内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『君の膵臓を食べたい』の「を」は「が」に置き換えられない理由

2018-11-30 19:22:01 | 日本語について

 昨年大ヒットした映画の一つ『君の膵臓を食べたい』を最初に観たのは昨年末の帰国便の中でだった。いい映画だと思った。今年の一月には日本版のブルーレイも購入して、以来ときどき観る。今回は、授業で使うために、昨日もう一度全編を特に言葉遣いの細かいところに注意して観た。
 授業では、決して本人の名前で相手を呼ばずに「君」と呼びかけ続ける微妙な距離感に注意を促すなど、一つ一つの言葉がよく選ばれて使われていることを特に話題にした。
 タイトルはそれだけで十分にインパクトがあるけれど、タイトル中の助詞「を」を別の助詞に置き換えることが文法的にはできるが、それは何ですか、と学生たちに聞いたら、即座に「が」という正解が返ってきた。では、この文で「を」を「が」に入れ替えると、どのように意味が変わりますか、と聞くと、返事が返ってこない。ちょっと難しかったようだ。
 しかし、たとえ文法的には可能でも、ここは「が」では駄目なのだ。それでは台無しになってしまう。「が」を入れてしまうと、「何が食べたいか」という問いに対する答え、あるいは、そうではない場合でも、食べたい対象が主語として前面に押し出されてしまう。ところが、主人公の春樹は、「僕は君になりたい」という表現の代わりに「君の膵臓を食べたい」と桜良にメッセージを送ったのだから、膵臓そのものが願望の対象ではない。「君の膵臓を食べる」=「君になる」という等式が成り立つかぎりおいて、この表現は、オリジナルな愛情表現たりえている。したがって、ここの「を」を「が」に置き換えることはできない。













いまさらながら、手書きの大切さについて

2018-11-29 23:59:59 | 日本語について

 日本学科に勤めていながら、誠にお恥ずかしい話だが、手書きで日本語を書くのは学生たちの作文を添削するために赤字を入れるとき以外、めったになくなってしまっている。講義の準備のための覚書や研究発表の準備ノートには、日本語を書きつけることはあっても、それらは、ほとんどの場合、単語の羅列かばらばらな短文であり、せいぜいのところ二三行の断章のごときものにとどまる。
 もういったい何年、手書きで文章を書いていないだろう。ちょっと思い出せないくらいだ。
 文章を書くことは、ご覧の通り、拙ブログの記事を書くという形で一日たりとも休んだことはないが、同じことを手書きだったらできたかと問われると、まったく自信がない。私は初期のワープロから使っているから、かれこれ三十数年、機械で文章を書くのが習慣になってしまっている。
 今ではまったく当たり前のことになってしまっているローマ字変換入力というのも、日本語を書くのに日本語とは無縁なローマ字を介するという、考えてみれば奇妙な方式だ。変換ミスをしないかぎり、ローマ字表記そのものは画面には現われてこないが、叩いているキーボとにはひらがなもカタカナも漢字もないし、私の使用しているPCはフランスで購入したものだから、キーボードの文字配列も日本語入力のときとフランス語入力のときで違う。いずれにせよ、叩いているのはアルファベットであって、日本語の文字ではない。
 このような身体的動作は、漢字仮名交じり文を、毛筆とは言わないまでも、万年筆で綴ることとはまるで違った指使いであり、腕の位置であり、上体の姿勢であるから、手書きの場合と脳の働き方も違うであろう。
 たとえ学生の作文の添削であっても、いやそうであるからこそ、学生たちに読みやすく、できればお手本になるような字で書こうとするから、一字一字のバランスにも気を使って丁寧に書く。そうしてうまく書けたときは、そのうまく書けた自分の字に満足を覚えることもあるし、赤がいっぱい入った自分の作文を見て、ショックを受けるどころか、「キレイだ」とかえって喜んでくれる学生もいるくらいだが、こういった経験はPCでは当然ありえない。
 書の美などという大げさなことがいいたいわけではないが、短い文章でいいから手書きで丁寧に書くという習慣を復活させたいと思っている。












覚醒した実存的態度としての〈来るものなくして待つ〉こと、あるいは哲学的世迷言

2018-11-28 23:59:59 | 哲学

 文学的想像力を刺激するのは、どこの誰でもありうるような一般的な〈人〉であるよりも、ある具体的相貌をもった〈男〉あるいは〈女〉であるのが普通であろう。一昨日の記事の中で話題にしたのは、日本古典文学の典型的形象の一つとしての〈人待つ女〉であった。これは、〈人待つ男〉とも〈人待つ人〉とも入れ替え不可能である。
 と、ここまで書いたときは、いくつかの文学作品を例に挙げながら〈人待つ女〉について書くつもりでいた。ところが、自分でも驚いたことに、突然、以下に記すような哲学的世迷言が頭に閃いた。
 来ないとわかっている人を待ち続けることに何の意味があるのか。到来することはけっしてないとわかっている出来事を待ち続けるのは愚かしい執着でしかありえないのか。そのような態度は何らかの精神疾患あるいはそれへの傾性の徴標でしかないのか。
 確かに、そのような場合もあるだろう。しかし、〈待つ〉ことそのことが一つの実存的態度でありうる場合はないであろうか。それは、しかし、人智では計り知れない奇跡の可能性を信じるということとも、来世あるいは天国での成就や救済を信じる厭世的態度とも違う。むしろ、一切の期待を放棄しつつ、ただ待つこと、待ち続けて死ぬこと、死んだらそれっきり、ということである。それでは、待つことにさえならないのだろうか。
 この来るものなくして待つ態度は、見出されるものなくして探す態度と合わせて、あるより根本的な実存的態度のそれぞれ受動相と能動相として捉えることができないだろうか。












内なる他者としての自然を発見する判断主体 ― 青木正次訳注『雨月物語』「浅茅が宿」宮木歌「考注」より

2018-11-27 23:59:59 | 講義の余白から

 講義の準備として『雨月物語』巻之ニ第一話「浅茅が宿」をもう何度目かに読み直していて、またしてもその怪異の世界に引き込まれてしまった。『雨月物語』が今日でも少しも色褪せることのない怪しいほどに吸引力をもった物語世界を展開している作品であることを今一度再確認することになった。
 私の手元には、四冊の文庫版『雨月物語』がある。文庫版とはいっても、いずれも専門家の手になる信頼の置ける校訂版である。初版の刊行年順に上げれば、角川ソフィア文庫版(1959年)、ちくま学芸文庫版(1980年)、講談社学術文庫版(1981年)、岩波文庫版(2018年)の四冊である。最新の校訂版である岩波文庫版は、本文・脚注・解説だけだが、それ以外の三冊は現代語訳付きである。そのうちもっとも詳細な注解が施されているのは青木正次訳注の講談社学術文庫版。
 昨日の記事で引用した井上泰至著『雨月物語の世界』を読んでいるときにも懐いた感想だが、『雨月物語』にはそれを研究する者に何か哲学的とも言えそうな考察へと誘う魅惑があるようだ。
 例えば、青木正次が「浅茅が宿」の宮木の遺した歌「さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か」(権中納言敦忠卿集に見える歌。『続後撰和歌集』には第三句が「慰みて」の形で見える)の注解を読んでみよう。

「さりともと思ふ心」は男が約束を果たさなかったけれども、なお望みをつないで帰り来る約束の果される日を期待する心で、それは男女関係の自然な情愛に発する。そういう自分の内なる自然心に、ついずるずるとひかれて、結果的に省みれば欺かれたことになった、と止むをえざる我が心の必然を嘆き諦めた歌である。自分の生をそういうふうに、内なる自然に引かれてきたわが心の軌跡として振り返り、認めたもの。(143頁)

 ここまでは、文学作品中の歌の注釈として特に変わったところがあるわけではない。しかし、同注解の後半には何かそれを超え出るものがある。

 そこには自分の、性的必然に対する関係意識だけに限って自分の個的な生を認める孤独な心が溢れている。性的な心(情愛)の動きは自分にとって内なる他者(自然)であり、その自然力の前に無力だった自己という発見があり、今日まで生けるわが命とはそういう自然的な(われならざる)生命であったといい、そういうふうに発見しえた判断の主体として、自分(我)の存在を証した歌。この孤独な心の背後には、事ここに至るまでの、他や自分に対する絶望と自己凝視の歴史が積まれてきていることを思わせ、またこの自己認識はもはや究極的などんづまりの姿であるという意味で、「末期の心を哀れにも展たり」といえる。(144頁)

 この歌は秋成によって宮木の歌として創作されたのではないし、物語中の宮木の昔語りからここまでの解釈を引き出せるかどうかも疑問であるし、藤原敦忠の原歌の注解としてみてもその妥当性はにわかに認めがたい。
 しかし、まさにそうであるからこそ、内なる他者としての自然を前にしての自己の生命の無力性を発見した判断主体がその制御し難い内なる自然を凝視している歌だという「哲学的」注釈(青木はこれを「考注」と読んでいる)がどこから来るのかと私たちに考えさせる。これを校注者の個性に帰することができる部分もあるであろう。しかし、それだけでもないように思う。秋成の作品世界自体に私たちをそこまで引き込む「奥行」があると言えるのではないだろうか。












日本文学史における〈人待つ女〉の系譜の中の上田秋成「浅茅が宿」

2018-11-26 18:20:28 | 講義の余白から

 上代から近世に至るまでの千数百年に渡る日本文学史を通じて、いつの時代にも見出されるのが〈人待つ女〉の形象である。というよりも、この形象が日本文学史における典型的な恋(孤悲)のあり方として、詩歌・物語・日記・演劇などにおいて繰り返し表象されてきた。例は、『古事記』、『万葉集』、『伊勢物語』、『源氏物語』、『今昔』、『平家物語』、謡曲「井筒」「砧」など、枚挙に暇がなない。
 作品中の登場人物として〈人待つ女〉が詠われあるいは語られるだけはなく、作者自身が〈人待つ女〉である場合もある。『蜻蛉日記』はその代表である。〈人待つ女〉の懊悩が本人自身の手によっていわば内側から綴られているこの不朽の傑作が十世後半に書かれた作品であることに今あらためて驚く。
 〈人待つ女〉というテーマは、上代から繰り返し表現されてきたというだけではなく、過去の作品における〈人待つ女〉の表象が次の時代に想起され、変奏され、差異化され、重層化されていく。その過程を上代・中古・中世・近世と辿ることによって日本古典文学の特質の一つを浮かび上がらせることができる。
 今週木曜日の近世文学史では、上田秋成『雨月物語』を取り上げ、その一部を読む。読解のために選んだ作品は「浅茅が宿」である。この名作もまた〈人待つ女〉の系譜に連なる作品である。しかし、言うまでもなく、過去の古典の中の〈人待つ女〉の形象の単なる変奏ではない。井上泰至『雨月物語の世界 上田秋成の怪異の正体』(角川選書、2009年)の最終段落を引く。

勝四郎と妻の亡霊との一夜は、現代なら幻聴・幻想の類として位置づけられよう。幻聴や幻想は、孤独な心にこそ起こりがちである。「死」にまつわる幻聴や幻想に、人間がもつ本質的な孤独や悲劇を見つつも、廃墟についてはその情に寄り添わない文体でこれを描いたからこそ、かえってその悲劇の美は我々に人間の孤独と哀切を訴えかけてくる。そこには、孤独から愛への単純には向かい得ない秋成の生い立ち、ものが見えすぎる秋成の理性が透けてみえる。美が、美学者が言うように、死の匂いを伴うものだとしたら、美への没入と相対化は、「死」をイメージする廃墟を形象化する場合にも、同様に働いたというべきだろう。死者を送る文学の伝統は、日本の場合長く、かつ幅広い。秋成は廃墟を冷ややかに描ききることで、その苦く切なく哀切を読者に訴えて、その流れの中に、「極北」の地位を築いたのである。












「「学び」の形としての「包み込み型」」

2018-11-25 19:24:35 | 読游摘録

 辻本雅史著『「学び」の復権 模倣と習熟』(岩波現代文庫、2012年、初版1999年)の冒頭に、心理学者東洋らによって一九七〇年代に約一〇年間にわたってアメリカの研究チームと共同で行われた日米母子のしつけと教育の方法に関する比較研究の成果が簡単に紹介されている。
 その結論を一言で言えば、アメリカの母親は「教え込み型」育児であるのに対して、日本の母親は「滲み込み型」である。
 「教え込み型」とは、「言葉によって分類の要素を一つひとつ子どもに教え、それを子どもに言葉で確認しながら教えていく」「言葉による分析的で組織的な教え方」である。それに対して、「滲み込み型」とは、「まず母親みずからが子どもの目の前でやってみせ、次にその通り子どもにやらせてみる。できないとまた母親が自分でやってみせて、子どもに挑戦させ、その過程を繰り返すという」(同書2-3頁)。
 この箇所を読んで、私は以下の四つのことを考えた。
 一、この差異は母親によるしつけと教育には限らないこと。ニ、この差異は日仏にも当てはまること。三、なぜ日本とアジア諸国、少なくとも日韓中を比較しないのかということ。四、「教え込み型」と「滲み込み型」という二つの型とは異なったもう一つの型があること。
 一について。言語による伝達を基礎とした教育と身体的模倣の反復を基礎とした教育との違いは、母子間に限らず、より広く観察される。
 ニについて。これは私自身、フランスで娘を水泳教室に通わせていたときに、ほとんど呆れるほどに実感したことであるが、フランスの水泳インストラクターは自ら水の中に入ることがない。プールサイドで言葉であれこれ説明するだけである。日本のスイミングスクールでよく見かけるように、先生自らプールに入り、生徒の手足を持って指導するところを私は見たことがない。
 三について。なぜ日本と「欧米」としか比較しないのか。少なくとも比較の第三項としてアジアの他の国の例とも比較すべきではないのか。そうでなければ、「東西比較思想」という、すでにうんざりするほど繰り返されてきた、当事者だけが盛り上がっているだけのなんら生産性のない虚妄のシンポジウムとどこが違うのか。
 四について。書道教育は、少なくともその初期においては、上掲いずれの型でもない。先生が子供の手に背後から手を添え、筆で書くときの感触・力加減・腕の動きなどを、一緒に筆を動かしながら伝える。これを私は「包み込み型」と名付けることとしたい。














識字率神話 ― 国民を知から遠ざけてしまう〈近代化〉

2018-11-24 18:20:00 | 講義の余白から

 一昨日の若尾教授の講演で私にとって特に印象に残ったもう一つの話題は、識字率についてのお話だった。
 何か信頼に値する資料や研究に依拠することもなく、幕末期の日本人の識字率はかなり高く、それが日本の急速な近代化を可能にした一つの与件だと私は思い込んでいた。ところが、若尾教授のお話では、現在の研究者たちは、当時の識字率について大きく意見が分かれており、5,60%くらいと高めに見積もる派と2、30%と低めに見積もる派との間に激しい対立があるという。
 そもそも識字率の定義が問題であると教授は仰っていた。確かに、例えば、仮に、自分の名前が漢字あるいはひらがなで書くことができ、簡単な文章を文法的誤りなく綴ることができ、子どもにもわかるような内容の漢字仮名交じり文を間違いなく声に出して読むことができる、それが識字だと定義してみたところで、どの程度の文章が書け、どの程度の文章を誤りなく読めることなのか、まだ甚だ曖昧なままである。それに、明治以前の識字率を全国一律で検証しうるような資料がそもそもない。こんな条件下で、一国の識字率を数値的に確定しようとすること自体に無理がある。
 問題は他にもある。仮に識字率に関して一定の基準を確立できたとして、階級・性別・職業・地域などにおける差異を無視して、平均的識字率を算出することにどれほどの意味があるのか、という問題である。容易に想像できることだが、階級間、男女間、職業間、地域間などで無視できない開きがあったはずである。それに、識字率は、知能および学力の一つの指標ではありえても、自律的思考力の程度に対応しているわけでは必ずしもない。
 これらの問題はさておき、私が教授のお話で最も驚かされたのは、識字率は、明治期に、たとえ一時的にであれ、江戸時代よりむしろ低下したと主張している研究者たちがいるということだった。
 どこからそういう主張が出て来るのか。それは、初等教育が国家によって義務化されることによって、かえって学ぶ機会を奪われる子どもたちが増えたからである。江戸時代の寺子屋教育では、その村や町の子どもたちが自分たちの家庭の事情と必要に応じて、それぞれ可能な範囲で勉強に来ることができた。ところが、そうした事情を無視した一律的カリキュラム・時間割が適用されることで、自分たちの子どもを学校に行かせない家庭が少なからず出てきてしまった。農村地区の繁忙期などはとりわけそうであったろう。一言で言えば、地域特性・生活習慣などを無視した国家による国民皆教育政策が国家の未来を担う子どもたちを、たとえ一時的にであれ、教育から遠ざけてしまったということである。












書物への愛が身分制度の桎梏から解放し、近代への道を拓く ― 八戸藩の事例

2018-11-23 18:45:03 | 講義の余白から

 昨日、午前の講義の後、午後、一橋大学の若尾政希教授のご講演を聴き、その後夕食をご一緒する機会に恵まれた。
 思想史としての出版史について目覚ましいご研究を次々にご発表になられている教授のお話はいずれも大変興味深く、失礼も顧みず、矢継ぎ早にいくつもの質問を差し上げた。すると、たちどころにさらにこちらの問題意識を刺激するようなお話をしてくださった。
 ご講演の中で特に私が蒙を啓かれた思いをしたのは、八戸藩の事例であった。江戸時代、同藩では、身分の違いを超えて本の共有・貸し借りが行われたという。武士、百姓、商人たちが一種の読書サークルのようなものを形成し、そこでは、共通の本について、意見の交換も自由に行われた。
 このお話を聴いて、私は次のように考え、先生のご意見を伺った。
 書物への愛が、身分制度の桎梏から人々を解放し、自由と平等の一つの現実の形としての読書サークルを形成させ、それが近代的な民主主義的思想の社会的基盤を準備したと言えるのではないか。
 こう申し上げると、先生も大変興味を示してくださり、他藩でも俳諧の席においては身分の上下は括弧に入れての付き合いだったとお応えいただいた。
 私自身のようなど素人が文書読解に基づいた歴史研究に首を突っ込む気はさらさらないが、専門家の方々の研究成果から学び、そこから思想史に作業仮説として一視角を開こうと試みることは許されたし。













出版流通機構の成立史から見た〈近世〉の誕生 ― 浅井了意という時代の鏡を通じて

2018-11-22 23:59:59 | 講義の余白から

 〈近代〉の定義は難しい。統治機構からだけでは規定しきれない。社会構造によってだけ規定することも難しい。人口統計も一つの指標にしかならない。さまざまな分野において異なった定義が与えられるべきなのだろう。
 一方、〈近世〉という概念は、通常江戸時代の別名(あるいはそれプラス安土桃山時代)であるから、その定義に特段の問題はないように思える。しかし、むしろその見せかけの自明性こそが時代認識を誤らせる陥穽になりかねない。
 江戸時代以前には、本の出版という発想は、技術的にはまったく不可能ではなかったとしても、事実上存在しなかった。本の出版を事業として可能にする流通経済機構がまだ形成されていなかったからである。
 本の出版が技術的に比較的安価にできるシステムが形成され、それが流通経済機構に組み込まれたことによって、日本文学史上最初の職業作家となったのが仮名草子作者の浅井了意(1612?-1691)である。
 ところが、入門書的な文学史の教科書では、中世の御伽草子と西鶴によっていきなりその最高の達成が実現される浮世草子との間の過渡的な文学形態の総称として十九世紀末に考案された概念である「仮名草子」というごった煮ジャンルの代表的作家として、代表作の作品名とともに言及されることはあっても、それら作品それぞれの内容にまで立ち入って紹介されることは、ほとんどない。
 しかし、この多作家の途方もなく渾然たるの作品群は、転換期の時代相を多様な仕方で反映していると言える。とすれば、浅井了意の生涯と作品とその時代について、文学研究という枠組みを超えて、経済・宗教・文化・社会・歴史など多分野にまたがる学際的研究を行うことによって、〈近世〉が誕生する場面に私たちは立ち会うことができるのではないか。
 ドナルド・キーン氏が『日本文学史 近世篇』の「仮名草子」の章で夙に指摘しているように、社会批判精神など、了意にあって西鶴にないものに対して、いまだ正当な評価がされているとは言えないようである。











ありがたくないパリ土産

2018-11-21 23:59:59 | 雑感

 昨晩、帰宅したときは、当初の予定よりも二時間半早く帰れたこともあり、さして疲れも感じず、一仕事終えた安堵感に浸りながら、やや遅めの夕食をワインとともに取った。そして、シャワーを浴びてさっぱりしてから、就寝した。
 ところがである。朝、いつものように五時に起床しようとして、鼻孔の奥に炎症のような違和感を感じる。間違いない。風邪の初期症状だ。昨年11月も、パリでのシンポジウムから戻った直後に風邪の症状が現われ、数日間苦しめられた。そのときと同じパターンだ。
 ストラスブールでは、自転車通勤だから、電車の狭い空間にすし詰めになることなどない。自分から進んで人混みに出ることもない。だから、外出して、風邪の菌を頂戴することはまずない。今回のパリ滞在は、わずか一泊だったが、RER に四回乗り、そのうち三回は大変な混雑だった。おそらくその間に感染したのだろう。
 やれやれである。一年に一回風邪を引く。その原因がパリ土産の菌というのは、なんともありがたくない話である。今週から来週にかけて、授業も会議もその他の約束もキャンセルするわけにはいかない。軽い症状のうちに早めに治さねばと、薬を飲み、来年日本に留学したい学生たちとの面談の約束があったオフィスアワーの一時間だけ大学に出向いた以外は家で明日の授業の準備に専念した。
 幸い、症状は治まりつつある。週末まで、なんとかもちこたえないと。