昨日に続き、人と会う。発表原稿の準備が思うように進まず、本当はそれどころではないのにと内心困惑しつつ、遠路遥々パリまで来られた先方が今日しか都合がつかないとかねてから言っていたのだから今さらどうしようもない。昨日までに原稿が仕上げられなかったのは、まったく私だけの問題で、その人たちには何の責任もない。昼前からほぼ一日お付き合い。19時前に別れる。楽しくはあった、が、一人になってホッとする。明日日曜日は原稿に集中する。
食べたものが与える味覚を言葉でできるだけ丁寧に正確に表現しようとすることは、いくら美味しいものを食べても、それだけでは身につかない。それ相当の語彙が必要であり、しかもそれがひとりよがりなものであっては他者に通じない。しかし、いくら語彙が豊富で、しかもその使い方が巧みであったとしても、同じ物をまったく食べたことのない人に、ましてや違う文化圏に属する人に、その食べ物の味覚を言葉だけで伝えることは至難の業だ。いくら外国文学の名作に出てくる味覚の描写を原文で読み込んでも、実際その当の食べ物を味わったことがなければ、描写からだけでは、たとえそれがどんなに見事な描写であれ、その食べ物が与える味覚には到達できないだろう。
他方、人と同じ物をいつも食べていれば、自ずと味覚が共有されるという保証もない。ある味覚を持つということと、それが他者と共有されうるということとは別の問題だからだ。味覚の共有、あるいはその困難、さらにはその不可能性は、言語表現の練習を通じて自覚されていく。お互いの味覚を言葉にする相互的・協同的作業の中で、互いの間にある感覚の〈同一性〉と〈差異〉が分節化されていく。そのようにして開かれた言語的共同性の中で、それぞれの感覚が磨かれていく。そしてそのより鋭敏になった味覚が、その言語共同体の成員たちの言語表現能力を高めていく。これが私たちの日常の食生活の中で実践可能な「味覚と言語の弁証法」である。
この味覚と言語の弁証法を、教育メソッドとして確立し、それを教育現場で実践しているのが、フランスにおける「味覚教育」である。そこでは特に言語教育が重視される。その狙いは次の3点にまとめることができる。第1は、味覚を言語化することによって、味覚が鋭敏になり、その鋭敏になった味覚が言語表現を豊かにするという、感覚と言語との弁証法的発展。第2は、言語によって、互いに他者との相違を理解し、自分の感覚を相手に正しく伝えるコミュニケーション能力の向上。第3は、視覚情報だけではその味覚が想像しにくい未知の食べ物について、言語が喚起する想像力によって、否定的・拒否的・排除的な先入観を取り払い、その食べ物を受け入れる経験を通じて、未知なるものへと心を開くこと。一言にして言えば、味覚教育における言語教育とは、方法的順序に従って段階を追って指導される感覚と言語の訓練を通じた、きわめて具体的かつ効果的な、総合的人間教育の実践の一つにほかならないのである。