内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「春が来るなら、花が咲く」 ― 日本語についての省察(4)

2013-06-30 06:00:00 | 日本語について

 仮定文を構成する文要素として、四つの接続助詞「と」「ば」「たら」「なら」を初歩で習うが、これらを一通り習った後に、総復習として、これら四つの接続助詞の間にある意味の違いを学生たちに説明する。その際、以下のような、文法的にはいずれも可能な四つの例文を示し、そのうちどれが不自然かと問う。この問いに対して、ちゃんと理由を明示して正確に答えられる学生は、非常に優秀な学生である。
     例文1 春が来ると、花が咲く。
     例文2 春が来れば、花が咲く。
     例文3 春が来たら、花が咲く。
     例文4 春が来るなら、花が咲く。
 日本語を母語とする日本人であれば、即座に、例文4がおかしい、と気づくであろう。では、なぜそう感じるのか。そう聞かれると、説明に窮する方も少なくないのではなかろうか。何がおかしいのだろうか。この違和感の理由を突き止めるために、四つの接続助詞の機能を順に見ていこう。
 「と」と「ば」は比較的簡単に説明できる。前者は、その格助詞としての機能の場合と同様に、二つのものを並置する、あるいは連続した事象として示すことがその基本的機能である。例えば、「2に3を足すと、5である」という文は、「2に3を足すという操作の結果、直ちに5が得られる」ということを言っている。「次の角を右に曲がると、駅が見える」という文では、「次の角を曲がる」という動作の直後に「駅が見える」という新しい場面が与えられるということが表現されている。記号化すれば、「P→Q」となろう。「ば」は、まさに条件を仮定するのがその機能だ。「2と3を足せば、5である」というとき、「2と3を足す」という条件が満たされたとき、その足し算の結果として「5」という答えが得られるということを言おうとしている。しかし、「2+3」は十分条件ではあっても必要条件ではない。言い換えれば、「5」という結果を与える条件は、他に無数に考えられる。そのうちの一つの条件が「2+3」である。したがって、記号化すれば、「P⊂Q」となる。
 次に「たら」を見てみよう。これはもともと接続助詞だったのではなく、元は古語の完了の助動詞「たり」の未然形だったことを思い出せば、その機能を説明することができる。その説明の前に一言補足。古語にはもう一つ助動詞「たり」があり、こちらは断定の助動詞と呼ばれる。よく古文の試験問題で両者の区別を問う設問を見かけるが、これは接続の違いで見分ける。完了の「たり」は動詞または動詞型活用の助動詞の連用形に接続し、断定の「「たり」は体言に接続する。上記の例文3でも、「来たら」の「来」は「来る」の連用形であるから、「たら」が完了の助動詞「たり」を起源とすることは明らかである。この完了の「たり」の基本義は「すでにそういうことがあって、その事態の影響が、そこで述べようとしている時にまで及んでいること表す」ことである(旺文社『古語辞典』第10版)。そこから、接続助詞「たら」の機能は、「すでにそういうことがあったと仮定する」ことだという帰結を導くことができる。したがって、例文3は、「すでに春が来た、としてみよう。そうすると、花が咲く、という結果が得られる」ということを意味しているのである。
 さて、いよいよ問題の「なら」である。ここでも古典語の知識がものを言う。接続助詞「なら」は古語の断定の助動詞「なり」の未然形を起源とする。ここでも「たり」の場合と同様、もう一つ別の助動詞「なり」がある。伝聞推定の「なり」である。この両者の区別も古文の試験問題では頻出する。やはり接続で見分ける。断定の「なり」は、体言と活用語の連体形に付く。伝聞推定の「なり」は、活用語の終止形に付く。ラ変型には連体形に付く。しかし、残念ながら、この見分けのポイントは現代語では使えない。なぜなら、動詞の終止形と連体形が同形だからである。とはいえ、接続助詞の「なら」に伝聞推定の意味はないことは明らかであるから、ここではそれを問題にする必要はないであろう。断定の助動詞「なり」の基本義は、「まちがいなくそうであると判断する気持ちを表す」ことである(同辞典)。そこから、接続助詞「なら」の機能は、「そのように断定してよいと仮定する」ことだという帰結が導き出せる。したがって、例文4は、「春が来る、そう断定してよいとしよう。すると、花が咲く、という結果が得られる」と言っていることになる。つまり、この例文の「なら」は、この文の話者に、そう断定する意志があることを含意している。ところが、春は、私たちの断定の意志とはまったく無関係に必ずやって来る。にもかかわらず、この文の「なら」は、そこに話者の意志を介入させようとしている。例文4に私たちが感じる違和感の理由はここにある。一般化して言えば、意志とは無関係に必然的成立する自然現象について記述する文に、「なら」という話者の断定の意志を含意した文要素が含まれているとき、その文は私たちに違和感を覚えさせる、ということである。では、やはり自然現象を記述している、「明日雨が降るなら、河が氾濫する」という文には、なぜ違和感を覚えないのだろうか。もう答えは明らかだろう。それは、同じ自然現象でも、明日雨が降ることは必然的現象ではないから、話者に仮定的な断定をする意志を持つ余地を与えるからである。


「から」と「ので」との差異について(承前) ― 日本語についての省察(3)

2013-06-29 05:00:00 | 日本語について

 まず、「から」の基本的意味を見直してみよう。「から」は格助詞としての用法と同様、接続助詞の場合も、基本的に「起点・出所」を示す。つまり、そこから何かが出てくる〈場所〉を指している。どういうことか。それは、「から」がその末尾に置かれた節は、その節に表現された命題Pが、「から」以下の節に示される帰結 Q を導くために、「必要十分な条件」であることを示している、ということである。つまり、他の諸条件を考慮することなしに、命題Pから、帰結 Q が直接に論理的に導き出せることを「PからQ」という複文は示しているのだ。つまり、この文は、「条件Pが与えられれば、必ず帰結 Q が得られる」ということを意味しているのである。
 では、「ので」の方はどうか。これは、学校文法に従うと、準体助詞「の」と格助詞の「で」に分解できる。しかし、私は次のように考える。「の」は文を名詞化するだけの機能詞、「で」は断定の助動詞「だ」の連用形。つまり、「ので」がその末尾に置かれた節は、その節に表現された命題Pを断定して、後続の節に繋いでいるだけなのである。言い換えれば、命題 P は、事実として主張されているだけで、帰結 Q に対して、論理的に必要十分条件という価値は持っていない。「P のでQ」という複文は、したがって、「Pは事実である。その結果として、あるいはその事実に引き続いて Q が発生する」ということを意味しているのである。
 以上の説明を前提として、昨日の記事で挙げた4つの例文を順に見直していこう。
     例1 毎朝プールに行く から/ので、毎日早起きしている。
     例2 日本語を勉強している から/ので、日本へ行きたい。
     例3 自分で新しいのを買う から/ので、その古い辞書はいらない。
     例4 雨が降っている から/ので、出かけたくない。
 例1と例2を見て、もし「から」の方に若干の違和感を覚えた方がいらっしゃったとすれば、その違和感は以下のように説明できる。「から」の場合、上に述べたように、その命題は必要十分条件を示している。つまり、「毎朝プールに行く」ことが、「毎日早起きする」ことを必ず結果としてもたらすと言っていることになる。ところが、この文だけでは、「毎朝」何時のことなのかわからない。それは9時からかも知れない。そしてプールは自宅から徒歩3分のところにあるかも知れない。その場合、何もそんなに早起きしなくてもいいではないか。つまり、「毎朝プールに行く」ことだけでは「早起き」の必要十分条件を構成しえない場合が多々あるにもかかわらず、それを必要十分条件として提示していることに違和感を覚えることがあるわけである。例2についても同様のことが言える。「日本語を勉強している」ということは必然的に「日本に行きたい」という願望を抱かせるわけではない。にもかかわらず、「から」を使うと、「日本語を勉強している」ということさえ条件として与えられれば、必ず「日本に行きたくなる」と言っていることになってしまう。しかし、そうとは限らない例がいくらでもありうる。例えば、日本語には関心があるが、日本には興味がないという人もありうるだろう。以上の考察から、違和感の理由をまとめると、「通常必要十分条件ではありえない条件を必要十分条件として主張しているから」ということになる。
 では、例3については、どうであろう。これについては、もっと微妙な場合分けが必要だ。辞書を上げるよと人が言っているのに、それを断るわけだから、その人に対して失礼にならないように断るにはどう言ったらいいだろうか。例えば、「自分で新しいのを買いますから、どうぞお気遣いなく」と言うとき、相手の自分に対する気遣いの必要をなくすには「自分で新しいのを買う」だけで必要十分だと考えているわけで、これはいい意味にも悪い意味にも取れる。「自分で新しいのを買う」だけで、私はあなたにもう余計なご心配を掛けないですむ、ということも意味しうるし、反対に、「自分で新しいのを買う」という条件だけで、あなたの親切な申し出は不必要になる、つまりあなたの世話にはもうならない、ということも意味しうるからである。つまり、誤解のリスクをそれだけ生みやすい。その点、「ので」は無難である。「自分で新しいのを買う」という事実を示しているだけで、それだけで申し出を断るのに十分だとまでは言っていないからである。
 例4はどうか。「から」の場合、「雨が降っている」という条件だけで、「出かけたくない」という気持ちが生まれるのに十分だと言っているのである。ところが、「ので」の場合、事実として「雨が降っている」ことは示されているが、それだけで「出かけたくない」という気持ちが必然的に生まれたとまでは言っていないのである。雨が降っている、しかし、傘がない、あるいは、傘を持って外出するのが億劫だ、それで「出かけたくない」のかもしれない。他にも要因はありうるだろう。つまり、「PのでQ」の場合、命題Pと結果 Q との間に、他の中間項の介入の余地が残されているのであり、その介入要素によっては結果 Q が得られない場合も完全には排除されていない。
 ここまで来れば、仕事を発熱で欠勤したいと上司に連絡する場合、「ので」が選ばれる理由がもうわかるだろう。「熱があるから、休みたい」という文は、「熱がある」という条件だけで「休みたい」という要求が正当化されると主張している。つまり、この条件と帰結の関係は、論理的必然であり、そこには誰も、たとえ上司と雖も、介入の余地がない、と主張していることになるのである。それゆえ、このような連絡の仕方は、上司の判断を仰ぐ前に、自分ですでに欠勤を正当化しようとしていることになり、それゆえ、上司を上司とも思わない無礼な態度だ、というリアクションを上司の側に引き起こしかねないのである。他方、「熱があるので、休みたい」という文は、「熱がある」という事実を示し、その結果として、あるいはそれに引き続いて、「休みたい」という気持ちが生まれた、と言っているだけで、「熱がある」ことだけで自分の欠勤を正当化しようとまではしておらず、その分、相手にも介入の余地を残すことになる。だから、相対的に、「ので」の方が「から」よりも、表現として丁寧、というよりも、主張として控え目、と言うことができるのである。

 以上の説明が飲み込めたとして、最後に応用問題を一つ。
 遠距離恋愛をしているカップルを想像してみよう。もうかれこれ5年、普段は日本とフランスに離れ離れ、年に数回、何週間か一緒に過ごすことができるだけ。離れているとき、もちろんメールは毎日のようにやり取りするし、スカイプでも定期的に話している。でも、やっぱり、時々、これからのことが不安になったり、相手を疑う気持ちが心をかすめたりしてもおかしくない状況。それにもかかわらず、あなたは彼あるいは彼女のことを心から愛しているし、愛する人のことを少しも疑っていない。そのとき、あなたは、その気持をどのような日本語で相手に伝えるだろうか。もちろん「から」あるいは「ので」のどちらかを必ず使ってという条件付きの問題。
 「あなたを愛しているから、信じている」と言うことはあっても、「あなたを愛しているので、信じている」とは言わないのではないだろうか。理由はもうわかるだろう。前者は、「愛は信の必要十分条件」、言い換えれば、「愛さえあれば信じられる」と明言しているわけで、愛の宣言として相応しいが、後者は、「愛しているのは事実だ、その結果として信じている」と言おうとしていることになり、「愛していても、信じられなくなる」という可能性がそこから完全には排除できていないからである。だから、私たちは、迷わず(と私は思うのだが)、なぜそうなのかを知らないままに、前者を選ぶ。
 しかし、残念なことに、現実には、日本人でさえ、愛に関しては、この「から」と「ので」の用法を間違えてしまうことがしばしばあるようだ。


「から」と「ので」との差異について ― 日本語についての省察(3)

2013-06-28 05:00:00 | 日本語について

 日本語初歩の段階で、単文をいくらか学んだ後に導入される最初の複文型の一つが、理由・原因を表す文型である。学習書によっても違いがあるが、接続助詞「から」をまず学ぶことが多い。これは用法が簡単で、単文の後ろにそのままくっつけるだけで、理由・原因を表す節を構成することができるからである。次に学ぶのが「ので」であるが、それまでの間、学生たちはやたらと「から」を使って、文を作りたがる。ところが、なんでもかんでも「から」だけで理由・原因が示せるわけではない。それゆえ、文法的には間違ってはいないのだが、日本人からするとどこか奇妙で、違和感を覚える文が毎年大量生産されることになる。あまり話を複雑にしないために、他の理由・原因を示す文型は脇にのけて、「から」と「ので」だけを比較することを通じで、この違和感の理由・原因を、今日と明日の2日をかけて、突き止めてみよう。
 不思議なことなのだが、この日本人だったら誰でも自由に使いこなしている二つの接続助詞の用法の間に見られる、微妙だが確かにある差異について、納得のいく仕方で明確に説明している学習書は、私の知るかぎり、ないと言っていい。「ので」の方が丁寧であるとか、あらたまった表現であるとか、説明しているものをよく見かけるが、私に言わせると、これは実例の考察から帰納的に導き出した帰結に過ぎず、なぜ両者の間にそのような差異が生まれてくるのかをまったく説明していない。ところが、私見によると、この差異は両接続助詞の基本的機能の違いから明瞭に説明することができるのである。実例を挙げながら、説明していこう。
 その前に一つ断っておきたいことがある。通常日本語初歩では、いわゆる「です・ます」体から入る。これは、その方が動詞の形は一定のままで否定文、疑問文、過去文等が簡単に習得できるからという理由と、実際の運用の際に丁寧表現の方により汎用性があるからという理由とによる。だから、実際の学習現場で「から」が初めて導入される段階では、学習者はまだこの「です・ます」体しか知らない。したがって、彼らが「から」「ので」を学習する際の例文も当然「です/ます」体に限られる。しかし、今日の問題は「から」と「ので」の差異なので、以下に挙げる例文はすべて、問題を単純化するために、「です・ます」体ではなく、いわゆる常体にしてある。
 まず、以下の二つの例文を見ていただきたい。
     例1 毎朝プールに行く から/ので、毎日早起きしている。
     例2 日本語を勉強している から/ので、日本へ行きたい。
 どちらの例も、文法的には正しい。では、「から」と「ので」とは、まったく等価で、相互互換性があると言い切れるであろうか。日本語を母語とされる方たちの中には、「から」のほうに何か若干の違和感を覚える方もいらっしゃるのではないだろうか。しかし、これらの例をいくら見比べても、それだけでその違和感の根拠を突き止めるのは難しいだろう。そこで次の2つの例を見ていただきたい。
     例3 自分で新しいのを買う から/ので、その辞書はいらない。
     例4 雨が降っている から/ので、出かけたくない。
 例3のような文が使われる具体的な状況として、例えば、私が自分では使っていない新品同様の辞書を持っていて、それと同じ辞書を必要としている友人に、「この辞書、ほしければ上げるよ」と申し出た場合が考えられる。その申し出を断るとき、例3のように理由を示すことができるだろう。「から」でも「ので」でもよさそうだ。では、その友人が私に気を使って、もっと丁寧な断り方をするとしたら、どうだろう。やはり「から」でも「ので」でも、どっちでもいいであろうか。この問いには、実は簡単には答えられない。それは具体的な状況についてのさらなる情報がないと、「どっちとも言えない」という答えしかできないからである。それがなぜかは明日の記事の中で説明する。
 例4に移ろう。この場合も「から」「ので」どちらでもよさそうだ。では、両者はまったく同じように理由を説明しているのだろうか。実はそうではない。微妙だがはっきりとした違いが両者の間にはある。しかし、それは、どちらのほうが丁寧か、あらたまっているか、というような問題ではない。
 以上の4つの例における「から」と「ので」との差異を的確に把握するために、次のような状況を想定して、その状況ではどちらの接続助詞を使うか考えてみよう。あなたは朝から熱があり、この体調ではとても仕事には行けない。そこで職場の上司に、今日は休ませてほしいと欠勤の電話をしなくてはならない。理由を説明する文に使えるのは、「から」か「ので」のどちらかだけ。このような条件が与えられとしたら、あなたはどちらを選ぶだろうか。「今朝から熱があるから」だろうか、「今朝から熱があるので」だろうか。実は、この同じ質問を、日本の大学で「現代思想」の講義をしたときに、教室にいた数十人の日本人学生にしたことがある。そのときは、一人の例外を除いて、全員「ので」を選んだ。ところが、「どうして」と聞くと、誰もちゃんと答えられない。しかし、大半の学生は即座に、確信を持って、「ので」を選んだ。いったいなぜなのだろうか。繰り返すが、「ので」の方が丁寧だから、というだけでは説明になっていない。なぜなら、どうして「から」を使うと、上司に対して失礼になるのか、という問いの答えになっていないからである。
 これらの問いに対する私の答えは、明日の記事で示す。


「私」は « I » でも « je » でもない ― 日本語についての省察(2)

2013-06-27 05:00:00 | 日本語について

 同じ語族に属する言語間であっても、単語レベルで一対一対応をさせることは厳密にはできない。どうしても意味にズレが出てきてしまう。ところが、名詞レベルではそれが比較的容易にできそうに思われてしまう。特にラテン語起源の語を多数共有しているイタリア語・スペイン語・フランス語などの言語間では、同じラテン語に由来する語源的意味を共有している単語は多数あり、それらの単語間に簡単に対応表を作ることができるだけでなく、それらは語形もとても似ている。例えば、「沈黙」を意味するフランス語は silence、イタリア語は silenzio、スペイン語は silencio。しかし、同じ推論をそれらの言語と日本語との間に適用することはもちろんできない。一般名詞に関しては、それは容易に想像できるだろう。例えば、フランス語の pomme は、仏和辞典を引けば、「リンゴ」が最初の意味として出てくるが、次には「じゃがいも」(pomme de terre)と出てくる。しかし、日本語の「林檎」には「じゃがいも」という意味はない。「林檎のようなほっぺ」をした可愛い赤ちゃんは日本にはいるが、 "Quelle pomme, ce type !" とフランス語で言えば、「なんて間抜けなやつなんだ、あいつは」ということになってしまう。
 それでは人称代名詞はどうであろう。どんな言語だって「私(たち)」「あなた・君(たち)」「彼・彼女(たち)」を示す言葉は必要だろうから、人称代名詞に関しては、どんな言語間にも簡単に一対一対応はつけられそうに思われる。実際、フランス語初級の最初の授業では、「『私』はフランス語で « je » と言います」、と習うのが普通である。しかし、私の日本語の授業はそれを否定することから始まる。「日本語には、君たちフランス人が言う意味での人称代名詞は存在しない」といきなり断言する。そうすると、何も知らない学生たちは、それでなくても大きい目を更に大きく見開いて「意味不明」という顔をするか、そんなこと「ありえん」と、愕然として口をあんぐり開けるかするが、ちょっと勉強してきた生意気な学生(ちなみに、生意気でもなく、ひねくれてもいない、「素直な」フランス人学生を見つけることは、無口で控えめな「大阪のおばちゃん」を見つけることと同じくらい難しい)は、「先生、 « je » は『私』じゃないんですか」とすぐに食って掛かってくる。飛んで火にいる夏の虫とは、このような学生のことである。「じゃあ君に聞くけれど、『わたくし』『僕』『俺』『おいら』はフランス語で何に対応するのかね。」「それも、みんな « je » です。」「しかし、『私』と今挙げた4つの言葉は同じ使い方かね。つまり、いつでもどこでも交換可能かね。」「いいえ…」「友達同士では『俺』を使う男性でも、営業でお客様に対応するときには絶対に『俺』とは言わない。言えば、即契約破棄だろう。ところが、君たちフランス人には選択の余地がない。欧米人は皆同様だ。友達同士だろうが、上司とだろうが、大統領とだろうが、そして神の前でさえ、君たちは自分のことをフランス語で話す時は « je »、他のヨーロッパ言語にしたところで、それに相当する、各言語に一つしかない人称代名詞一人称単数を使うしかない。最後の審判の日まで、君たちは自分のことを« je » と言い続けるように宣告されているのだ。それは君たちにとって、逃れようもない原罪のようなものだ。ところが、日本語では、相手との関係によって、自分を指し示す言葉を変えなくてはならないし、自分のことだとわかりきっているときには自分を指す言葉を使わないのが普通だし、使い過ぎると相手に耳障りだったり、自己中心的なやつだと思われたりしかねないから、その使用を避ける傾向さえ顕著に見られる。日本人にとってそれはあまりにも自明なことなので、いちいち意識しているわけではないが、『私』あるいはそれ以外の自分を指す言葉を使わずに、何時間でも会話することは不可能ではない。ところが、君たちはどうだ。« je » を使わずにどれだけ会話できるか。5分もすれば、窒息して死にそうになるだろう。つまり、君たちは « je » なしには生きられない。しかし、日本人は『私』なしでも生き延びられるのだ」と一気にまくしたてる。もちろんこれは言い過ぎである。しかし、欧米人たちへのルサンチマンから生まれた暴言でもない。フランス人といえども、さすがに初々しい新1年生に向かって、しかも最初の授業で、このような挑発的な長広舌をふるう目的の一つは、日仏語間の人称代名詞の機能の違いについて、語学的に初歩の段階から学生たちの注意を促すことにある。しかし、それだけではないし、それはむしろ私にとって副次的な問題である。ちょっと大袈裟な物言いを許していただけるなら、このような「過激な」説明をあえてするのは、言語間の違いの背後にある、いわば文明論的な共約不可能性について、語学の学習を通じて、つまり具体的な事例を通じて、学生たちに自覚的に考えてほしいからこそなのである。


「私は日本語がわかります」― 日本語についての省察(1)

2013-06-26 22:00:00 | 日本語について

 現在、本務校の日本語の授業としては、修士の「日本経済」を担当しているだけだが、日本語初級・中級の文法・作文などの授業を十数年に渡って受け持ってきた。それらの授業での学生たちからの質問や彼らが繰り返す間違いを通じて、私自身日本語における物の見方について考え直させられることがしばしばあり、学生たちへの説明を工夫していく中で、明確になった見解がいくつかあるので、それらを今日から5回に渡ってメモ風に記しておきたい。

 「私は日本語がわかります。」 一見ごく簡単に見えるこの文は、しかし、日本語文法についてのいくつもの問題を含んでいて、それを一通り説明するだけでも数回の授業を必要とするくらいなのだ。日本語を学び始めたばかりの人が、ほとんど文法的説明を受けていない段階で « Je comprends le japonais (I understand the Japanese). » は、「私は日本語がわかります」と言うと、どこかで聞き覚えたとしよう。そして、「私」は人称代名詞一人称単数、「日本語」は日本語のこと、「わかります」が述語動詞だということは学習済みだとしよう。そこからその人は次のように推論するだろう。「私」はこの述語動詞に対する主語であり、元の仏文あるいは英文の動詞 comprendre/understand は他動詞であるから、フランス語文法で言えば、直接目的格補語COD、英文法で言えば、目的語 O を必要とする。その COD あるいは O が「日本語」である。とすると、「わかる」は他動詞でなければならない。「日本語」の直後にある「が」は、「日本語」が他動詞「わかる」の COD あるいは O であることを示す記号だろう。こう推論することだろう。実際、毎年そう誤って推論する学生たちをたくさん見てきた。もちろん助詞についてまったく無知であれば、「が」が動詞の一部なのか、一つの文法的機能を担った要素なのかわからないし、文末の「ます」は動詞ではなく、丁寧語として、聞き手に対する敬意を表す助動詞だということもわからないわけだが、今はそれらの点は脇に除けておく。それにもっと大きな問題である「は」の機能についても今日は立ち入らない。「日本語がわかる」という文の理解という問題に今日は限定する。
 学生たちが混乱するのは、以上のように推論した後に、日本語では、いわゆる主語となる名詞は助詞「が」をその直後に伴い、他動詞に相当する動詞に対する目的語を示す時は助詞「を」を当該の名詞の直後に付けると習うからなのだ。彼らはフランス語あるいは英語からの推論で、「わかる」は他動詞だと思い込んでいる。だから目的語を示すためには「が」ではなく、「を」を付けなくてはならないと考える。そこで「日本語をわかる」という誤った文を作ってしまう。そして教師から、そこは「を」ではなくて「が」だと訂正される。しかし、それは他動詞一般の目的語に関する規則に反するではないか。なぜ「が」であって、「を」ではないのか。これに対して、日本語学習書の中には、実にいい加減としか言いようのない説明をしているものもある。それによると、これは「わかる」や知覚動詞の場合の「が」の特殊用法で、この場合、「が」は目的語を示している、というのである。私に言わせると、これは完全に誤っている。
 以下が私の説明である。「が」はあくまで主語を表す。もちろん日本語文法の中に、印欧語由来の「主語」という概念を導入することの当否も当然問われなくてはならない大きな問題なのだか、その問題にもここでは立ち入らない。上記の例文について今日問題にしたいことは、「わかる」は他動詞ではない、ということである。つまり、「わかる」は、 comprendre や understand のような他動詞とは別の事態・様態を示しているのである。「わかる」は、「雨が降る」や「日が昇る」の「降る」「昇る」と同じように自動詞なのである。では、「わかる」は何を意味しているのか。この問には、高校程度の日本古典文法の知識があれば簡単に答えられる。「わかる」は、「(物事が)分離する、別々になる」という意味、そこから「おのずと区別がつく」という意味も出てきて、その用例は、たとえば『源氏物語』の中に確認できる。つまり「わかる」とは、「(物事が)他のものからはっきりと区別され、それとして認識可能なものとして与えられている、あるいは現れている」ということを意味しているのである。したがって、「日本語がわかる」という文の意味しているところは、「日本語がそれとして他からはっきり区別できるものとして、つまりそれとして明瞭な仕方で与えられている、あるいは現れている」ということなのである。この文には、「誰にとって」ということは情報として含まれていない。ただ、当然のこととして、このような仕方で日本語が与えられているとき、日本語はそれとして理解されているということが事柄の中に含意されているわけで、その理解している人が「私」であることを示す必要があるとき、「私は日本語がわかる」と言うのである。だから、逆に、「私」の事であることが文脈から自明な場合は、「私は」と限定する必要さえないし、誰かに質問する場合でも、その人の事だということが会話の当事者間で自明であれば、わざわざ「あなたは」と言って、明示的に限定することなく、ただ、「日本語がわかりますか」と聞くだろう。以上のように考えることができれば、上に挙げた仏文や英文が「私は日本語がわかる」の訳として間違っているとまではもちろん言えないとしても、これら日本文と欧文とを安易に等式で結ぶことが、誤解を生み、まさに「日本語がよくわからない」という事態を招きかねないことがよくわかるであろう。
 同様な説明は、知覚動詞についても与えることができる。「海が見える」「鐘の音が聞こえる」― これらの文における「見える」「聞こえる」も自動詞である。前者は「海が見えるものとして立ち現れている」、後者は「鐘の音が聞こえるものとして響いている」ということを意味しているのであって、「誰にとって」ということは文自体には情報として含まれていない。言い換えると、これらの文と、「私は海を見ている」「私は鐘の音を聞いている」とは、同じことを意味しているのではないということである。前者は、知覚世界のそれとしての立ち現れ方を、後者は、知覚世界に対する私の関わり方を表現している。同様に、「日本語がわかる」は、日本語の立ち現れ方を、「私は日本語を理解する」は、日本語に対する私の関係を表現しているのである。


Intéressant(アンテレッサン)について ― 欧語散策(1)

2013-06-25 21:00:00 | 言葉の散歩道

 レミ・ブラッグ Rémi Brague という古代・中世哲学の大家がフランスにいる。パリ第1大学教授。単に古代・中世の専門家として傑出しているだけでなく、現代社会における哲学的問題にも常に注意を払っており、メディアでも発言する。自著の中で認めているが、挑発的な物言いを好む。私の專門からは遠いが、彼の著作からは学ぶことが多く、折にふれて読む。講義でも、学生たちの眠気覚ましに、彼の刺激的な主張をしばしば引用する。私が講義で特によく引き合いに出すのが、Au moyen du Moyen Âge(Flammarion, collection "Champs essais", 2008)。タイトルを日本語に訳せば、『中世を用いて(手段、手立て、手助けとして、)』とでもなろうか。しかし、見ての通り、原タイトルには moyen という語が二度使われていて、前者が名詞、後者が形容詞。 "Au moyen de" というイディオムは、「~を使って、用いて」という意味。大文字で "Moyen Âge" と書く時は原則としてヨーロッパ中世を指す。これらの点を考慮すると、『ヨーロッパ中世を通じて』の方がいいかも知れない。副題は「キリスト教、ユダヤ教、イスラム教における中世哲学」となっている。これだけ見ると、現代社会とは何の関係もなさそうだが、哲学の社会におけるあり方という問題について、きわめて示唆に富む本で、近現代哲学への言及もそこかしこに見られる。著者自身同書で明言していることだが、タイトルがよく示しているように、「中世を使って」哲学の基本問題を考えようとしているのであって、中世の哲学を語ること自体が目的なのではない。中世哲学を取巻く数々の誤解を解き、偏見を排除することに多くの頁が割かれているのも、一つには、そうすることによって中世哲学をその本来の生ける姿で示すためだが、一つには、その作業の全体を通じて、哲学とはいったいどのような活動なのかという基本的な問いを繰り返し問うためなのである。
 同書に "La physique est-elle intéressante ?" と題された章がある。中身を読まずにタイトルだけを見れば、「物理学は面白いか」と訳しても間違いとは言えない。ところが同章の最初の数頁を読めば、そうは訳せないことがわかる。ここでの la physique は、今日私たちがいうところの物理学ではなく、またアリストテレスや中世の大半の哲学者たちが考えていた「自然哲学」、つまり都市社会での実践的な事柄にはかかわらず、何かの制作・製造技術にもかかわらず、それらの〈外〉で生起する諸事象を観想し、それらをひたすら理論的に研究する学問という意味でもない。それらの対象も含むが、もっと広い意味で自然全体を対象とする学問がここでは問題にされている。だから「物理学」でも「自然哲学」でもなく、「自然学」とでも訳した方がいいことになる。
 しかし、今日話題にしたいのは、このことではなく、タイトルに使われている形容詞 intéressant の方である。この形容詞は英語の interesting に相当し、基本的な用法は両語で重なり合っている。ブラッグはこの形容詞の意味を3つに区別する。第1は、「利益がある」という意味。「払ったら元が取れる、さらには利益を生む」ということだ。これは単に物質的なものについてだけ当てはまるのではなく、例えば、健康に「利益がある」ものについても当てはまる。第2は、「知的な関心を引く」という意味。自然の中には、小さな花の繊細な構造の美しさから、大空に広がる星座の荘厳さまで、そのようなものが数限りなくある。それらは私たちを「魅惑」する。そして第3の意味。ブラッグがここで強調したいのは、この第3の意味である。彼はラテン語の語源、inter-est から、この意味を規定する。"inter" は「~の間に」という意味の前置詞。"est" は動詞 esse 「在る」の三人称単数現在。したがって、この第3の、語源に最も忠実な意味は、「~の間にある」ということになる。では、何の間にあるのか。ここからがブラッグの強調するところなのだが、「私たちと私たち自身の間」にあるということだという。しかし、なぜ私たちと私たちの間にあるものが intéressant なのか。それは彼によると、私たちが私たち自身を知るのに必要だからだということになる。つまり、何かが私たちにとって intéressant なものとして現れるのは、それが自分たち自身を知るために私たちが必要とするもの、それを介してはじめて自分がよくわかるようになるものだからなのだということである。私たちが自分たち自身へと至るためにそこを通っていかなくてはならない物事が、この意味で、私たちにとって intéressant なのである。フランス語の再帰代名動詞の "s’intéresser à quelque chose" という用法は、intéressant が内包しているこの反省的構造をよく示しているとブラッグは言う。通常「何かに関心がある」と訳されるこの表現は、この第3の意味に忠実に訳せば、「何かに関係づけることを介して己自身を知ろうとしている」ということになる。
 ここからは上のブラッグの説明に基づいた私自身による敷衍。Intéressant のやはりラテン語に由来する古い意味に「違いをもたらすもの」という意味がある。この意味と先の第3の意味を組み合わせれば、私にとって intéressant なものとは、「私自身を変え、その変化を通じて、私に私自身を理解させるもの」ということになる。私がある対象に強い intérêt (関心)を持てば持つほど、それだけ私は変わり、自分はどんな人間なのかがよりよくわかる。何も intéressant なものがないということは、自分で自分がわからないと言っているに等しい。毎年、学年の初めに、すべての授業で、学生たちに、「この講義で学ぶ事柄が、あなたたちにとって、この第3の意味で intéressant なものになることを心から願う」と繰り返す。


遙かなる眼差し ― 歴史的想像力について

2013-06-24 21:00:00 | 講義の余白から

 先週金曜日の学部1年の必修科目「日本文明」の追試は幕末が試験範囲。これは学期最後の授業で繰り返し強調しておいたので、学生たちにとっては準備しやすかったはず。実際、4名の受験者の答案のできもよかった。この試験も、6月19日付の記事で話題にした「同時代思想」の場合と同様、すべて持ち込み可。自分のノートだけでなく、どんな資料・道具を持ってきてもいい。最近は授業中もパソコンでノートを取る学生の方が多いくらいだから、彼らはそれをそのまま持ってきてもいい。しかし、できる学生たちは、ただ資料をそのまま持ってくるようなことはしない。ちゃんと数枚のカードに要点をまとめてくるか、パソコン、iPad、スマートフォンなどにデータを整理して持ってくる。そこですでに差がつく。試験時間は1時間だから、山のような資料の中に必要な情報をその場でゆっくり探している時間はない。試験問題は1問。小論文。これも予告済み。知識を問う問題ではない。事実の確認はノートやネットに接続してその場でもできるから、それを写してももちろん点にはならない。では、何を求めているのか。それは、自分たちの文化圏から二重の意味で遥か彼方の、ある時代と場所に自分の身を置いてみて、そこで与えられた問題を自分の力で考えることだ。その際、その時代状況を理解するためには、それを生き生きと蘇らせる想像力も大切な役割を果たす。
 学年最初の授業で、授業の目的を説明するとき、次のようにまず明言する。
 日本の歴史を勉強する場合であっても、歴史上の出来事・人物や年号・地名などを暗記することが目的なのではない。いずれにせよ断片的にならざるを得ないそのような知識を、しかも不正確な仕方で頭に無理やり詰め込んだところで、それがいったい何になろう。試験が終われば、そんな「無益な」情報は君たちの脳からすぐに消去されてしまうではないか。君たちは、歴史の知識が必要な職業に就くことを目指しているわけでもないし、ましてや歴史の先生になりたいわけでもない。それなら何のために歴史を学ばなければならないのか。それは、一言で言えば、自分自身をよりよく知るためなのだ。そのためには、自分とは異なった時代と場所に身を置いてみて、そこで人はどのように考えたのか、と問うてみることが一つの有効な方法になる。なぜなら、それが、自分を日常の時空から解放し、遙かなる眼差しで自分を逆に他者のように見つめ直し、「自分はどこにいるのか」と問い直すことを可能にするからだ。もちろん、それだけが歴史を学ぶべき理由ではない。しかし、他の理由と共に、あるいはそれとは独立に、歴史を学ぶ一つの理由として、誰にとっても挙げうるのは、自らをよりよく知り、よりよく生きるためということではないだろうか。
 以下が追試の試験問題。
「時は幕末。あなたは、倒幕派の藩の一つに生を受けた血気盛んな若き武士、あるいはその武士と結婚したばかりの控え目で賢い妻。ある日、筆頭家老から直々に、欧州への3年間の留学を命じられる。徳川幕府崩壊後の日本のために、どの国に何を学びに行くべきか、忌憚なく意見を具申せよ、との申し付け。留学国と学問分野の選択の理由を明示してこの求めに応えよ。」


食をめぐる哲学的考察(7) ― 味覚と言語の弁証法(2)

2013-06-23 21:00:00 | 食について

 昨日に続き、人と会う。発表原稿の準備が思うように進まず、本当はそれどころではないのにと内心困惑しつつ、遠路遥々パリまで来られた先方が今日しか都合がつかないとかねてから言っていたのだから今さらどうしようもない。昨日までに原稿が仕上げられなかったのは、まったく私だけの問題で、その人たちには何の責任もない。昼前からほぼ一日お付き合い。19時前に別れる。楽しくはあった、が、一人になってホッとする。明日日曜日は原稿に集中する。

 食べたものが与える味覚を言葉でできるだけ丁寧に正確に表現しようとすることは、いくら美味しいものを食べても、それだけでは身につかない。それ相当の語彙が必要であり、しかもそれがひとりよがりなものであっては他者に通じない。しかし、いくら語彙が豊富で、しかもその使い方が巧みであったとしても、同じ物をまったく食べたことのない人に、ましてや違う文化圏に属する人に、その食べ物の味覚を言葉だけで伝えることは至難の業だ。いくら外国文学の名作に出てくる味覚の描写を原文で読み込んでも、実際その当の食べ物を味わったことがなければ、描写からだけでは、たとえそれがどんなに見事な描写であれ、その食べ物が与える味覚には到達できないだろう。
 他方、人と同じ物をいつも食べていれば、自ずと味覚が共有されるという保証もない。ある味覚を持つということと、それが他者と共有されうるということとは別の問題だからだ。味覚の共有、あるいはその困難、さらにはその不可能性は、言語表現の練習を通じて自覚されていく。お互いの味覚を言葉にする相互的・協同的作業の中で、互いの間にある感覚の〈同一性〉と〈差異〉が分節化されていく。そのようにして開かれた言語的共同性の中で、それぞれの感覚が磨かれていく。そしてそのより鋭敏になった味覚が、その言語共同体の成員たちの言語表現能力を高めていく。これが私たちの日常の食生活の中で実践可能な「味覚と言語の弁証法」である。
 この味覚と言語の弁証法を、教育メソッドとして確立し、それを教育現場で実践しているのが、フランスにおける「味覚教育」である。そこでは特に言語教育が重視される。その狙いは次の3点にまとめることができる。第1は、味覚を言語化することによって、味覚が鋭敏になり、その鋭敏になった味覚が言語表現を豊かにするという、感覚と言語との弁証法的発展。第2は、言語によって、互いに他者との相違を理解し、自分の感覚を相手に正しく伝えるコミュニケーション能力の向上。第3は、視覚情報だけではその味覚が想像しにくい未知の食べ物について、言語が喚起する想像力によって、否定的・拒否的・排除的な先入観を取り払い、その食べ物を受け入れる経験を通じて、未知なるものへと心を開くこと。一言にして言えば、味覚教育における言語教育とは、方法的順序に従って段階を追って指導される感覚と言語の訓練を通じた、きわめて具体的かつ効果的な、総合的人間教育の実践の一つにほかならないのである。


食をめぐる哲学的考察(6) ― 味覚と言語の弁証法(1)

2013-06-22 21:00:00 | 食について

 今日は、朝からから午後にかけて、本務校で今年度後期の学部の追試。その後は久しぶりにオペラ座近くで人と会う。夕食を共にする。

 気心の知れた人たちと食事を共にするのは楽しい。その時、料理そのものが美味しいに越したことはないが、仮にそうではない場合でも、料理に文句を言いながらでも、一緒に食べることが楽しいこともある。もちろん不味過ぎたら、その場の雰囲気もぶち壊しではあるだろうが、今はそのような場合は考えない。なぜ一緒に食べるのは楽しいのか。食べながらだと話が弾みやすいからだろうか。もちろんそれもあるだろう。適度なアルコールが舌を滑らかにすればなおさらのことであろう。しかし、なによりも食べるという行為そのものが共有されているところに楽しさの源泉があるのではないだろうか。では、ただ一緒に食べればいいのか。同じ物を食べれば、その条件として十分なのか。そうではなかろう。それぞれ自分の味覚があり、これは他者のそれとは交換不可能だ。たとえ親子であろうが、兄弟姉妹であろうが、夫婦であろうが、恋人同士であろうが、これはできない。もし一緒に食べている全員が黙々と無表情に食べ物を口に運んでいるだけだったら、楽しくはないだろう。表情や仕草で自分の感覚を伝えることもできるが、それには限界がある。やはり言葉で味覚を表現することによってはじめて、その味覚は共有されうる。あるいは自分と他者の味覚の相違に気づく。それは「美味しいね」とか「甘いね」とか「辛いね」といった単純な表現でもわかるが、自分の味覚をより正確に表現しようとすれば、もっと言葉が必要になる。このようにして、今食べているものについて語り合うことによって、味覚が共有されていく。さらには、味覚だけではなく、それぞれの人の五感によって感じられていることが言葉を通じて伝わり合う。その仲立ちとして食べ物がある。この会話を通じての味覚の共有、これが一緒に食べる楽しさの源泉なのではないであろうか。
 それは感覚を言葉に置き換えるということではない。味覚そのものは言葉ではない。味覚それ自体はそのままで、それに合った言葉を見つけ出すということでもない。味覚についてのより繊細・微妙な言語表現を求めることによって、味覚そのものもより敏感になる。そしてそのように感度・細やかさが増した味覚が、今度は言葉のセンスをより鋭敏にする。そこに働いているのは、味覚と言語との相互発展的な関係、あえて哲学用語を使えば、「味覚と言語との弁証法」とでも名付けるべき動的発展的関係性である。味覚を磨くためには言葉のレッスンが必要であり、言語表現力を高めるためには味覚を洗練させなくてはならない。一緒に食べること、それはこの味覚と言語の弁証法を共に生きることなのだ。それが楽しい。私たち人間は、幸いにも、そのように作られている。


雨中、オルタンシアの華影、そして紫陽花幻想

2013-06-21 21:00:00 | 随想

 今朝も目覚めると雨。日本の梅雨を思わせる、しとしと降る雨。その雨の中、今朝も昨日と同じプールへ。天気が悪かろうが10人程度の常連達は7時前には門扉前に並ぶ。私もその1人。夏が近づくと、利用者は自ずと増える。年間を通じての常連である私などには、それは少しも嬉しくない。しかし、日本と違うのは、少なくともパリでは、真夏、つまりヴァカンス中は、プールも空いているのである。プールだけでなく、普段の生活圏からヴァカンスでパリジャンたちがいなくなり、街がとても静かになる。だから私は8月のパリが好きだ。

 梅雨には紫陽花がよく似合う。フランスに植生する同種はオルタンシア(hortensia)、辞書には「セイヨウアジサイ」とある。花柄は日本の紫陽花より一回りも二回りも大きく、色も多彩。白は清楚、青は瑞々しく、薄紫は気品がある。濃い紫や紅色は特に目を引くが、私にはときに毒々しくさえ見える。ブルターニュ地方では、戸建の家を囲むように植え込まれているのをいたるところで見かける。満開時は豪華なドレスのように艶やか。ただ、花柄が大きいだけに、枯れ始めると途端に醜くなる。手入れの行き届いた庭では、枯れた花はすぐに取り除かれるから気づかないが、そのまま枯れるに任せてあるのを見ると、痛ましく、目を背けたくなる。窓外で強まる雨脚の音を聞きながら、今はない日本の旧宅の庭、他の草木の間で、ひっそりと雨に濡れていた薄青紫の紫陽花が幻のように脳裏に浮かぶ。

 こちらの学年度では今が年度末。毎年この時期になると、奨学金の申請、来年度からの他大学への進級、内部での修士2年への進級を希望する学生などから、推薦状の依頼がよく来る。今日も一通書いた。これら推薦状は、学科責任者として当然引き受けるべき責務なので、原則として断らない。今まで何通書いたか数えたことはないが、断ったのは一度だけ。その学生の頼み方があまりにも無礼だったので、「君のその頼み方そのものが、君が推薦には値しない学生であることの証だ」ときっぱりと断った。引き受けた中にも、成績からして推薦に値するかどうかきわどい場合もあり、そういう場合は、やはりどちらかというと形式的でありきたりな文面になってしまいがちだが、そうでなければ、一人一人、それぞれの学生の個性を考えながら、文面を工夫する。結果、大体みんな喜んでくれる。
 以前、英語の推薦状を依頼してきた学生がいて、この学生は私がこれまで教えたことがある学生の中で最優秀の一人で、しかも人柄も折り紙つきだったので、喜んで引き受けた。しかし、私の英語力ではありきたりの文面にしかならないので、仏語で書いた推薦状をイギリス人の同僚に英訳してもらったことがある。気持よく引き受けてくれたその同僚から、「こんな長くて凝った推薦状なんて見たことない。訳すのに苦労したわよ」と訳を渡されるときに言われてしまった。学生本人はその時日本に留学中で、日本から直接ニュージーランドの大学院に進学したくて私にメールで推薦状を頼んできた。だからこちらからも仏語版と正式書類として提出される英訳をスキャンして、PDF版で送った。文面にいたく感激したその学生は、推薦状の仏語版オリジナルを記念にとっておきたいから、在学中の弟に託してくれと頼んできたので、署名して渡した。
 推薦状について、私はこう考えている。それは、ただ褒めるだけのものではない。書き手の権威や社会的地位だけがものをいうのでもない。すでに他の証書によって認められている能力を追認するだけのものでもない。その学生の個性を捉え、本人がそれとしてまだよく自覚しているとはかぎらない潜在的能力をもはっきりと書き記すことによって、推薦者が、その学生にそうなってほしい、そして、そう成りうるのだから成るだろう、との願いと期待を込めて書くものだ。推薦した学生からの合格の吉報はもちろん嬉しい。でも、これまで貰って一番嬉しかった礼状は、日本語で、こう結ばれていた。
 「いただいた推薦状の内容に相応しい人間に成れるよう、これからなお一層精進します。」