内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

食をめぐる哲学的考察(7) ― 味覚と言語の弁証法(2)

2013-06-23 21:00:00 | 食について

 昨日に続き、人と会う。発表原稿の準備が思うように進まず、本当はそれどころではないのにと内心困惑しつつ、遠路遥々パリまで来られた先方が今日しか都合がつかないとかねてから言っていたのだから今さらどうしようもない。昨日までに原稿が仕上げられなかったのは、まったく私だけの問題で、その人たちには何の責任もない。昼前からほぼ一日お付き合い。19時前に別れる。楽しくはあった、が、一人になってホッとする。明日日曜日は原稿に集中する。

 食べたものが与える味覚を言葉でできるだけ丁寧に正確に表現しようとすることは、いくら美味しいものを食べても、それだけでは身につかない。それ相当の語彙が必要であり、しかもそれがひとりよがりなものであっては他者に通じない。しかし、いくら語彙が豊富で、しかもその使い方が巧みであったとしても、同じ物をまったく食べたことのない人に、ましてや違う文化圏に属する人に、その食べ物の味覚を言葉だけで伝えることは至難の業だ。いくら外国文学の名作に出てくる味覚の描写を原文で読み込んでも、実際その当の食べ物を味わったことがなければ、描写からだけでは、たとえそれがどんなに見事な描写であれ、その食べ物が与える味覚には到達できないだろう。
 他方、人と同じ物をいつも食べていれば、自ずと味覚が共有されるという保証もない。ある味覚を持つということと、それが他者と共有されうるということとは別の問題だからだ。味覚の共有、あるいはその困難、さらにはその不可能性は、言語表現の練習を通じて自覚されていく。お互いの味覚を言葉にする相互的・協同的作業の中で、互いの間にある感覚の〈同一性〉と〈差異〉が分節化されていく。そのようにして開かれた言語的共同性の中で、それぞれの感覚が磨かれていく。そしてそのより鋭敏になった味覚が、その言語共同体の成員たちの言語表現能力を高めていく。これが私たちの日常の食生活の中で実践可能な「味覚と言語の弁証法」である。
 この味覚と言語の弁証法を、教育メソッドとして確立し、それを教育現場で実践しているのが、フランスにおける「味覚教育」である。そこでは特に言語教育が重視される。その狙いは次の3点にまとめることができる。第1は、味覚を言語化することによって、味覚が鋭敏になり、その鋭敏になった味覚が言語表現を豊かにするという、感覚と言語との弁証法的発展。第2は、言語によって、互いに他者との相違を理解し、自分の感覚を相手に正しく伝えるコミュニケーション能力の向上。第3は、視覚情報だけではその味覚が想像しにくい未知の食べ物について、言語が喚起する想像力によって、否定的・拒否的・排除的な先入観を取り払い、その食べ物を受け入れる経験を通じて、未知なるものへと心を開くこと。一言にして言えば、味覚教育における言語教育とは、方法的順序に従って段階を追って指導される感覚と言語の訓練を通じた、きわめて具体的かつ効果的な、総合的人間教育の実践の一つにほかならないのである。


食をめぐる哲学的考察(6) ― 味覚と言語の弁証法(1)

2013-06-22 21:00:00 | 食について

 今日は、朝からから午後にかけて、本務校で今年度後期の学部の追試。その後は久しぶりにオペラ座近くで人と会う。夕食を共にする。

 気心の知れた人たちと食事を共にするのは楽しい。その時、料理そのものが美味しいに越したことはないが、仮にそうではない場合でも、料理に文句を言いながらでも、一緒に食べることが楽しいこともある。もちろん不味過ぎたら、その場の雰囲気もぶち壊しではあるだろうが、今はそのような場合は考えない。なぜ一緒に食べるのは楽しいのか。食べながらだと話が弾みやすいからだろうか。もちろんそれもあるだろう。適度なアルコールが舌を滑らかにすればなおさらのことであろう。しかし、なによりも食べるという行為そのものが共有されているところに楽しさの源泉があるのではないだろうか。では、ただ一緒に食べればいいのか。同じ物を食べれば、その条件として十分なのか。そうではなかろう。それぞれ自分の味覚があり、これは他者のそれとは交換不可能だ。たとえ親子であろうが、兄弟姉妹であろうが、夫婦であろうが、恋人同士であろうが、これはできない。もし一緒に食べている全員が黙々と無表情に食べ物を口に運んでいるだけだったら、楽しくはないだろう。表情や仕草で自分の感覚を伝えることもできるが、それには限界がある。やはり言葉で味覚を表現することによってはじめて、その味覚は共有されうる。あるいは自分と他者の味覚の相違に気づく。それは「美味しいね」とか「甘いね」とか「辛いね」といった単純な表現でもわかるが、自分の味覚をより正確に表現しようとすれば、もっと言葉が必要になる。このようにして、今食べているものについて語り合うことによって、味覚が共有されていく。さらには、味覚だけではなく、それぞれの人の五感によって感じられていることが言葉を通じて伝わり合う。その仲立ちとして食べ物がある。この会話を通じての味覚の共有、これが一緒に食べる楽しさの源泉なのではないであろうか。
 それは感覚を言葉に置き換えるということではない。味覚そのものは言葉ではない。味覚それ自体はそのままで、それに合った言葉を見つけ出すということでもない。味覚についてのより繊細・微妙な言語表現を求めることによって、味覚そのものもより敏感になる。そしてそのように感度・細やかさが増した味覚が、今度は言葉のセンスをより鋭敏にする。そこに働いているのは、味覚と言語との相互発展的な関係、あえて哲学用語を使えば、「味覚と言語との弁証法」とでも名付けるべき動的発展的関係性である。味覚を磨くためには言葉のレッスンが必要であり、言語表現力を高めるためには味覚を洗練させなくてはならない。一緒に食べること、それはこの味覚と言語の弁証法を共に生きることなのだ。それが楽しい。私たち人間は、幸いにも、そのように作られている。


食をめぐる哲学的考察(5)

2013-06-17 21:00:00 | 食について

16日日曜日、朝は青空が広がり、幾筋も交錯する飛行機雲を、プールの帰り道に歩きながら見ていると、清涼な大気が胸中にも流れこんでくるような爽快感。午後は薄雲に覆われがちだったが、それは上空高い位置にとどまり、むしろ穏やかな明るさに風景全体が包まれていた。気温は24度近くまで上昇。それに伴い湿度は夕方30%台まで下がる。
 今さきほど、一応発表要旨を書き終えた。ピントが充分に絞り込めていないという不満を覚えるが、このまま一日「寝かせる」ことにする。明朝、研究集会責任者に送信する前にもう一度見直そう。

 西谷啓治『宗教とは何か』(著作集第10巻)第三章「虚無と空」の一節。

「底知れぬ深い谷も実は際涯なき天空のうちにあるとも言へるが、それと同時に虚無も空のうちにある、但しその場合天空といふのは、単に谷の上に遠く拡がつているものとしてではなく、地球も我々も無数の星もそのうちにあり、そのうちで動いてゐるところとしてである。それは我々の立つ足元にもあり、谷底の更に底にもある。」(110-111頁)

以下は「食をめぐる哲学的考察」の第5回目。今回のシリーズはこれが最終回。

 食研究に限ったことではないが、相異なった複数の対象を比較検討することは、当の考察対象をよりよく分析するために有効な一つの方法である。それは、考察対象に固有な問題を際立たせてくれるばかりでなく、他の事柄にも通じる共通問題を発見することを可能にしてくれることもある。しかも、比較される諸対象の間の類似点が一見明らかでないものの間の比較の方がより生産的な観点を私たちに与えてくれることが多い。比較という方法は、比較対象間の共通点を見出すことだけが目的なのではなく、場合によっては、むしろそれら対象間にある還元しがたい差異をそれとして明確に規定することを可能にしてくれるからこそ有効でありうることを忘れないようにしたい。このような意図から、言語と食との比較を試みてみよう。両者の間にはある一定のアナロジーが成り立つと同時に、それぞれに固有の問題も比較を通じて浮き彫りにされうると考えられるからである。
 一つの言語は、それぞれ独立な要素として存在する一語一語からなる記号の集合ではないし、言語行為は、それらの要素のうちの有限個を一定の規則に従って配列することに還元されうるものではない。一つの言語とは、それが現に話されている生きた言語であるかぎり、一定の規則に従って分節化をたえず繰り返している動的な全体であり、その分節化を通じて単語という単位も生まれてくるのであって、その逆ではない。しかもその分節化の規則は絶対的なものではなく、むしろ可変的なものであり、したがって、一つの言語を一つの語彙の固定的な体系に還元することはそもそもできない相談なのである。このことは、一つの言語は最初から一つの生命体のように有機的な全体なのであって、もともとはバラバラな部品から組み立てられたロボットのようなものではない、と考えれば理解しやすくなるだろう。ただ、注意しておきたいことは、ここで言う言語とは、決して「国語」のことではないのは言うまでもなく、「日本語」あるいは他の国名を冠された言語でもないということである。言語の生成は国家の生成とはまったく別の次元に属することであり、いわゆる「文化」という概念と相覆い合うものでもない。
 私たちが母語を話し始めるとき、まず規則を習うことから始めるのではないことは誰でも自分自身の経験としてよく知っている。母語は、私たちの体が受精卵から順次細胞分裂を繰り返して徐々に複雑な生命体として形成されていくのと同じように、最初から一つの生ける全体として与えられる。たとえ最初は小さく未分化ではあっても、そのようなものとして与えられる。それが一定の環境の中で分節化を繰り返すことで、より複雑な全体に変化していく。しかし、それは、単なる偶発的な複雑化ではなく、その程度と方向性とは環境によって限定されている。と同時に、それは、環境への適応力、さらにはその環境への働きかけの能力の発達過程でもある。この働きかけの能力とは、言葉による世界の分節化・差異化の事であり、そこに見られる〈言〉-〈異〉-〈事〉の三項が日本語においては「こと」という同じ音素によって表されていることは決して偶然ではなく、それが言語の成立過程についての多くの示唆を与えてくれることは、夙に指摘されていることである。言語の生成とは〈ことなり〉なのである。
 このように、言語が最初から一つの〈ことなり〉として私たちに与えられるのと同じように、食もまた〈もの〉としてではなく、〈こと〉として私たちに与えられていると言えないだろうか。食もまた、私たちと世界との関係の仕方として、その全体が有機的な連関において見られるとき、食する主体、食物、生産過程、流通システム、社会、自然環境などの相互的な関係性を〈ことなり〉として、総合的に捉える途が開かれてくるのではないだろうか。


食をめぐる哲学的考察(4)

2013-06-16 21:00:00 | 食について

 東京の実家には8年前に三ヶ月あまり帰国した時にまとめて送り返した本がまだ数千冊書庫に残したままになっているのだが、その大半は仏語の本。その中のいずれかをこちらでまた参照する必要が生じても、まさかその度に送り返してもらったのでは送料も嵩んでしまうので、お願いしにくい。結果として、研究上の必要に迫られて随分こちらで買い直すはめになった本もあり、何とも無駄な出費だとその都度自分で腹立たしくなる。しかし、とにかくこれらの本は必要とあればすぐにこちらで手に入るからいい。ところが、日本の我が蔵書の中には、現在こちらで在庫切れ、あるいは絶版になっている本もあり、これは送ってもらうか、帰国の際に自分でまたこちらに持ち帰るしかない。ここ数年、年2回は帰国するようになったので、その度に重量制限ぎりぎりまで本を詰め込んで帰ってくるが、本は重たくて一人では大した量は持ち帰れない。他方、今のアパルトマンではこれ以上蔵書を増やすわけにもいかないから、大量に持ち帰ることはいずれにせよ非現実的で、これからは毎回よく考えて本を選ばないといけない。日本語の本にしてもそれは同様で、この夏の帰国の際にもひとしきり選択に悩むことになりそうだ。
 ただ、今回、どうしても28日の発表前に読んでおきたい西谷啓治著作集第10巻『宗教とは何か ― 宗教論集Ⅰ』(創文社、1987年)を実家に頼んでEMSで送ってもらい、それが金曜日に届いた。西谷啓治の代表的著作の一つである同書の全6章のうち最初の2章以外はすべて「空」をそのタイルの中に含み、特に第3章「虚無と空」と続く第4章「空の立場」において、西谷固有の「空」論が展開されている。上田閑照によれば、「空」を「思索の根本範疇とした哲学者は西谷が初めてである」(『哲学コレクションⅠ 宗教』、136頁)から、発表の際に言及しないわけにはいかないだろう。ちなみに同書の英訳と独訳は1982年、スペイン語訳が2002年、イタリア語訳が2004年に出ている。フランス語訳は、私がパリでその5人の責任者のうちの1人である研究会の別の責任者の1人でもあるベルギーのルーヴァン・カトリック大学の哲学教授が、日本人の同僚の協力を得て、ようやく着手したと昨年6月の研究会の席で本人の口から聞いた。彼には11月の研究会でその『宗教とは何か』について紹介的な発表もしてもらった。近い将来の出版が期待される。

以下は「食をめぐる哲学的考察」の第4回目。

 都市生活を送る人たちにとって、食材・食料品は、生産現場から流通過程を経て供給されるのが普通であり、それら食材・食料品が生産される現場は、店頭に並ぶ商品としてのそれらの向こう側にいわば隠されている。食の安全性が問題視されるようになって、私たちは産地及び生産過程により注意を払うようになったが、それはあくまで自分たちが消費者として購入する商品としての食の安全性が問題になっているということであり、食を通じて私たちが置かれている世界との関係の総体の一部しかそこでは問題化されていない。

 もちろん、商品としての食べ物であっても、そこには、食材と健康との直接的な関係、つまり身体の健康に直接影響を及ぼすものとしての食べ物との関係という意味での直接性も内包されてはいる。とはいえ、それを含めたとしても、食の消費過程での問題しか取り上げられないかぎり、世界と私たちとの食を媒介とした関係の全体が視野に収められているとは言いがたい。
 では、消費過程だけでなく、生産過程をも考慮すれば、食を介しての私たちの世界との関係を全部覆いつくしたことになるだろうか。いや、それでもまだ不十分なのだ。と言うよりも、食の問題をその生産・消費過程の全体において問題化することは、それはそれとして私たちの食生活にとって重要な課題であることは勿論だが、それだけでは、それとは次元を異にした関係性がまったく視野に入ってこないのである。
 その関係性とは、食生活において形成される、世界と私たちとの存在論的な関係性である。これがすっかり抜け落ちてしまっているのだ。食についての既存の専門的研究は、それが栄養学、流通経済学、文化人類学、民俗学、社会学などのどの分野に属するものであれ、この関係性を主題化することは方法論上できない。この存在論的関係を問題化し、それにアプローチするための方法論は哲学にこそ求められなくてはならない。より正確に言えば、この関係性は現象学的存在論の領域に属する問題なのである。
 私たちが日常、食材・食料品と見なしている種々の対象は、私たちのそれらに対する関係とは独立に、それ自体が実体として存在するものではない。それらは〈食する〉ことによってもたらされる行為的連関の中でのみ、〈食べられるもの〉として私たちに立ち現われ、与えられてくるのである。例えば、熱帯に自生する椰子の実やバナナ、森林地帯のキノコ類は、人間に食べられることによって、人間にとっての食べ物としてこの世界に現前するのであって、それらが〈食する〉という行為の対象となることによって、現象世界の構成が変化するのである。あるいは、お伽話に出てくるような、すべてお菓子でできたお城を想像してみよう。普通の城のように石でできていると思ってその城を見ていたときと、それが全部お菓子だとわかった後とでは、そのお城そのものだけではなく、辺りの知覚風景全体も一変してしまうに違いない。
 しかし、〈食する〉ことによってもたらされるのは、単に世界の見え方が変るというだけのことではない。諸々の食べ物は私たちが生きている世界の一部をなしている。私たちがそれらを体内取り込むことによって、それらは私たちが生きるエネルギーに変換される。〈食する〉ことによって世界の一部が生命体を養うエネルギーに変換されるこの過程は、私たちの体の内部で起こる現象だが、それは取りも直さず、私たちがそこにおいて生きている世界における現象である。私たちが何をどう食べるかということは、世界の世界自身に対する関係の表現の一つなのである。


食をめぐる哲学的考察(3)

2013-06-15 20:00:00 | 食について

 14日は前日よりはいい天気。午前中は薄曇りだったが、午後になって晴れ間が広がり、夏雲が隆起する。気温は低めに推移。日中でも20度超すか超さないかといった程度。朝の日課の水泳はいつも通り。その後は一日原稿書きに集中するつもりが、なんとなく気乗りがせず、井筒俊彦のエッセイ「詩と宗教的実存 ― クロオデル論」(初出1949年,『読むと書く 井筒俊彦エッセイ集』慶應義塾大学出版会、2009年、332-349頁)に引用されていて、かねてより気になっていたポール・クローデルの劇作品『都市』(第二稿)の一節を手持ちのプレイヤード版で探し、見つける。同エッセイに引かれたクローデルの他の作品の原典箇所もついでに特定しておく。井筒俊彦は30の言語を解したという語学の天才(氏の才能はそれに尽きるものではもちろんないが)、クローデルの引用も当然自分の訳だろう。作品名のみで出典の明記がないので、クローデルの専門家でもない私には、長い作品の場合、出典箇所を特定するのに少々時間がかかった。一度こうして特定して記録しておけば、後日自分で引用する際に便利なので、ふと思いついた時には、他の作者、作品の場合にもそうしておく。
 勢いをかってというほどのことではないが、これも気になっていたラヴェッソンのデッサン論、正確には、『初等教育辞典』(1887年)の項目「デッサン」中の、ラヴェッソンが執筆した第2部「デッサン教育」の原文もネット上で探し、見つけておく。これはフランス国立図書館の電子図書館 Gallica から初版の写真版がまるごと無料で閲覧、ダウンロードできる。この「デッサン教育」でラヴェッソンが展開する独自のデッサン論は、ベルクソンが「ラヴェッソンの生涯と業績」で引用したことで有名になったが、哲学的に見て実に興味深い内容なのだ。これについては、11月初旬にパリの ENS で3日間に渡って開催されるベルクソン学会での発表の際に言及するつもりでいる。

 以下は「食をめぐる哲学的考察」の第3回目。

 食についての哲学的考察は、古代から現代までの哲学史を見渡しても、ほとんど見出すことができない。いったいなぜなのだろう。生きることそのことの在り方を根本的問うのが哲学であるとすれば、その生きることにとって不可欠な〈食べる〉という行為についての哲学的考察も当然あってしかるべきなのに、「食の哲学」と呼べる分野がないどころか、そもそも食についてまとまった考察をした哲学者がかつていたかどうかさえおぼつかない。哲学者たちのこの食に対する徹底したとも言える無関心はどう説明されるべきなのだろうか。
 確かに、哲学において食を問題としようとすると、そのアプローチの仕方如何にかかわらず、対象の特定が難しいということもあったかもしれない。例えば古代のストア学派にとっては、食行為が与える感覚の快楽から、他の快楽からと同様、いかに自らを解放するかということがむしろ問題になるだろう。精神の肉体からの独立と前者の後者に対する優位性を説く二元論にとっては、食行為など真剣な議論の対象とはなりにくいであろう。さらには、「何を食べようかと思い煩うな」と説くキリスト教にとって、食に執着することは罪でさえあるだろう。中世の教皇たちがどれほどの食に関しても贅沢三昧だったかはここで問わないことにするが。存在論における食の位置など、そう聞いただけで専門家たちは笑い出すに違いない。認識論において食行為の問題が取り上げられたということもないであろう。倫理学の分野で食行為が考察の対象になったという話も聞いたことがない。社会哲学的な研究ならば、そこで食生活が重要な考察対象となってもよさそうだが、やはり等閑視されているようだ。二十世紀以降盛んになった身体の哲学においても食の問題が特に取り上げられていないのはどうしたわけであろう。そもそも、近世以降繰り返し論じられてきた感覚論においても食行為が特に論じられてこなかったということは、むしろ重大な欠落とさえ言わなくてはならないのではないだろうか。
 私たちは今地球規模での大きな歴史的転換期を生きていると言われることがよくある。その当否はともかく、環境問題が二十一世紀の最重要課題の一つであるならば、身体とその環境世界との関係が最も直接的な仕方で成立する場である食の問題も、まさに不可避の問題になってくるであろう。つまり、今私たちが生きつつあるこの二十一世紀が私たちに突きつけつつある諸問題は、食が未開拓の哲学的考察の領野であることを自覚させようとしていると言えないであろうか。
 少なくとも、差し当たり、次の二つの問題系を、食を主題とした哲学的考察の対象として措定することができるだろう。
 一つは、外なる環境世界と身体との相互的な包摂関係の考察。食することによって、私がそこにおいて生きている世界の一部が私の身体の内部に取り込まれ、それが私の身体を生かす。そのようにして生かされている私が世界において働く、あるいは世界に働きかけ、新しい形をそこに与える。つまり、食べることによって世界の一部を身体内に取り込むことによって、この身体に世界を変えうるエネルギーが、世界内存在であるこの私の身体において生まれる。
 もう一つは、食における五感協働。食におけるほど私たちの五感が見事に協働している時が他にあるであろうか。食材に触れる、食べ物の色・形を見る、その香りを嗅ぐ、調理の際に音を聞く、そして口で咀嚼して味わう。まさに触覚・視覚・嗅覚・聴覚・味覚の共同作業の現場が食である。よく食べるとは、その意味でよく生きることにほかならない。


食をめぐる哲学的考察(2)

2013-06-14 20:00:00 | 食について

 今週に入って、夏の陽射しはまたどこかへ遠ざかってしまった。今日13日は朝から曇り、昼前になって雨が降り出し、午後5時頃まで降り続ける。気温は日中を通じて18度前後。雨があがると、それまで西空を覆っていた厚い雲の間に青空が広がり始め、室内に柔らかな光が射し込んでくる。

 来週火曜日の追試の試験監督まで大学に出向く必要がなく、この期間に28日の発表原稿をあらかた仕上げてしまいたい。数日前から、上田閑照の『哲学コレクションI 宗教』を読み直していて、その師であり、同書にも何箇所か引用されている西谷啓治にも発表で言及しようとは思っていたが、昨日になって、やはり同書に引用されている井筒俊彦にも言及することにした。そのほうが議論により広がりと奥行きができるからだ。とはいえ、発表の主たる目的は、あくまで日常の日本語の語感と用法から、いわば日本人の集合的・共同的深層記憶の中へと入り込み、そこから「虚」「空」「無」という語に込められた思想を取り出すことにある。

 以下は「食をめぐる哲学的考察」の第2回目。読み直しながら、食を分かち合うことの喜びを一緒に暮らしながら私に教えてくれた人のことを思う。

 「同じ釜の飯を食う」― この表現はどのような経験を意味しているのであろうか。同じ食べ物を複数の人間が分かち合って食べるというのが字義通りの意味だが、そこから拡張されて、食事も含めて一定期間共同生活を行うことを意味することもある。「同じ釜の飯を食った仲」という表現もよく見かけるから、そこには人間関係形成上特に重要な契機が含意されているようだ。
 しかし、もともと一緒に暮らしている家族やカップルについてはこうは言わない。そこにはどんな違いがあるのか。一般的に共同生活を話題とする場合、そこでは食以外の日常生活習慣も共有されている一方、他方では、字義通りに食事を共にしているとは限らない。ところが、「同じ釜の飯を食う」という時には、食べ物だけでなく、食事の時間を共有するということがそこには含意されている。言い換えれば、一つ屋根の下に一緒に暮らしていても、食べ物はばらばら、食事時間も別々では、この表現は適用されえない。いや、食べ物が同じでも食事時間が共有されていなければ、この表現が表そうとしている食行為の共同性の条件を満たしていることにならないだろう。しかも、同じ食べ物と言っても、外で出来合いのものを買ってきて一緒に食べただけでは、やはり完全にその条件を満たしたことにはならないだろう。
 以上のように考えてよいのなら、「同じ釜の飯を食う」ということが成立するためには、以下の三つの条件が満たされなければならないことになる。同じ物を食べること、その食べ物は自分たちあるいはその共同生活に給仕担当として参加している誰かによって調理された物であること、同じ時間に一緒に食べること。これを概念的に簡略化してまとめれば、物質的・行為的・時間的共同性という三重の共同性が「同じ釜の飯を食う」ことの成立条件だと言うことができるだろう。
 しかし、それだけのことならば、食以外にもこの三条件を満たす共同的行為はある。例えば、農作業、手工業のような協同的な労働、教室での学習、スポーツなどがそうであり、他にもあるであろう。つまりこれら三条件を満たしただけでは、「同じ釜の飯を食う」という表現が表そうとしている経験の固有性にまだ届いていない。「同じ釜の飯を食う」ことがそれへの参加者たちに、その参加期間中だけではなく、その共同性が現実的には成立しなくなった後にも、なお持続的な、概念的に抽象化されえない、身体的次元で成立する連帯性とも呼べるような親近性を相互に感じさせるのはなぜなのだろうか。言い換えれば、この食の共同性の経験が私たちに与える、他のものには還元しがたい価値はどこにあるのだろうか。
 これらの問いに次のように答えることができるだろう。私たちは、「同じ釜の飯を食う」ことによって、喜ばしい感覚の共時的共有、同じ物を分かち合う関係の平等性、共有された時間空間の中での相互承認・相互理解を学んでいる。しかも、それらは、社会的制度に依拠するのでもなく、法的義務として遂行されるのでもなく、外部的強制によるのでもなく、固定的な形式に拘束されることもなく、単なる伝統的習慣でもなく、個々の身体的主体の行為的参加を通じてのみ形成されうる共同性の経験において体得されているのだ。「同じ釜の飯を食う」ことによって、私たちは、食を享受できる感性的主体でありつつ、人と人の間に生きるものとしての人間になることを、感覚的・身体的次元から、つまり人間存在の構造契機をその原初的次元から学んでいるのである。


食をめぐる哲学的考察(1)

2013-06-13 20:00:00 | 食について

 11日火曜日午後は学科会議だった。9月からの新学年に備えての次期学科長選挙。立候補者1名のため、承認投票。全会一致で承認。その次期学科長から立候補の際に指名されていた副学科長の一人として私の任命も全会一致で承認される。これで私が責任を持つコースが開設された2006年以来ずっと副学科長のポストについていることになり、今回の任期2年を終えると在任期間9年。もう今回を最後のお勤めにして、その後は自分の研究に全力を集中したい。フランスの大学の教育・研究環境はここ数年急速に悪化の一途を辿っており、教員にとっては研究時間の確保がますます難しくなっている。この問題については後日ゆっくりと何回かに渡って現場レポートを残しておきたいが、今は28日の研究発表の準備に集中したい。ここ数日は、遅くとも17日にはその要旨を提出しなくてはならないフランス語の発表原稿を優先して進めている。来週にはその内容についてこのブログでも記事にできるだろう。それまでの間、ある一人の人のために以前書いた「食をめぐる哲学的考察」という一連のエッセイがあり、どこにも発表するつもりはなかったし、あてもないので、せっかく始めたこのブログに、それらを記録として残しておきたい。今日はその第1回目。

 食べることなしに生きることができないという意味で、食は生命維持の必要条件である。しかしただ無選択に食べるだけでは、外部から生命維持にとって害さらには危険をもたらすものを取り込むことにもなりかねないから、それだけでは生きるための十分条件ではありえない。食べるものを生命体としての自己身体にとって適切な仕方で選択・摂取することができてはじめて、食行為は生命維持を私たちに可能にする。つまり、ただ食べるのではなく、よく食べることが生きるためには必要なのである。
 しかし、私たちは何でも好きなものを自由にいつでも食べることができる環境には生きていない。と言うよりも、それはそもそもできない相談である。自覚的か無自覚的かを問わず、私たちの食生活は種々の条件によって限定されており、けっしてそれらから完全に自由になることはできない。たとえ完全な自給自足生活を送り、そのことにすっかり満足しているという極端な場合を想定することができるとしても、そのような生活を送っている人が食べることができるものはその生活を送っている土地の諸条件によって限定されている。他方、食にいくらでも贅沢することができる環境にあり、世界中の珍味を自由に取り寄せて食べることができ、あるいはいつでも食べたいものがある土地に出かける自由を持っている大富豪という逆の極端の場合を想定してみても、そのような環境を享受している人が一生に食べられる量にもやはり限りがあり、いつも選択を強いられていることに変わりはない。
 私たちは何を食べているのであろうか。この問に対して、食材、調理法、献立、栄養素を挙げることによって答えることができると私たちは通常考えている。そしてそれらの答えを基に、複数の人たちが〈同じもの〉を食べているという結論を引き出すこともできると考えている。そこから、同じ食生活パターンを示している集団を構成してみせることもできる。しかし、その時、そこに見出されるのは、その集団の構成要素としての個体、同じ集団に属する以上他の個体と交換可能な、それぞれに固有な個性を持たない、そのかぎりで抽象的な個体であり、それは他と交換不可能な、かけがえのない一個の食する主体ではない。つまり、このような、いわば統計的アプローチによっては、食における自律的個人に到達することはできない。
 しかし、個々人がそれぞれ自覚を持って律する食生活なしには、個人レベルでの近代化はありえないとしても、そのような自律した主体は他の主体との食の共有を排除するわけではない。むしろ自律した主体間にしか、分かち合いは成立しないのではないであろうか。
 宗教儀礼の中には、同じ食べ物あるいは飲み物を分かち合うという秘儀を通じて神に帰依し、そのようにして神に帰依するかぎりにおいてその秘儀への参加者は共同体の成員としての認証を得るというタイプがある。この場合、神への帰依が同じ物を食べ飲むという行為を通じて表現されている、あるいは象徴化されているわけで、食するという行為それ自体がそれとして聖なる行為なのではなく、その行為が神への帰依によって聖化されていると言わなくてはならない。