内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パース哲学における二つの基本的態度 ― 鶴見俊輔『アメリカ哲学』を読みながら(承前)

2013-12-31 17:11:09 | 読游摘録

 鶴見俊輔『アメリカ哲学』は、第二章と第三章とがパースの紹介に割かれていて、それぞれ「パースの人と思想」「パースの意味」と題されている。詳細な研究とは言えないが、当時としては、日本で初めてのパースの人と思想とその業績の哲学的意味とについてのまとまった紹介として貴重だったのに違いない。私自身今回この二章を読むことで多くのことを学んだ。
 その他の「形而上学クラブ」のメンバーが主にイギリス哲学の影響下に自らの哲学を形成していったのに対して、パースだけがドイツ古典哲学から哲学に入っている点ですでに一人際立っている。青年期に三年間以上、カントの『純粋理性批判』を毎日二時間ずつ読んだ結果、とうとうこの大著を暗記するくらいにまでなったという。プラグマティズムという命名はパースによるものだが、それはカントのプラグマティッシュに由来することから考えても、この事実は単にパース理解のためだけでなく、プラグマティズム全体の理解のためにも忘れられてはならないと思う。このカントの用語の原意に忠実にそしてパースの意図に沿って考えるならば、プラグマティズムとは、思想と行為の目的との関係を広く考察する哲学的態度を基本とする哲学的潮流のことで、実用主義、実際主義、道具主義、行為主義等の訳語はその一部しか覆うことができないという意味で不適切であるし、プラグマティズムをアメリカ製の自己社会に好都合な軽佻浮薄な哲学と言って安易に批判することもできないことがわかる。ちなみに、フランスでもつい最近までプラグマティズムに対するこうしたそれこそ軽蔑的な軽視あるいは無視が主流であった。ジェイムズに対してだけは、ベルクソンとの交流があったために別格扱いだったが、それでも『宗教的経験の諸相』を除けば、フランス哲学界で積極的に研究されてきたとは言えない。
 パースの哲学上の古典の読み方は、しかし、カントに対してのみならず、最初から非常に独特であったようである。以下、鶴見俊輔『アメリカ哲学』からの引用。

「六歳の時からほとんど引続き実験室に居住して来た」知性は、どんな主張を聞かされても、それを次のように解釈しようとした。「これこれの実験をするならば、これこれの経験に出会うであろう」という形に、彼は、あらゆる主張の意味を翻訳し直すのである。そしてかかる実験条件に翻訳できないような主張は、意味なき主張として投げすててしまう。このような実験科学者の心をもって、パースは、哲学上の古典を広く読み漁った。こうして見ると哲学者の書いたものには、意味のないものが多かったが、それでも、スピノザ、カント、バークリー、スコトゥスなどの書物の中には実験科学者の知性をもってしても信用し得るところの多くの意見を発見し得た。このような彼一流の読み方こそ、後にパースをして、全く独創的な哲学者として思想界に登場せしめるための訓練を与えたのだった(18頁)。

 鶴見によると、パースを理解する上で、もう一つ重要なことがあるという。それはパースが実験科学者としての「謙遜さ」を持っていたことである。

「人間は間違い易いものだ」ということが、彼らには、身にしみて分っている。[中略]とにかく分野のいかんを問わず、実験を何度も何度も重ねたことのある科学者は、いずれも、自分の意見について謙遜な心持を抱く癖がついてしまう。[中略]科学者はだいたいにおいて、謙遜な態度で、自身の意見を眺め、したがって、常にそれを不確かなものとして把握しているのである(18-19頁)。

 これら二つの態度 ― 「自分並びに他人の意見を、常に、まちがっているかも知れぬものとして把握する」ことと「哲学的意見でも何でも、意見の意味を常に、ある実験条件と結び合して考える」ことと ― を、鶴見は、パースの「考え方の癖」と呼び、パースの思想体系はこれら二つの「癖」に沿うて展開されたという(19頁)。
 パース哲学の個々の主張を受け入れるか否かにかかわらず、この二つの態度を、私自身、これからの自らの哲学研究の基本的態度としていきたいという願いをここに記すことをもって、今年2013年最後の記事の締め括りとする。












プラグマティズム草創期とパースの不遇 ― 鶴見俊輔『アメリカ哲学』を読みながら

2013-12-30 23:16:28 | 読游摘録

 来月1月21日にパリ第七大学で行われる「文化生成のダイナミクス―断裂と継承、もしくはミメ―シス問題」と題された研究集会にディスカッサントとして参加する。詳しいことは知らないのだが、送られてきたポスターを見ると、明治大学が主体となってパリ第七大学がそれをサポートするという形で計画された集会のようである。明大の先生方三人が発表し、それに対してフランス側の研究者がディスカッサントとして応じるという形になっている。私が参加させていただくのは、合田正人先生の「日本のプラグマティスト、鶴見俊輔 ― 哲学の刷新とアジアの薄暗」と題された午前中の仏語での発表に対するディスカッサントとしてである。午後は、井戸田総一郎先生と大石直記先生とによる森鴎外についての日本語での発表が二つ。こちらはフランスを代表する日本近代文学研究者二人、セシル・坂井とエマニュエル・ロズランがディスカッサントとしてお相手する。
 今、その準備として、鶴見俊輔の『アメリカ哲学』を読んでいる。これが実に面白い。初版は1950年刊行。つまり日本がまだアメリカ進駐軍の支配下にある戦後5年目に、鶴見が28歳で発表した処女作である。鶴見は、戦中ハーバード大学でプラグマティズムのいわば現地教育を受け、戦後日本におけるプラグマティズム受容にとって最初の本格的な紹介者として重要な役割を果たしたことはよく知られている。しかし、それは、アカデミズムにおける一研究対象としてのプラグマティズムの「客観的」紹介ではなく、むしろ一般の日常生活から遊離したそのようなアカデミズムに批判的な立場からなされた、現実生活における実践的哲学の一つの具体的な形としてのプラグマティズムのいわば「主体的」紹介・解説・導入の試みなのである。
 いわゆる研究対象としては、日本でもその後様々に扱われてきたプラグマティズムではあるが、その淵源となった1870年代の「形而上学クラブ」の参加者については、チャールズ・サンダーズ・パース(1839-1914)とウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)を除いては、今日知る人も少ないであろう。ところが、この草創期が面白い。私自身の関心領域からしても、以下に引く発言は今日なお批判的検討に値する。

西田哲学におけるもっとも重大な業績が『善の研究』であり、『善の研究』中のもっとも重要な主張が、真実在は物心未分の境にあるということだと、佐藤信衛その他は説き、さらにこの考えは、西田がジェイムズを読むことをとおして把握されたことも西田の青年時代の日記を通して明らかである。西田哲学における最も重大な考えは、チョーンシー・ライトに始まり、ウィリアム・ジェイムズをとおって、西田幾多郎に流れ入ったものと言える。

『鶴見俊輔著作集』第一巻、筑摩書房、1975年、9頁。

 プラグマティズムの草創期から見ると、パースの哲学がいかに時代を超えて独創的でありながら、ジェームズの名声の影に不当に小さな評価に甘んじてきたかがよくわかる(もちろん今日は事情が異なり、パースの独創性は日本でもよく認識されている)。鶴見の記述もパースに割かれた二章において精彩を放っている。それにそこでの鶴見の自分の無知を認める率直さは、今日の「なんでも知っていらっしゃる」有能な研究者たちには完全に失われた態度として、とても新鮮である。その一節を引く。

 僕はパースについて独自の見解を持っているわけではない。正直に言えば、パースは僕にとって難しすぎる。大学に入った年に、ある講座のためにはじめてパースの論文を四つほど読み、少しも分らなかった。その次の年の夏休みに、勇猛心を奮い起こして、選集を読んだ。さらに最後の年に卒業論文の都合もあって、個人指導にあたって頂いたクワイン教授と一緒に、全集の一部を読んだ。しかし依然として、含蓄のはっきり分らぬ部分がたくさんある。
 そんな僕が、なぜパースのために二章も設けて、その思想の解説をするかというと、日本におけるプラグマティズムの解説が、これまでパースを完全に閑却してきたことを残念に思うからだ。プラグマティズムについての真面目な勉強は、何としても、まずパースの門をくぐらなくてはならない。(同書11頁)

 『パース著作集』(全三巻、勁草書房、1985-1989年)や『連続性の哲学』(岩波文庫、2001年)が容易に入手できる今日でも、というよりもそのような今日だからこそ、鶴見のこの引用の最後の一文はよりよく聴かれなくてはならないのではないだろうか。
 明日の記事では、その二章からの引用を交えつつ鶴見によるパース哲学紹介の紹介とそこから得られた若干の私見を述べる。











古典の読み方 ― 内在的理解の方法としての翻訳

2013-12-29 21:09:50 | 読游摘録

 今回の帰国に合わせて購入しフランスに持ち帰る和書は二十冊余りあるが、その中の一冊が大隅和雄『愚管抄を読む』(講談社学術文庫、1999年。初版は平凡社選書の一冊として1986年刊行)。『愚管抄』は、歴史を絶対者との関わりにおいて扱った、日本人の手になる最初の歴史書であり、その文章は晦渋をもって知られる。著者は、名のみよく知られ、実際にはその全体が読まれること稀なこの古典を現代語訳するという難事業に取り組まれた慈円研究の第一人者である。ほぼ一年没頭したというその苦心惨憺の訳業から得られた『愚管抄』の内在的理解に基づいて、この日本史上稀有の歴史書についての知見をいくつかの観点から明快に論述しているのが、この『愚管抄を読む』なのである。
 同書の「あとがき」で、著者は、国文学者と国史学者とが同じ日本の古典に取り組みながら、その古典の読み方には歴然とした違いがあり、前者は文章や表現に興味を持つのに対して、後者は事実とそれに関わる或る種の観念に関心を持ち、前者の研究会では、古典の文章そのものが朗々と暗誦されることしばしばであるのに対して、後者の研究会では、そういうことはめったになく、ことばや文字が主な関心の対象として話題になると言う。ところが、史学者である自分が訳業に取り組み、そのために『愚管抄』の文章を「地を這うようにして」読み、学校で繰り返し講読しているうちに、いくつもの文章を朗誦している自分に気づいて驚く。
 その直後、西洋の哲学者や思想家の研究者たちが質問に答えるときの自信に満ちた態度に触れ、「どうして昔の外国人の考えが、あんなによくわかるのだろうかと不思議に思い、不信の感じすら持つことが少なくなかった」(同書290頁)と、取りようによっては痛烈な皮肉にも聞こえるくだりの後、ところが、このことについて『愚管抄』を訳している間に著者自身思い当たることが多かったと言う。そこから著者の翻訳論が展開される。

翻訳ということは、単に一つ一つの文章を別の言葉に移してゆく作業の積み重ねで出来るものではなく、個々の行文の中で適切な訳語を探し、その配列を決めるためには、つねにその書物全体との関わりを考えていることが必要であり、その書物に書かれていないことまでも推測を続けていなければならないという、いわばあたりまえのことに、それまで翻訳という仕事をやったことのなかった私は、はじめて気がついたのである。つまり、広い意味でつねに翻訳という作業と密接に結びついた仕事をしている西洋の思想の研究者は、一人の思想家や或る古典について考える場合いつも、その全体を考えており、一字一句も洩らさず古典を現代語、自分の言葉に移し尽くすという作業を省略することができる日本古典の研究者は、特別な言葉や、部分的な記述だけにこだわっているのではないかと思った(同書290-291頁)。

 すべての西洋哲学研究者が著者の言う通りの作業に取り組んでいるわけではないから、彼らに対する評価としては妥当な記述だとは必ずしも言えないが、学問的作業の一環としての翻訳、原テキストの内在的理解のための方法としての翻訳のあり方としては、まさに勘所を押さえていると言うことができるだろう。私自身翻訳の経験があるが、翻訳はこうありたいと思う。しかし、この態度を忠実に守ることは、取り組まれる古典が偉大であればあるほど、その翻訳作業と全体理解の努力との間にはより多くの往復運動が繰り返され、その過程でテキストの理解は徐々に深まっていくとしても、訳業の完成への道のりはそれだけ遠く、困難なものになる。だが、翻訳出版そのものが目的でなく、あくまでテキストの内在的理解ということが目的ならば、この往復運動は無限であってよく、その過程でのもろもろの発見こそ学問の継承・発展にとって大切であろう。












「あとがき」を読む ― 学問のはじまりについて

2013-12-28 23:53:08 | 読游摘録

 帰国のたびに購入する日本語の本の大半は、研究や講義の参考文献としてだが、それらのうちの多くは斯界の碩学たちによるもので、それぞれの「あとがき」を読むだけで、学問に対する姿勢について学ぶところ少なくないばかりか、数十年に渡る研究についての著者たち深い感慨に触れ、心打たれることしばしばである。
 例えば、白川静『初期万葉論』の「あとがき」はこう始まる。

『万葉』についての考説を試みることは、私の素願の一つである。はじめに中国の古代文学に志したのも、そのことを準備する心づもりからであったが、久しく流連して帰らぬうちに歳月も過ぎて、すでに遅暮の感が深い。

 中国古代文学や漢字研究における白川静の記念碑的な業績を知る者は、1979年初版出版時69歳にして記されたこのさりげない一言だけで、学問に志すということがどれだけの遠き道のりに踏み入ることなのかと、畏怖の感さえ覚えざるをえない。各章の主題と目的について簡潔明瞭に説明した後、その「あとがき」はこう閉じられている。

この書が私にとって、そのような問題を考える機縁を与えてくれるものとなることを、希望する。











まだ見ぬかたの花を尋ねん ― 岩波文庫版『西行全歌集』刊行によせて」

2013-12-27 23:38:03 | 詩歌逍遥

 12月の岩波文庫新刊の一冊として、日本中世文学研究第一人者久保田淳と吉野朋美校注の『西行全歌集』が刊行された。発売と同時に購入。これまでにも西行歌集は数多出版されており、『山家集』をはじめとして、私自身数種の刊本をパリの自宅に置いてあるが、現在知られている西行の和歌すべて約2300首を集成した文庫版はこれが初めて。西行の歌を折に触れ時に応じ読みたい西行愛好家にとってはありがたいかぎり。表表紙の紹介文にあるように、「広く日本の詩歌に関心のある読者にとって読みやすいのみならず、専門家による研究にも資するべく編纂された決定版」と言うことができる。
 2010年春、桜を愛でるには遅すぎた5月初めに吉野山をある人と訪れた。花の盛りをとうに過ぎてはいたが(車を置いた駐車場の管理人が「今満開は東北地方に移動しております」とにこやかに私たちの時期遅れの訪問を歓迎しながら切符を渡してくれたのを覚えている)、それだけに観光客も疎らな吉野山を午後から夕刻にかけての柔らかな陽射しの中、ゆっくりと思いのままに散策できた。西行ゆかりの地を訪ね歩くだけの時間はもちろんなく、金峰山寺とその付近の寺と展望台を訪れただけだったが、それでも西行の歌碑がいたるところで目に止まった。その中でもある旅館の庭の隅に慎ましく置かれた歌碑に刻まれた歌がことのほか心に残った。

吉野山去年の枝折の道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねん (聞書集240)

 よく知られた歌の一つだが、吉野山でそれを鑑賞するのはまた格別であった。また見に来ようと昨年枝を折って印をつけた桜を訪れようとやって来たが、来ればそこにはない花里を尋ね知りたいという気持ちが沸き起こり、道を転ずる。知った道からあえて逸れるのは、単に空間的にまだ訪れたことのない場所に咲く別の桜を探し求めようという好奇心からだけではないであろう。この歌を詠ませているのは、幾度訪れても〈そこではない別の場所〉への憧憬を呼び起こさずにはおかない吉野山の魅惑に憧れ続ける、逍遥する詩魂そのものであろう。












生きている江戸職人気質 ― 人形町から上野池之端へ

2013-12-26 23:45:03 | 雑感

 今日、ちょっといいことがあった。
 以前から鼻髭と顎鬚を切り揃えるのにちょうどよいサイズで切れ味のいい小鋏を探していた。今日ようやくそれを見つけることができたのである。見つけた店は、人形町にある天明三年(1783)創業の老舗「うぶけや」。地下鉄日比谷線・浅草線人形町駅の出口A4脇の大きなオフィスビルの隣の古風な店構えのガラス戸を開けると、すぐにご主人が裏の工房から出てこられ対応してくれる。自分の顎鬚を撫でながら、「こんな髭用の小鋏ありますか」と聞くと、すぐに背後のガラス戸棚から箱入りの刃渡り二センチ半ほどの手のひらに収まるほどのサイズの鋏を出してくれた。そして、絹の布切れのほつれた端を差し出しながら、自分で試し切りをと言われるので、そのふわりと空中を漂うような切れ端にそっと鋏を入れると、ちょっと触れただけなのにすっとその切れ端が落ちていった。そのあまりの切れ味の見事さに感嘆し、即座にその鋏を購入しようと思ったのだが、その上で試し切りをさせていただいたガラスケースの中から、ちょっと不揃いな毛を切るだけだったらと、刃渡り一センチほどの更に小さい鋏を出してくれて、それも試してみた。やはり見事な切れ味。最初の鋏は10500円。小さい方は5040円。どちらも一生ものに違いない。ちょっと迷っていると、ガラスケースの端の方に爪切りが並んでいるのが目に入る。これまでついぞ切れ味に満足の行く爪切りに出会ったことがなかったので、それが気になりだす。値段も2000円前後と手頃だ。大小それぞれ出してもらって、手で感触を確かめ、小さい方を選ぶ。鋏も小さい方にする。〆て6405円。
 支払いをしながら、「この近所に髭を揃えるのにちょうどいいような小さな櫛をおいてある店はありますか」と尋ねたら、奥で包丁を研いでいる息子さんにも聞いたりして、「十三やさんにあるかな」と言われる。「お時間ありますか」と聞かれるので、「ええ」と答えると、その場で「十三や」に電話を入れてくれて、私が所望する櫛について説明している。受話器を置くと、「髭用というわけではないけれど、それにも使えるサイズのがあるそうです」と教えてくれる。そのお店の場所を教えていただけるかと聞くと、地図を描いて説明してくれた。奥から息子さんも道順について補足してくれる。
 礼を言って店を出、日比谷線に乗り上野まで移動。上野池之端にある「十三や」(「うぶけや」の店主が、櫛と九四をかけて、九足す四で「十三や」というのが屋号の由来と教えてくれた)は、不忍池に面しており、すぐに見つかる。やはり間口一間ほどの小さな店構えだが、創業は元文元年(1736)という老舗中の老舗。店内には、左手前にご主人が作業中、その奥に若主人が仕上げ作業中。右側のガラスケースにすべて柘植製の櫛が並ぶ。その奥に会計担当の若奥さん。「先程「うぶけや」のご主人が電話で問い合わせてくれた櫛を見に来たのですが」と来意を告げると、即座にご主人が若奥さんに「あれ出してあげて」と作業の手を休めずに肩越しに一言。すでに話は通じているようで、若奥さんがすぐに幅三センチほどの櫛をガラスケースから「こちらです」と出してくれる。まさに私が探していたサイズ。値段も2205円と手頃、ご主人が「これがちょうど最後の一つなんですよ」と言われる。私が「ああ、よかった。実は今一時帰国中で、長くは居られないので」と応ずると、「失礼ですが、どちらにお住いで」と聞かれるので、「フランスです」と答えると、「この櫛、イギリスなんですよ」と言われる。一瞬意味を図りかねていると、「お客さんで、イギリスに住んでいらっしゃる方がいて、その方がやはり髭用の小さい櫛がほしいというので、それで作ったんですよ」と仰られる。
 「うぶけや」といい「十三や」といい、私は彼らにとって見ず知らずの一人の飛び込みの客に過ぎない。しかし、彼らの対応のなんと間合いのよかったことか。客に対する礼節・配慮、自分たちの作るものに対する誇りと愛着、そしてその〈もの〉を介しての気持ちのいい言葉のやりとり。こうして江戸時代から受け継がれる生きた職人気質に触れることができて、購入した商品に対する満足以上の、何かもっと大切なものの存在に気づかされた。


揺るぎなき祖国愛と論理的徹底性の起源として父性 ― カヴァイエス伝から

2013-12-25 23:30:23 | 読游摘録

 昨日の続きで、カヴァイエス家のトゥールーズ時代。当時、ジャン・カヴァイエスの父親は、部隊の指揮官としての任務に全力を尽くしていた。以下、ガブリエルの『カヴァイエス伝』の和訳(一部省略・簡略化)である。時はなお1909年、ガブリエル9歳、ジャン6歳。

 母は、あなたたちの父親は自分の部隊の厳しい演習の帰路、部隊と行を共にしながら、冷たい雨が肩を濡らしているのも忘れて、隊員たち全員の気持ちを気遣っているのよと、私たち子こどもによく語って聞かせた。その頃、輝かしい前途を約束された父はとても陽気で、そのことが家族全員を幸福にしていた。とても柔軟な体を持った父は、まるでネコのように、両足を揃えたまま、床から子どもたちの勉強部屋の机の上に飛び乗って見せ、私たちを大喜びさせたものであった。子どもたちと遊ぶのに時を惜しむことなく、私たちが大人たちの会食に同席することを許された晩は、決まって父が微睡みかけた私たちを肩に乗せ、ベッドまで運んでくれた。

 ジャンがまず祖国を愛することを学んだのは父のもとでだった。私は今もなお、革命記念日の7月14日の閲兵式で、父が愛馬ファキールに跨がり、自分の部隊の先頭に毅然と立つ姿を見つめている小さな私たちをまざまざと思い出す。父は私たちの誇りであり、私たちがそれほどまでに愛しているのが、父なのかフランスなのか、まだよくわからなかった。

Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès Un philosophe dans la guerre 1903-1944, p. 34.

 この一節を読みながら、ジャン・カヴァイエスにおいて、若き数理哲学者として徹底して論理的に考え抜く堅忍不抜さと、祖国フランスのために命を賭して戦うことを自明のこととして一瞬も躊躇うことがなかった雄々しさとが、なぜ矛盾することなく生きられたかの、少なくともその大きな理由の一つが、この幼少期に刻印された父親像にあるのではないかと思った。


路面電車が私の部屋を駆け抜ける ― 魔法に満ちた幼少期の日常

2013-12-24 23:04:43 | 読游摘録

 昨日の記事で紹介したジャン・カヴァイエスの姉ガブリエルの手になるカヴァイエス伝は、彼女自身の記憶に基づいた幼少期の思い出の記述から始まる。だからそこにはまだカヴァイエス自身は登場しない。何か大河ドラマの第一回目みたいに、まだ登場するには幼すぎる主人公がこれから登場する舞台の叙述から始まるような感じ。
 父親は、フランス軍で将来を嘱望される若き中佐であり、士官学校で地理学を教える教授でもあった。その子どもたちの生まれ育った場所は、だから、彼の転任に伴い移動する。1909年、父の転任により家族はトゥールーズに移る。それ以前に住んでいたのはサンメクサンという田舎町で、そこに比べれば、子供の目にはトゥールーズは大都会であった。カヴァイエス家はその街の目抜き通りの一つの近くの一軒家に居を構える。その以下、その家で初めて自分一人の部屋を持つことを許された九歳の少女の興奮を伝える一節の訳である。

私たちは、トゥールーズの「若き淑女通り」にある、中庭と庭に挟まれた一軒家に住んでいた。その家で、優しい祖母のすぐ隣りの小さな部屋を自分一人の部屋として使う特権を私は与えられた。その部屋は通りに面していて、それまでサンメクサンの静かな田舎しか知らなかった私は、都会のざわめきにすっかり心を奪われた。とりわけ、路面電車が賑やかな音をたてながら家の前を通過するとき、その賑やかな音で私の部屋が一杯に満たされるのを聞くのが好きだった。この小さな部屋が、私自身とともに、その音を喜び迎え共鳴するかのように思われたのだ。この生気に満ちた陽気な音が、私が部屋に居ない時にもちゃんと鳴り響いているのかどうかどうしても知りたくなった。今でもよく覚えているが、この不思議について長いこと散々思い巡らした後、抜き足差し足でこっそりと私の部屋の扉の前まで来て、扉に耳をつけ、私が居なくてもあの奇跡が起こっているのかどうか耳を澄ませた。

Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès Un philosophe dans la guerre 1903-1944, p. 32.

 この一節を読んで、感受性豊かで好奇心に満ちた愛らしい少女の姿が目に浮かぶようで、私は思わず微笑まざるを得なかった。











この上もなく単純で大切なもの ― カヴァイエス伝を読みながら

2013-12-23 23:27:27 | 読游摘録

 すでに何度かこのブログでも言及したことがあるが、数理哲学者としてフランス・エピステモロジーの礎を築き、ナチス占領期にレジスタンスの闘士として銃殺されたジャン・カヴァイエス(1903-1944)というフランスの哲学者の名は、日本では専門家たちを除いては、これまであまり知られてはこなかったであろう。しかし、2011年に日本の哲学研究の次代の一翼を担うであろう若き俊秀近藤和敬による『構造と生成Ⅰ カヴァイエス研究』(月曜社)が、そして今年の10月になって同著者による『構造と生成II  論理学と学知の理論について』(月曜社)が出版されたことで、その死後70年になろうとしているカヴァイエスの傑出した哲学的業績と稀有な生涯がようやくより広い日本の読者に知られ始めようとしている。その専門領域である数理哲学において二〇世紀前半にフランス哲学界にもたらした決定的な貢献については、近藤氏の上記両著(後者はカヴァイエスの遺作にして代表作の本邦初訳に懇切な解説を付したもの)について見るに如くはなく、このブログで一知半解のいい加減な紹介をすることは、慎むことにする。
 このブログでは、明日以降、その近藤氏の解説でも引用されている、カヴァイエスの三歳年上の姉 Gabrielle Ferrières が書いたカヴァイエス伝 Jean Cavaillès Un philosophe dans la guerre 1903-1944, Paris, Éditions du Félin, 2003 を紹介していきたいと思う。というのも、この伝記は、カヴァイエス研究にとって貴重な情報と証言を多数含んだ必須の第二次文献として重要な資料であるばかりでなく、伝記文学としても名作の一つに数えられていいと私は思うからである。カヴァイエスについての予備知識なしに読み始めても、その伝記作者がいかに深く自分の弟を愛し、どれだけ誇りに思いながら書いているかが文章の隅々から伝わってくるのである。私自身、読み始めるとすぐに作者の話術に思わず引き込まれてしまい、幼少期の思い出を語る書き出しの部分を読んだだけで、その夢のように幸福で愛情に満ちた家族の風景の生き生きとした描写に、本を閉じて思わずホロリとしてしまうことを、それが朝の通勤のメトロの中であったにもかかわらず、禁ずることができなかった。それは自分が決して経験することのできなかった、何かこの上もなく単純で大切なものがそこではよく生きられていたことが痛切に感じられたからである。












あたかもずっと日本にいたかのように

2013-12-22 22:11:52 | 雑感

 昨日朝に実家に着いて、午後時差ボケによる睡魔に襲われたが、そこで仮眠を取ることなく、そのような脳の不活性状態でもできそうな雑用をさっさと片付け、午後11時頃就寝した。そして今朝は7時半頃に起床し、あたかもずっと日本にいたかのように普段の生活リズムで動く。午前中から、わざわざフランスから日本まで持ってきた(試験直後に採点していればこんなことしなくても済んだのですが)合計110枚ほど答案(一年生の演習「日本文明」と二年生の演習「日本近代史」の答案)の採点を始めた。一年生のから始めたが、予想以上に快適に作業が捗り、そうすると予め一日最低ここまでと決めた枚数に達しても、もう少しやってしまおうという気にもなり、こうなればしめたもので、明日以降も同じ試験問題の答案の採点であるから、効率がさらにアップすること間違いなし、見通しも気分も明るくなる。どうやら時差ボケからはもう抜け出したようだ。
 それはそうと、答案の採点については、少し態度を改めなければと思っている。以前は学生たちが驚くほどの速さで採点していた(午前中の試験の数十枚の答案を半日で採点し午後には答案を返却したこともあった)のだが、いつからかそれがアホらしくなり、以降、毎度のことながら、採点しなくてはならない答案の束を見ては、溜息をつき、一日延ばしにしては、それでますます面倒になり、成績提出期限が迫ってきて、仕方なしいやいや始めるということを繰り返している。今回も出発直前まで、年明けパリに戻ってからでも間に合うから、わざわざ日本にまで持って行くこともないかと迷ったが、フランスに帰国するときに少しでも軽い気分で帰るためにもと持ってきた次第。今回の帰国は、いつもと違って、ほとんど外で人に会うことはなく、実家であれこれできること、しなければならないことをするのが主たる目的なので、その合間に採点くらいはできるだろうということもあった。
 しかし、こんなしょうもないことを書き連ねても面白くもなんともないから、明日以降は、ぼちぼちとだが、今読んでいる本、これから読みたい本についての感想、それらに触発されてのこちらの思いや考えなどを綴っていきたい。帰国するたびに、特に滞在期間が短いときはそうしているのだが、日本から持ち帰りたい本を帰国前に予め注文しておく。すでに届いているそれらの本をパラパラとめくりながらあれこれ考えるのは、私にとってとても楽しい時間であるばかりでなく、そこから思いもかけぬ思考の発展が生れたりもする大切な時間でもある。