内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

声に出して読む『万葉集』

2017-11-30 23:59:59 | 講義の余白から

 昨日の謡の稽古に参加してあらためて思ったことは、今さらなのだが、言葉の理解にとって、テキストを声に出して読むことがいかに大切かということだった。言葉の生きたリズムを自分の体で感じるには、眼でテキストを追っているだけでは駄目なのはもちろんのこと、ただ人の声を聴いているだけでも十分ではない。やはり自分で声に出して繰り返し誦んでみることではじめて、言葉ととともに情景・情感・事物が生動するようになる。
 というわけで、古代文学史の授業でも万葉集を学生たちに音読させることにした。今日の授業は時間がなくてできなかったが、来週から始める。












能を実体験する

2017-11-29 23:59:59 | 雑感

 今日の午後、同僚が担当する中世文学史の授業で、昨日ご講演してくださった能楽師の先生に謡の稽古をつけていただいた。
 まず、能面を四十人ほどの学生たちが一人一人自分で手に持って顔にあててみて、面をつけるといかに視野が狭くなくるかを実際に体験してみる。そして基本の構えを学生の一人にさせながら、基本動作についての説明。
 それから出席者全員での謡の稽古が始まった。
 演目は現在物の「鉢木」。旅の僧 (実は北条時頼) が大雪の夜,佐野源左衛門常世のわび住いに宿り,秘蔵の鉢の木を焚いてもてなされる場面である。

シテ 「夜の更くるについて次第に寒くなり候。何をがな火に焚いてあて参らせ候ふべき。
   や。思ひ出したる事の候。鉢の木を持ちて候。
   これを切り火に焚いてあて申し候ふべし。
ワキ 「げに/\鉢の木の候ふよ。
シテ 「さん候某世にありし時は。鉢の木に好き数多木を集め持ちて候ひしを。
   かやうの体に罷りなり。いやいや木ずきも無用と存じ。
   皆人に参らせて候さりながら。今も梅桜松を持ちて候。あの雪もちたる木にて候。
   某が秘蔵にて候へども。今夜のおもてなしに。これを火に焚きあて申さうずるにて候。
ワキ 「いや/\これは思ひもよらぬ事にて候。御志はありがたう候へども。
   自然又おこと世に出で給はん時に御慰にて候ふ間。なか/\思ひもよらず候。
シテ 「いやとても此身は埋木の。花咲く世に逢はん事。今此身にてあひ難し。
ツレ 「唯いたづらなる鉢の木を。御身の為に焚くならば。
シテ 「これぞ誠に難行の。法の薪と思し召せ。
ツレ 「しかも此程雪ふりて。
シテ 「仙人に仕へし雪山の薪。
ツレ 「かくこそあらめ。
シテ 「我も身を。

 シテ・ワキ・ツレそれぞれの言葉を、先生の後について学生たちは原文と仏訳をくり返して声に出して読んでいく。その合間に先生は場面についての説明を挟み、それを同僚が仏語に訳し、さらに補足説明を加えていく。
 このようにして約二時間の稽古は進められた。
 ただ解説を聴いたり、演目を鑑賞するのではなく、たとえ僅かな時間でもこうして能を体験できたことは、学生たちにとってばかりでなく、私にとっても貴重な経験であった。












日本から能楽師の先生をお迎えしての能楽講座

2017-11-28 23:59:59 | 雑感

 今日は、午後の授業の後、かねてから企画されていたプログラムとして、日本からいらした能楽師の先生に学内で講演をしていただいた。講演開始前のこちらの不手際や会場設備の扱いの不慣れ等のせいで、講師の先生にご不快な思いをさせてしまったところもあり、申し訳なかった。それでも、聴きに来た学生たちの多くは、先生による謡や小鼓の実演や能の本質についての説明に熱心に聴き入っていたし、講演後の質疑応答も比較的活発に行われ、結果として、なんとか形になったかなと少しほっとしている。
 企画自体は九月に日本領事館から話があり、その後、日程の調整・会場探し・当日の通訳の依頼等、私が引き受けた部分も多かった。その他にも、その都度誰かに聞かないとどうすればいいのかわからないことも多々あり、かつこういうことはそもそも私は苦手としていることもあり、正直、準備の心理的負担は小さくなかった。
 それに、自分自身のことはともかく、協力してくれた同僚に無理をお願いすることになってしまったのも申し訳なかった。快く協力してくれたけれど、かなりしんどかったと思う。
 勝手な言い分だが、私個人としての収穫は、今回こういう企画の実現に必要な一連の段取りを一通り経験したことで、次回からはもう少し手際よくできるだろうという自信は得られたことだろうか。積極的にやりたいわけではぜんぜんないけれど。
 明日は、同じ能楽師の先生に、同僚の担当している中世文学史の授業の時間を使って、少人数のアトリエという形で、学生たちに実際に謡や能の基本動作の稽古をつけていただく。先生が日本から持って来てくださった能面もつけてみて、目のちいさな穴からどのように外が見えているのかも学生たちは体験させてもらう。
 日本であってもそうそう誰でもできないことを体験させていただけるわけで、彼らにとって貴重な経験になることを願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


リス君に負けずに、私はブログを続けます

2017-11-27 21:56:21 | 雑感

 今日は、午前七時にいつものプールに行って三〇分だけ泳いで帰宅して以降、午後七時過ぎに学部評議会が終わるまで、ほぼ十二時間、めちゃくちゃ忙しかった。
 午前中は、家で来年度カリキュラムを作成しつつ、次から次へと着信するメールを順次処理。午後は、大学に出向き、そのカリキュラムについて学部の総責任者や事務担当官たちと現状確認。その後、学科執務室でその他の案件の処理。午後五時から学部評議会。
 それでもね、その合間を縫って、フェイスブックに自宅で撮ったリス君の写真をアップしたんですよ。そうしたら、いつもはほとんど「いいね」が付くことないのに、たちまち数件付いたんですね。
 それを見て、嬉しく思う反面、ああやっぱりそうなんだ、写真は見てくれるけど、ブログの方はあまり、というか全然見てくれていない人たちが多いんだなあと、少し、いや、かなり、がっかりもしました。
 このリス君の写真、拙ブログの昨日付の記事にアップした写真と同じなんですよ。ブログの写真もその上でクリックするとちゃんと拡大されるようになっているんだけどなあ。ブログの記事はほとんどパスされているってことですよね。トホホ…
 それでも私は負けません。何があっても、ブログは続けていきます。
 リス君に負けてたまるか!












『聲の形』を何の先入観もなしに観ることができて

2017-11-26 23:18:24 | 雑感

 文学でも映画でも、今ほど情報がネット上に溢れかえっていると、まったく先入観なしに、まったく前評判とか他人の評価とかを聞かずに、作品に「真っさらな」気持ちで向かい合うことは、なかなかに難しいことになってしまいましたね。
 昨日、新海誠の『秒速5センチメートル』(2007)をYoutubeで観ました。制作順からすれば、『君の名は。』(2016)、『言の葉の庭』(2013)からさらに遡って観たことになります。今さらですけれど、すっかり気に入ってしまいました、彼の作品。
 私個人としては、『君の名は。』を別にすれば、どちらもまったく先入見なしに鑑賞することができて、それぞれに新鮮な体験で、心も動かされました。得難い経験でした。
 昨晩、『秒速5センチメートル』を観終わって、ちょっと席を外して戻ってきたら、別の映画が始まっていました。消そうかとリモコンを手にしたのですが、ついつい惹き込まれて、最後まで観てしまいました。
 その映画が昨年公開された『聲の形』(山田尚子監督。原作・大今良時)だったのです。
 まいりました。ほんとうに、すごい、この映画(原作は未見ですが、きっとすごいのでしょう)。私が無知だっただけなのでしょうけれど、ここまで日本のアニメは思想的に「深化」(ただの技術的な進化じゃなくて)しているのですね。
 こちらの学生たちが日本のアニメの熱烈なファンになってしまうのも、これも今更のことですが、得心がいった次第です。













〈川〉を渡って逢いに行く女の悲恋歌物語

2017-11-25 19:09:34 | 詩歌逍遥

 巻二・一一四-一一六の但馬皇女の三首は連作として、各歌の題詞と併せて、一つの悲恋物語の趣をもつ。

但馬皇女、高市皇子の宮に在ます時に、穂積皇子を偲ひて作らす歌一首

秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも

穂積皇子に勅して、近江の志賀の山寺に遣はす時に、但馬皇女の作らす歌一首

後れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及かむ 道の隈廻に 標結へ我が背

但馬皇女、高市皇子の宮に在ます時、竊かに穂積皇子に接ひ、事すでに形はれて作らす歌一首

人言を 繁み言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る

 但馬皇女の激しくひたむきな想いが読む者の胸を打つ。「川」は恋の障害を象徴し、「川を渡る」のは恋する人が恋の成就を願う行為であるとする民俗が古くからみられるという(大久間喜一郎『古代文学の構想』)。
 「皇女の身分たる者にとってありえない事柄、すなわち、朝早く冷たい川を徒歩で渡るというような事柄をうたいこめることで、裏に、「自分は世間の堰に抵抗して、生まれて初めての情事を是が非でも全うするのだ」という意味をこめたものと見るべきではないかと思う。」(伊藤博『萬葉集釋注』)
 但馬皇女が死んだのちの雪の降る冬の日、皇女が眠る初瀬の猪養の墓を遥望しながら、穂積皇子は、

降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養の岡の 寒くあらまくに(二〇三)

という、万葉挽歌絶唱の一首を詠んでいる(この一首は、拙ブログの二〇一四年一月二十三日の記事で取り上げている)。
 この歌について、中西進はこう述べている。「この歌の沈んで重いしらべは、不幸でしかない愛の運命の避けがたさの中に懊悩を重ねて来た人間の、苦渋にみちた愛の強さを示している。」(『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫)












都を遠みいたずらに吹く風はいつ吹くのか

2017-11-24 21:26:17 | 詩歌逍遥

采女の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く (巻一・五一)

 『万葉集』中屈指の名歌。志貴皇子作。集中、皇子の作はわずかに六首だが、いずれも清新さを湛えた秀歌。
 この歌を最初に読んだとき、そのどこまでも清澄な響きに深く心を打たれた。藤原京への遷都後の作であることは確かだが、題詞からだけでは、遷都後、旧都を訪れた際の作かどうかさえわからない。
 詠まれた季節はいつだったろうか。あるいは、この歌が感じさせる季節はいつだろうか。私は勝手に、どこまでも澄みきった空の下、爽やかな風が吹き渡る皐月の歌として誦んでいる。
 容姿端麗な采女たちのあでやかな袖をかつては吹きひるがえしていた明日香の風も、遷都とともに人びとがそこを去ってしまった後は、ただ虚しく吹くだけ。虚空の下の無限の空しさが風景の中を吹き抜けていく。
 その空しさは、風景が美しければ美しいほど、痛切に心に沁みる。














死せるものの美の永遠化、倒叙と視点の転回とに拠る劇的効果

2017-11-23 23:36:03 | 詩歌逍遥

 『万葉集』巻三・四二九-四三〇は、柿本人麻呂が出雲娘子が火葬にされた際に作った歌だと題詞にある。その詞書の中では死因は溺死とされている。詠まれた年は研究者たちによって七〇一年と推定されている。『続日本記』によると、文武天皇四年(七〇〇)三月に道照和尚が没したとき、弟子たちが遺言によって火葬に付したのが、日本での火葬の始まりだという。とすれば、その翌年の火葬はまだまだ珍しいことだったはずである。

山の際ゆ 出雲の子らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく

八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ

 この二首、出来事の順序とは逆になっている。前首は、出雲娘子の火葬の煙を吉野の山の霧と見ている。後首では、出雲娘子が川で溺れ死んだときのさまが美しく表現されている。前首では、人麻呂の目は上に向かい、山の上を見ている。後首では、目は川面に向い、そこに漂い揺らめいている出雲娘子を見ている。倒叙と視線の転回によって、劇的効果が強められているのがわかる。
 しかも、采女であった出雲娘子の溺死は不測の事故ではなく、おそらく入水自殺だったと推測される。采女に禁じられた男との密会が露見して、自ら命を断ったのであろう。
 それを「溺死」としたのは、人麻呂の思いやりであろうと『萬葉集釋注』は言う。

思いやりといえば、黒髪が波のまにまに揺れ動くさまは、古代の宮廷女性が地につくほどの黒髪を持っていたらしいことを下地において見れば、まさに、玉藻の動きに似た、切ないけれどもきわめて美しい姿である。そういう歌を後に配したのは、これも娘子の永遠の安らぎを祈る人麻呂の思いやりであったのかもしれない。

 亡くなった者の美しさを歌によって永遠化することも宮廷歌人の大切な役割の一つだったのであろう。














万葉集全歌読了に向けての心の旅のはじまり

2017-11-22 09:34:59 | 雑感

 やっと体調はほぼ完調に戻った。ただ、まだ夜寝ているときに咳き込むことがある。十一月初旬パリから帰ってきて数日後に初期症状が現われてから完全回復まで約二週間かかったことになる。
 その間、十一日間も水泳を休んだ。こんなに長く泳がなかったことは、ここ数年、日本滞在中を除けばなかったことで、ちょっとショックである。昨日から再開した。泳ぎはじめる前、体がすっかりなまってしまっていないかと恐れたが、そうでもなかったので少し気分が上向いた。
 その二週間ほどの間、下降しがちな気分を安定させるために、さらにはそれを徐々に上向きにするために、何か比較的容易でしかも楽しく毎日規則的にできることは何かないかと探した。それで古代文学史の講義の準備も兼ねて、万葉集全歌読了を目標に掲げ、毎日十数首から数十首ずつ読み始めた。
 遠い昔、最初の学部学生時代、万葉学者になりたくて数年間熱心に勉強した。夢叶わず、挫折した。それでも当時、『万葉集』を一通りは通読し、数百首についてはいくつもの注釈書を読み、二百首余りは完全に暗誦できるようになった。
 今も、万葉歌を誦むと、当時のことが想い出され、懐かしくも心が痛む。
 全歌を読む(誦む)といっても、巻一の第一首から順にというのではなく、もっと気楽に、そのときの気分に合わせて頁を開いたり、あるいは、この一月に買い集めた万葉関係の電子書籍を紐解きながら、そこに引用されている歌の釈義を注釈書で確認したりしながら、読了した歌の番号と参照した文献をエクセルで作った表に巻順に入力している。
 だから、それが何? とも言われそうな、詮なき所業である。でも、こんな単純な作業で表が徐々に埋められていくのを見て、心が少し慰められているのも事実だ。
 これから一年くらい、毎日、この「旅」を続けていこうと思っている。












古代日本文藝史における「片恋文化圏」、あるいは恋の根本的構造契機

2017-11-21 06:48:18 | 詩歌逍遥

 成就した恋はもはや恋(孤悲)ではない。恋は本質的に「片割れ」なのだ。
 それは昔も今も変わらない。
 伊藤博はその『萬葉集釋注』において、昨日取り上げた額田王歌と鏡王女歌との唱和二首の評釈の中でこう述べている。

「恋」はすなわち「待つ恋」(片恋)でもある。だから、「待つ恋」は万葉の相聞歌が歩みを開始すると同時に抒情の中心課題となった。しかし、「待つ恋」が相聞歌のはなばなしい主役を占めるのは、やはり奈良朝に入ってからである。天平の時代に入ると、大伴坂上郎女とのその周囲の人びとのあいだでは、「待つ恋」が作歌の主題にさえなり、そこに、虚構として片恋の歌を楽しむ片恋文化圏ともいうべき世界が構えられるに至った。

 しかし、このことは、「待つ恋」が単に作歌上の主題として当時流行したということには尽きない。もしそれだけのことだったとしたら、当時作られた歌が、今も私たちの心を打つということはないだろう。それらの歌は、どこかで人間的真実に触れているからこそ、今も私たちを感動させる。
 上野誠は、このような女流文藝を「待つ女の文芸」と呼んでいる(『万葉集の心を読む』角川ソフィア文庫、2013年)。
 もっとも、当時の婚姻形態は妻問い婚だったわけだから、その枠内では女は待つしかなかった。だから、「待つ恋」は当時の和歌に限られた主題ではない。平安朝の『蜻蛉日記』も『和泉式部日記』もこの範疇に入るだろう(ただ、後者には、そこに収まりきらない行動が見られはするが)。
 いや、待て。「待つ」ことは、奈良朝・平安朝の婚姻形態に制約された女性たちに限られた特異な存在様態でもないだろう。待つのは女に限られたことでもないだろう。
 むしろこう言うべきではないだろうか。「待つ」ことは、恋の根本的構造契機だ、と。