく自身が書いておいた祈りの言葉がある。ぼくは、その言葉をみつけだした本から、その言葉を書き写したのだ。その言葉がぼくの身近にあるものとなって、ぼく自身の言葉のように、ぼくの筆から生まれてくるようにと、ぼくは書き写した。ぼくはいま、もう一度それを書いてみよう。ぼくの机のまえにひざまずいて、書いてみよう。読むよりも書いたほうが、その言葉をいっそうながく自分のものにしておけるからだし、ひとつひとつの言葉がなが続きし、余韻を残してゆっくりと消えていくからだ。(塚越敏訳『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』、未知谷、2003年、57頁)

 この直後に、ボードレールの「夜の一時に」の最後の段落がその作者名を示さずに引用され、さらにそれに続けて、ルターの独訳版旧約聖書「ヨブ記」第三十章から、同じく出典を示すことなしに、抜粋的に引用されている。
 『手記』執筆期間中のリルケのルー・アンドレアス・サロメ宛の書簡を読むとわかることだが、これらの箇所は、リルケ自身によってパリ滞在中夜ごとに繰り返し読まれ、ときに声に出して読まれた。そして、おそらく、リルケ自身、マルテがそうしたように、何度か自らそれらの箇所を書き写したはずである。
 上記の引用箇所からわかるように、書き写す時間そのものの経験、書き写すことによってのみ得られる言葉の時間経験がある。一つ一つの言葉をその作品の中での固有の繋がりのままに書き写すことによって、読むだけのときよりも言葉がゆっくりと生動し、それらの言葉を書き写す手と書き写すときの姿勢(「机のまえにひざまずいて」)によって、それらの言葉は、書き写す者にとって、文字通り、より身近なものとなる。
 ついには、それらの言葉が自分のうちから生まれてくる「祈りの言葉」となることを願いつつ、書き写すこと。それは、単なる一つの文学受容経験に過ぎないのではなく、作品創造の内的経験へと参入することを可能にする秘鑰という特殊な経験には限定されず、言葉の生誕の秘跡に与る « communion »(聖体拝領)とでも呼ぶべき、それもまた一つの « exercice spirituel » なのだと私は考える。
 ボードレールの「夜の一時に」の最後の段落の原文と人文書院版『ボードレール全集』第一巻に収められた福永武彦の美しい邦訳(未知谷版の塚越敏訳は福永訳をそのまま使っている)を掲げておく(但し、福永訳には、« corruptrices » を « le mensonge » にもかけて訳すという誤りがあるので、そこは訂正してある。因みに、この箇所に限って言えば、岩波文庫版の望月市恵訳も正確さに欠ける。新潮文庫版の大山定一訳が三つの訳の中では一番正確である)。

Mécontent de tous et mécontent de moi, je voudrais bien me racheter et m’enorgueillir un peu dans le silence et la solitude de la nuit. Âmes de ceux que j’ai aimés, âmes de ceux que j’ai chantés, fortifiez-moi, soutenez-moi, éloignez de moi le mensonge et les vapeurs corruptrices du monde ; et vous, Seigneur mon Dieu ! accordez-moi la grâce de produire quelques beaux vers qui me prouvent à moi-même que je ne suis pas le dernier des hommes, que je ne suis pas inférieur à ceux que je méprise.

すべての人に不満であり、また僕自身にも不満である。今や夜の静寂と孤独との中にあって、僕は自らを償い、多少の誇りを取り戻したいと願う。僕がむかし愛した人々の魂よ、僕が嘗て歌った人々の魂よ、僕を強くし、僕の弱さを支え、世の虚偽と一切の腐敗した臭気とを僕から遠ざけてほしい。そして爾、我が神よ、僕が人間のうちの最も末なる者でなく、僕の卑しむ人たちよりも尚劣った者でないことを自らに証するために、せめて数行の美しい詩句を生み出せるよう、願わくは慈悲を垂れ給え。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本語の歌が心に沁みるとき ― 夏休み日記(25)

2015-08-26 06:20:16 | 私の好きな曲

 十九年前の留学当初は、日本語の本を読むことを自分に禁じた。ここはフランスである、フランス哲学を勉強しに来たのだ、日本語は一旦捨てなくては、と気負った。話す機会の方は、一緒に来た家内と二歳半の娘との家庭内の会話があり、娘を日本語補習校に通わせるようになってからは、そこでの父母たちとの会話もあったが、日本語の本を読むことは最初の二年間はなく、ひたすらフランス語を読んでいた。哲学の専門書ばかりでなく、文学作品、歴史書、人文科学や自然科学など様々な分野の啓蒙書、新聞、雑誌、毎日のように郵便受けに投げ込まれるチラシや広告の類まで、フランス語の勉強のために読んだ。
 留学三年目からは、日本学科で教えるようになったから、再び日本語を読むようになった。担当した古典文法入門のために、特に古典をよく読んだ。フランス哲学を勉強し始める前に、上代文学、特に万葉集を数年間勉強していたから、古典を読むことは故郷に帰ったような喜びを与えた。しかし、博士論文を書き終えるまでは、そのために必要な日本語文献を読むのが主で、日本語の本を楽しみとして読む時間はほとんどなかった。
 今は、勤務大学の日本学科の図書室に行けば、文学や歴史を中心に、日本語の本が数千冊あり、自由に借り出して読める。アルザス・欧州日本学研究所には、三万冊の日本語の蔵書がある。それに、学生たちと演習や講義で読むのは、日本語のテキストである。だから、仕事上でも日本語の文章に日常的に接するようになった。
 しかし、日本語の歌となると、また話は別である。普段はクラシックばかり聴いているが、ときどき、日本語の歌が無性に聴きたくなる。幸いなことに、今は、ネット上でいくらでも音源が入手できる。でも、もうちょっといい音で日本語の歌が聴きたいと思う。
 そんなわけで、この夏の帰国中に買ったCDが数枚ある。それらの大半は、私にとって思い出深い曲。正直に言うが、それらを聴いていると、いろいろな思い出が心に湧き出して来て、ときに涙を禁じ得ない。
 他方、それらのCDで今回初めて聴く曲も少なくなかった。それらの曲は、新鮮、かつ限りなく懐かしい。ここ数日、毎日聴いているのが、岩崎宏美のカヴァーアルバムの第二弾 『Dear Friends II』(2003年)。どの曲も、曲そのものがいいのは言うまでもないが、しっとりと情感を込めて歌い上げる岩崎宏美の見事な歌唱力によって新たな息吹が吹きこまれている。アレンジも、曲想と歌い手の資質とをよく活かしている。とりわけ、オリジナルはちあきなおみが歌った飛鳥涼(現在の彼がどうであろうと、それは、関係ない)の作詞・曲「伝わりますか」と中島みゆきの作詞・曲「恋文」とは、心に深く触れた。それぞれ、そのリフレインはこうである。

今も たどれるものなら もう一度 もう一度
全てを無くす愛なら あなたしかない
さびしい夜は 娘心が
悪戯します
                             「伝わりますか」


恋文に託されたサヨナラに 気づかなかった私
「アリガトウ」っていう意味が「これきり」っていう意味だと
最後まで気がつかなかった
                             「恋文」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ヴァカンスも終わりを告げようとしている ― 夏休み日記(24)

2015-08-25 09:20:28 | 雑感

 年々フランスの大学の新学年度開始が早まっている。今年などは九月一日からで、こうなるともう小中高と一緒である。もっとも最初の週は、« pré-rentrée » と言って、新入生を対象としたオリエンテーション週間なので授業はない。しかし、そのオリエンテーションに教員として出席しなくてはならないプログラムがあるから、新年度の仕事始めには違いない。
 前任校でもだいたい同様であったが、さすがに九月一日からということはなかった。もちろんこれは夏休み前からわかっていたことだし、学年度の始まりが早い分、実質的な学年度の終りも早い。授業など四月半ばに終わってしまう。その後は追試だけであるから、それを受ける必要のない優秀な学生は、五月から八月末までの四ヶ月間大学に来る必要がないわけである。教員の方は、採点やら成績判定会議やらで六月末か七月の頭まで仕事はあるが、講義は四月半ば以降まったくない。
 こんなに早まった理由の一つは、ヨーロッパ諸国で新学年開始時期を統一し、学期ごとの学生たちのヨーロッパの大学間での移動を容易にするためということであったが、フランス国内でさえ必ずしも足並みは揃っておらず、ましてやヨーロッパ間ではなおのことで、そうなると一体何のために早めているのかわからなくなる。それでも、実質的な年度末後の四ヶ月間をいろいろ有効な仕方で活用することが学生にも教員にも可能になっているという点では、このようなカレンダーに意味がないわけではない。
 ただ、気分的には八月末まではなんといってもヴァカンス気分が支配的であり、その翌日からさっと勉強モードや仕事モードに切り替えるのは学生にとっても教員にとっても容易ではない。授業開始の九月第二週目になってもまだ調子が出ないのが普通である。学生たちは、その体は教室にあっても、気持ちはまだヴァカンス気分を引きずっていて、授業によく集中できていないのが彼らの顔を見ているとよくわかる。
 などと他人事のように言っているが、私自身、毎年のようにこの時期になると、「ああ、もうヴァカンスも終わってしまうのか」と、少し悲しく、憂鬱な気分になる(贅沢言ってますね)。今朝プールの常連の一人が私を見かけると、« Fini(es), les vacances. »(「ヴァカンスも終りだね」)と声をかけてきた。
 書斎の窓外正面に見える隣家の林檎の木は、赤く色づき始めた実をたわわに実らせている。その一枝が実の重みでこちらの住居の敷地内まで垂れ下がっている。樹々の幾層にも重なった緑葉のカーテンの向こうから東南東向きの窓越しに机と本棚の上を揺らめく朝日は、夏休み前は窓の左隅から斜めに射し込んでいたのに、今は斜め前から煌めいて眩しい。プールで泳ぎながら空を見上げると、天高く流れる雲はもう秋の気配を告げている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


やっとのことで十年有効の滞在許可証取得 ― 夏休み日記(23)

2015-08-24 10:46:56 | 雑感

 一時帰国中に新しい滞在許可証の交付通知が届いていた。今朝プールで泳いだ後、その足でバ=ラン県庁にその新しい滞在許可証を取りに行ってきた。
 今回の申請にあたっては、これまでの滞在身分である三年半有効の「学術研究」(« scientifique »)と十年間有効の「在留外国人」(« résident »)との両方の申請をほぼ同時に行った。後者の方が当然のことながら審査が厳しく、時間もかかるので、まずは確実に交付される前者を取得しておいて、後者の審査結果を待つのがいいだろうという大学の担当者の助言に従ったのである。
 結果として、十年間有効の滞在許可証がフランス滞在二十年目にしてようやく取得できた。これで、これから定年までの十年間、滞在許可証の更新のために書類を揃える煩わしさから解放されたのである。
 四年前、前任校在任中に、一度パリで「在留外国人」の許可証を申請したことがある。このときは審査で拒否された。拒否理由を説明するのに、窓口の担当者ではなく、その上司らしい女性がわざわざ説明に出てきたが、「家族の一部が日本に住んでいるから、完全なフランス居住ではない」というのが主な理由であった。
 しかし、私はその時点ですでに六年間フランス国家公務員としてフランスの大学の正教員として働いていたのである。要するに、何とか難癖をつけて許可証を発行すまいという意図がありありと覗えた。フランスの国立大学で正教員として働いており定年まで勤めるつもりでいる者に十年有効の滞在許可証を発行しようとしないフランス国家に、私はそのとき深い怒りを感じた。パリではことのほか取得が難しいということももちろんあっただろう。
 今日、もともとそこに戻って来たかったストラスブールでその許可証を取得することができた。これからの十年間、この街でしっかり働かせてもらおう。
 今晩は少し高いワインを買って祝杯を挙げることにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


誕生日に思う人生の起承転結 ― 夏休み日記(22)

2015-08-23 13:04:33 | 雑感

 自分の人生に自覚的に起承転結をつけることなどできないかもしれない。あらかじめストーリーを考えておいて、その通りに生きることなど、もちろんできない。もしできたとしても、そんな「思い通りの」人生は、きっと面白くないだろう。
 しかし、ある時、ふと、それまでの自分の人生を振り返ってみて、自ずとそこにいくつかの区切りがあったことに気づくということはある。それらの区切りがこれからの人生へのある視角を開くということもある。
 何年か前から、それまでの自分の人生の大きな区切りを踏まえて、今日の自分の誕生日を、新しい、そして最後の、大きな区切りにしようと思い決めていた。今日何か特別な出来事があったわけではない。それに、本人がそう思い決めたところで、その通りになる保証などどこにもない。
 しかし、高校を卒業し大学に入学した年の夏に十九歳なり、三十八歳になった翌月にフランス留学、そして今年の九月でフランス滞在期間が丸十九年になることに気づいたとき、これら三つの十九年間をそれぞれ私の人生の「起」「承」「転」に対応させ、今日の誕生日以降に残された時間を自分の人生の「結」にしようと思い決めたのである。
 もちろん、そう決めたと私独りでいくら力んだところで、これから何が起るかわからない。「結」のつもりが、ただただ「転々」としていくだけに終わるかもしれない。あるいは、明日あっけなく幕が降ろされてしまうかもしれない。出来事は私の意志を超えて到来する。
 しかし、これからどれだけ残されているのかわからない人生の時間を「結」として生きようと決め、それを自覚しつつ生きるのとそうでないのとでは、自ずと生き方に違いが出て来るだろう。
 人生は、文章のように書き直すことができないし、推敲もできない。これまでのすべての出来事は、それをなかったことにすることはできない。一度も後悔したことがないと言えば嘘になる。
 一日一日を生きることそのことが、たとえそれが拙い仕方であったとしても、自分の人生を「書く」ことなのだと思う。今日から、自分の人生の「結」を、この世に留まることを許された最後の日まで、「書いて」いく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ゴッホ終焉の地 Auvers-sur-Oise 訪問記 ― 夏休み日記(21)

2015-08-22 12:32:06 | 雑感

 今日の記事は、ストラスブールに向かうTGVの中で書いている。
 昨日は、午前十時に北駅で待ち合わせて、H線で Pontoise までまず行き、そこで Persan Baumont 行に乗り換えて Auvers-sur-Oise の一駅手前の Chaponval 駅で下車。この駅で降りたほうが、Maison du docteur Gachet(「ガシェ医師の家」)に近い。徒歩十二三分ほど。この家からの眺望は、ゴッホばかりでなく、セザンヌによっても描かれている。入場は無料。
 そこから Château d’Auvers-sur-Oise へ。ここは、近年「印象派の時代への旅」と銘打って印象派の歴史的紹介に力を入れていて、ヴィデオ・写真・模型・当時の道具の展示等を巧みに組み合わせたその館内は、訪問者を飽きさせない。庭園からの眺望も悪くない。入場料は大人 14€25。
 次に見学したのは、ゴッホが一八九〇年五月二十日から七月二十九日までの生涯最後の二ヶ月余りを過ごした旅籠 Auberge Ravoux の二階の部屋。建物全体は現在 Maison de Van Gogh(「ヴァン・ゴッホの家」という名のゴッホ記念館になっている。ゴッホがそこで寝泊まりし、息を引き取った部屋は、当時のまま保存されている。訪問者たちは、わずか7m²で天井に小さな明かり窓があるだけのその部屋の小ささと質素さに驚く。その部屋の中でガイドの説明を聴く。
 その最後の二月余りの間、ゴッホは毎朝五時に起きて、画を描きに出かけ、午後九時にレストランに食事を取りに戻り、その後自室で弟テオへの手紙を書き、就寝という毎日を過ごした。この二月余りに八十枚近い画を描く、つまり一日一枚を上回るという驚異的な創造力を発揮する。その中に今日誰もが知っている名作の数々が含まれており、有名な L’Église d’Auvers-sur-Oise「オーヴェールの教会」の画などは、なんと二時間で描き上げたという。
 「ヴァン・ゴッホの家」の見学を終えた後、そこから徒歩数分のところにあるオ―ヴェール教会を訪ね、さらにその教会から徒歩四五分ほどの高台にあるゴッホ兄弟が隣り合わせに葬られている墓地を訪ねる。
 Auvers-sur-Oise 駅から乗る帰りの電車を待つ間、その駅の脇にある元は倉庫らしい建物とそれに接続する形で連ねられた三両の古い電車の車両の中にありとあらゆるジャンルの本がところ狭しと並べられた、 « La Caverne aux livres »(「本の洞窟」)という名の何とも不思議な古本屋を覗いてみる。訪問客は私たちの他にも二三人いたが、店主はどこにも見当たらない。そろそろ電車の時間が迫ってきたからと帰りかけると、髭をたくわえているがまだ若そうな店主らしき人がどこからか戻ってきたが、すぐに二階に上がって、また姿を消してしまった。
 往路と同じように乗り換えて、パリ北駅に戻り、昨日と同じベルヴィルのタイ料理レストランで夕食。昨日同様、いつも変わらぬ美味しさ。十一時半頃まで楽しく会食。