内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ブラジルからパリへ、別離と戦争、そしてアメリカへ ― レヴィ=ストロース両親宛書簡集を読む(7)

2015-11-30 09:43:39 | 読游摘録

 リセの哲学教師としての最初の任地 Mont-de-Marsan からの最後の手紙の直後に収録されているのは、ブラジルに向かう船の出航を間近に控えたマルセイユからの夫婦連名の電報である。日付は、1935年2月3日。

BON VOYAGE BATEAU SPLENDIDE PENSONS À VOUS À BIENTÔT BAISERS = DINACLAUDE

 この電報の後に、スペイン東岸沿いを航行中の船上で書かれ寄港地で投函された一通がある。その日付は、電報のそれの二日後の2月5日。船上の様子や寄港地バルセロナの街の風景、同船者たちの印象などが記されている。レヴィ=ストロース夫妻を載せた船は貨物船で、彼らのようにブラジルへの渡航目的で乗船していたのは、全部で九人だけとある。
 この手紙が書簡集の前半の最後の一通であり、ブラジルからの手紙は一通も収録されていない。それが意味するのは、そもそも手紙がないということなのか、あるいは、見つからないということなのか、あるいは、その他の理由で収録されていないということなのか、何の注記もないのでわからない。
 書簡集の後半は、アメリカ入国直前に、フランス海外県の一つマルティニークから発送された、1941年4月25日付の一通から始まる。同年3月、ナチス・ドイツ占領下のフランスでの迫害を逃れようとする218名の難民たち(その中にはアンドレ・ブルトンもいた)と共にアメリカに向かう船上で書かれた手紙である。
 この二通の手紙を隔てる六年間に若き人類学者レヴィ=ストロースが誕生する。1939年3月にブラジルからパリに戻る。同月、レヴィ=ストロースは最初の妻ディナと事実上別れている(正式な離婚の成立は、1945年の春まで待たなければならない。別れる理由、当時のディナから夫への痛切な手紙、そしてディナが自殺未遂に至る経緯等については、Emmanuelle Loyer, Lévi-Strauss, 239-241頁を参照されたし)。9月に第二次世界大戦が勃発する。このようにレヴィ=ストロースが私生活での関係破綻と世界史的転換点とを経験したのは、パリでブラジルから持ち帰った膨大な資料の整理と分析に没頭しているときのことであった。

Le temps que je les classe et que je les analyse, la guerre a éclaté. C’est aussi à ce moment que Dina, ma première femme, et moi nous sommes séparés (Claude Lévi-Strauss, Didier Éribon, De près et de loin, Odile Jacob, coll. « Poches Odile Jacob », 2001, p. 39).

 

 

 


ランのリセ哲学教師時代に訪れる決定的な転機 ― レヴィ=ストロース両親宛書簡集を読む(6)

2015-11-29 13:52:56 | 読游摘録

 リセの哲学教師としての最初の任地 Mont-de-Marsan からの書簡群は、期間にして十ヶ月弱の間に書かれ、数にして九十七通、量にして同書簡集全体の約三割を占めている。この期間のレヴィ=ストロースの生活について知ることができる他の資料の乏しさからも、これらの書簡は貴重な情報源だとも言えるが、何か伝記上特筆に値する出来事が語られているわけではない。購入する車の選択、当時夢中になり始めた写真機の話、手料理のレシピの事細かな記録など、その筆まめなことには驚かされる。この任地からの最後の書簡はの日付は、1933年6月16日と推定されている。
 同年の9月1日付で、レヴィ=ストロースは、第二の任地ラン(Laon)に任命される。同地は、パリの北東約120キロに位置し、当時でもパリから電車で一時間半ほどであった。しかも、同校での担当授業数・時間は他の地域のリセに比べて少なく、かつそれらを教師の都合に合せて二三日にまとめてしまうことができたので、当時、パリに暮らす若き哲学のアグレジェたちに人気の任地の一つであったという(因みに、1936年、レヴィ=ストロースが同地での任期を終えてから一年半後に、サルトルがそのポストについている)。
 その1933年に、夫の協力を得て哲学のアグレガシオンを準備していた妻ディナもアグレジェとなり、アミアンに任命される(昨日の記事では、レヴィ=ストロースが最初の任地に赴いたときにすでに彼女もアグレジェであったかのような記述になっていたので、ここに訂正しておく)。
 このラン時代には両親宛の書簡がないのは、レヴィ=ストロースがパリの両親の家から任地に毎週通っていたからである。週の前半にすべての授業をまとめてしまい、後半と週末はパリで、アミアンで同じく週の前半に授業をまとめた妻と両親の家で過ごした。それぞれ任地ではホテル暮らしであった。
 1933年10月から翌年暮までの一年二ヶ月のランのリセ哲学教師時代に、25歳のレヴィ=ストロースの以後の人生にとって決定的な転機が訪れる。もしその転機が訪れず、リセで哲学教師を続けていたら、後の偉大なる人類学者は誕生しなかったと言っても過言ではないであろう。その転機は、1934年の秋に訪れる。そのときのことについては、二十世紀の名著百冊中の一冊に数える人も少なくないであろう『悲しき熱帯』の第二部第五章の冒頭で、レヴィ=ストロース自身が語っているので、よく知られれている。日本人にとって幸いなことは、同書には川田順造先生の名訳があることである。ここには原文を引いておく。

Ma carrière s’est jouée un dimanche de l’automne 1934 à 9 heures du matin, sur un coup de téléphone. C’était Célestin Bouglé, alors directeur de l’École normale supérieure ; il m’accordait depuis quelques années une bienveillance un peu lointaine et réticente : d’abord parce que je n’étais pas un ancien normalien, ensuite et surtout parce que, même si je l’avais été, je n’appartenais pas à son écurie pour laquelle il manifestait des sentiments très exclusifs. Sans doute n’avait-il pas pu faire un meilleur choix, car il me demanda abruptement : « Avez-vous toujours le désir de faire de l’ethnographie ? – Certes ! – Alors, posez votre candidature comme Professeur de sociologie à l’Université de São Paulo. Les faubourgs sont remplis d’Indiens, vous leur consacrerez vos week-ends. Mais il faut que vous donniez votre réponse définitive à Georges Dumas avant midi. » (Claude Lévi-Strauss, Tristes tropiques, Pocket, coll. « Terre humaine / Poche », 1984, p. 47)

 


「私」から「私たち」へ、最初の任地での新婚生活 ― レヴィ=ストロース両親宛書簡集を読む(5)

2015-11-28 05:13:30 | 読游摘録

 ストラスブールから両親宛に送られた手紙のうち、同書簡集に収録されている最後の手紙の日付は、1932年2月11日と推定されている。
 同年、レヴィ=ストロースは、学生時代の友人たちの中で政界へ打って出た何人かのおかげで、パリの戦争省にポストを得る。大臣付きの秘書官の一人として、情報整理を職務としていたようである。
 このパリでの数ヶ月の勤務の後、リセの哲学教師としての最初の任地である Mont-de-Marsan(ボルドーから100キロほど南に位置する)にレヴィ=ストロースを見出すのは、同年の夏の終わりのことである。この地からの最初の両親宛の書簡は、9月22日と推定されている。
 この書簡を読み始めてすぐに気づくのは、それまでの書簡では自分のことを語るのに主に人称代名詞一人称単数 « je » が用いられていたのに、それが複数 « nous » に取って代わられていることである。ここに、突如として、一人の女性が登場するのである。
 名前はディナ(Dina)。イタリア系ユダヤ人で、子供の頃に両親とともにローマからパリに移住してきた。レヴィ=ストロースと同じく哲学の教授資格を持った女性である。この女性がレヴィ=ストロースの最初の妻となる。
 しかし、二人がどこでどのようにして最初に出会ったのかは、書簡集からはわからないし、同書簡集と同時に刊行された、Emmanuelle Loyer の浩瀚なレヴィ=ストロースの伝記を見ても、いくつかの仮説を立てることにとどめている。あるいは、ソルボンヌの哲学の講義で机を並べていたとき、あるいは、共に熱心な社会党員だったとき、あるいは、レヴィ=ストロースがストラスブールからパリに戻っている間等々。(Emmanuelle Loyer, Lévi-Strauss, Flammarion, coll. « Grandes Bibliographies », 2015, p. 100-101)。
 最初の任地での新婚生活は、アパート探しなど、生活の立ち上げに必要なあれこれの手続き・雑用等に関しては、事がそうすんなりとは運ばず、二人は失望することもあった。が、それでも、二人は幸せである。そのことが文面からわかる。そんなときにも、しかし、レヴィ=ストロースは、両親への気遣いを忘れない。最初の書簡から最後の一節を引く(Lévi-Strauss, op. cit., p. 162)。

 Dina est épatante et a pris tous ces ennuis et cette arrivée décevante avec une bonne humeur et une gaîté merveilleuses. Je crois que ce séjour ne sera pas malheureux ! J’espère que vous ne vous sentez pas trop seuls – nous reviendrons dans trois mois !
 Je vous embrasse,
                                          Claude

 

 

 


独りになるために手紙を書く ― レヴィ=ストロース両親宛書簡集を読む(4)

2015-11-27 04:56:11 | 読游摘録

 兵役中にストラスブールの兵舎から両親宛に送られた手紙五十三通は、入隊からパリへの配置転換までの約四ヶ月の間に書かれている。日付や冒頭の記述などから、一日の中で何回かに分けて書かれていることがわかる書簡が多い。軍事教練の合間に時間を見つけては、あるいは、休暇中に親族の家を訪ねる合間に、書き継いだのである。手紙を書く直前の出来事の現場レポートのような体裁になっていることもある。
 この軍隊生活の中で、何が一番レヴィ=ストロースを苦しめたか。それは独りになる時間がまったくないということであった。それはトイレでさえそうだと言う。

Ce qui est le plus pénible, c’est l’absence totale de solitude. Jamais on n’est seul, même aux cabinets (op. cit., p. 25).

 独りになること、レヴィ=ストロースはそれを生涯求め続けたとドミニック夫人は言う。

Cette solitude, si nécessaire, Claude l’a recherchée toute sa vie. Non pas qu’il refusât de vivre avec ses contemporains, mais il redoutait tout bruit qui entraverait ses réflexions (ibid., p. 9-10).

 同時代人との付き合いを忌避したのではない。そもそも、人間嫌いだったとしたら、人類学者には到底なれなかったであろう。ただ、騒々しさが思索を妨げることを恐れたのだ。
両親宛にほとんど毎日のように手紙を書き続けたのは、片時も独りになることができない兵舎にあって、人間らしい言葉のやりとりを書簡という形で沈黙の裡に実行することで、親密な対話の時間を作り出そうとしてのことであったのだろう。

D’où le choix du mode épistolaire pour échanger avec les humains. Dès qu’il le pouvait, il s’adonnait au plaisir de correspondre (ibid., p. 10).

 

 

 


日常生活の精確な記述態度が予告する未来の民族学者 ― レヴィ=ストロース両親宛書簡集を読む(3)

2015-11-26 05:41:33 | 読游摘録

 この書簡集の中にレヴィ=ストロースの隠された「思想」を探そうとしても無駄である。その文面と行間を満たしているのは、レヴィ=ストロースの両親への溢れるような情愛である。
 簡明な表現で語られるのは日常の細部に限られ、著書に見られるような彫琢された文章による文明への深い洞察はそこには片鱗もない。
 序文の中で、レヴィ=ストロース夫人ドミニックは、こんな日常の些末なことばかりが書き並べられた書簡を公刊することにいったいどんな意味があるのか、という予想される非難に対して、こう答えるだろうと、以下のように記している。

Aux reproches, je répondrai : écrites il y a quelque quatre-vingts ans, ces lettres témoignent d’un monde disparu, que bien des jeunes auront grande surprise à découvrir. Les rues éclairées au gaz, les maisons chauffées par des poêles, le courrier distribué même le dimanche. Claude réclame à sa mère des chiffons. Pour faire briller ses boutons ! Peut-on imaginer un monde sans papier essuie-tout ? Et les conditions sanitaires. Ne pas pouvoir se laver pendant des jours. Précises, ses descriptions, qui ne privilégient aucun plan de la vie quotidienne, annoncent le futur ethnographe (op. cit., p. 12).

 今から八十年前のフランスの日常生活の風景を記述しているというだけのことなら、必ずしもレヴィ=ストロースの書簡に拠る必要はないであろう。この点、レヴィ=ストロース夫人の弁明はあまり説得的ではない。
 未来の偉大なる人類学者の若き日の私生活を垣間見ることに興味惹かれないわけではもちろんないが、その一つ一つの細部に後年の思想の萌芽を見出し、それに過剰な意味づけをしてみたところで、この書簡集が面白く読めるわけでもないように思う。
 ただ、上の引用の最後にあるように、書簡中の記述態度、日常生活のいかなる面も特別視することなく、それらすべてを精確に記述していく態度の中に、未来の民族学者の資質を読み取ることは、おそらく間違ってはいないだろう。



 


初めて両親のもとを離れて ― レヴィ=ストロース両親宛書簡集を読む(2)

2015-11-25 06:49:04 | 読游摘録

 レヴィ=ストロースは、一人っ子であり、両親によって大切に育てられた。特に、母親は、息子の成長のみを楽しみにしているような家庭婦人であった。
 1931年10月、23歳の誕生日を約一月後に控え、レヴィ=ストロースは、兵役義務を果たすべく、生まれて初めて、長期間両親のもとを離れ、ストラスブールの部隊で軍隊生活を送る。両親の心配が痛いほどわかる息子は、彼らを安心させるために、二日に一度は手紙を送る。それらの手紙にときに見られる、ちょっと強がった調子も、両親に心配を掛けないためであった。
 レヴィ=ストロースの父親は肖像画家であった。写真の普及とともに注文が激減し、レヴィ=ストロース家の経済生活はけっして容易なものではなかった。もちろん息子はそのこともよくわかっている。
 書簡集は、仮配属される部隊への出発を待ちながら、ストラスブール駅前で立ったまま走り書きされた1931年10月23日消印の一通から始まる。

Un petit mot rapide debout devant la gare, en attendant de partir. Le voyage s’est fort bien passé, un peu mélancolique au départ, mais cela passe vite en voyant défiler du pays. Les environs de Bar-le-Duc ressemblent aux Causses. Bien déjeuné, accueilli à la gare par un aimable adjudant alsacien. Envoyé ma valise chez Coralie. Nous irons, paraît-il, à une caserne provisoire du côté du Comtat (?) et du Corbeau (?). Puis l’affectation se fera entre treize casernes. Donc je peux rester quelque temps sans savoir où je suis définitivement. Il fait beau. Je vous embrasse,

Claude

 



日記のように書き送られ続けた両親への手紙 ― レヴィ=ストロース両親宛書簡集を読む(1)

2015-11-24 18:12:59 | 読游摘録

 九月後半のある日曜日、パリに滞在していたときのこと、好天に恵まれた日中、宿泊先のホテルからほど遠からぬムフタール通り(rue Mouffetard)をぶらついていたら、本屋が開いていたので、ちょっと覗いてみた。日曜日に開ける本屋はパリでも希少であるから、さほど大きくはない店内に十人ほどの客がいた。もっとも、観光客と思しき外国人がその半数以上だったろうか。
 入口脇の目立つ棚に、今月の新刊として、レヴィ=ストロースの両親宛書簡集 « Chers tous deux » Lettres à ses parents 1931-1942 (Seuil, coll. « La Librairie du XXIe siècle »)Emmanuelle Loyer によるレヴィ=ストロースの伝記(Flammarion, coll. « Grandes Biographies ») とが並べてあるのにすぐに気づく。少し立ち読みさせてもらって、買うことに決めた。が、本屋には申し訳ないと思いつつ、そこでは買わず、ホテルに帰ってネットで注文し、ストラスブールの FNAC に届くように手配した。
 数日後には入手したのだが、それ以来、仕事机の脇の本棚に両書を積んでおくばかりで、紐解く時間がなかった。今日になって、少し仕事に使う本の配置を変える必要から、両書を移動させるついでに、パラパラと書簡集の方をめくってみた。
 同書は、レヴィ=ストロース夫人の最終的な編集によるが、大きく二部に分かれ、前半は「戦前書簡」 (« Lettres d’avant la guerre »)、後半は「アメリカ(からの)書簡」(« Lettres d’Amérique»)と題されている。後者については、レヴィ=ストロース生前から出版計画があったためか、書簡が書かれた経緯と検閲の目を逃れるために書簡中に使用されている暗号等についてのレヴィ=ストロース本人による説明(2002年執筆)が前書きとして付されている。
 夫人による書簡集全体の前書きの最終部分を引用する。

  Après la mort de Claude, j’ai dû faire de l’ordre dans ses papiers. J’ai lu ces paquets de lettres avec un plaisir étonné : j’entendais sa voix, je revoyais ses traits, les descriptions me rappelaient l’homme avec lequel j’ai vécu presque soixante ans. Être réservé, si intimidant et mal connu.
  De Strasbourg durant son service militaire, de Mont-de-Marsan où il exerça pour la première fois le métier de professeur, de New York en exil, ces lettres écrites presque quotidiennement forment une sorte de journal. Et un journal n’est rien d’autre qu’un autoportrait.
  En le rendant public, je voudrais faire connaître l’homme qui se cache derrière le savant (Claude Lévi-Strauss, op. cit., p. 13).

 夫の死後、夫人は、夫が遺した膨大な書類を整理しなければならなかった。その中の書簡の束を読みながら、夫人は、驚き喜ぶ。亡き夫の声が聴こえ、その顔立ちが思い浮かぶ。書簡の記述は、ほぼ六十年間生活を共にした夫を思い出させる。控え目で、とても怖そうで、(あれほど有名でありながら、ほんとうには)よく知られてはいなかった人。
 兵役義務を果たすために滞在していたストラスブールから、初めて教壇に立ったモン・ド・マルサンから、亡命中のニューヨークから、同書に収めらている書簡は、ほとんど毎日のように書かれ、それらは一種の日記となっている。そして、その日記は、レヴィ=ストロースの自画像に他ならない。
 これらの書簡を公開することによって、夫人は、「学者」(« le savant »)の背後に隠れている「人間」(« l’homme »)を読者に知ってほしいと願っている。


『古代において哲学することを学ぶ』(承前)― 古代において哲学者として生きるとは

2015-11-23 11:05:53 | 読游摘録

 昨日の記事にも書いたように、エピクテートスの『提要』は、エピクテートス自身によって書かれたものではない。その弟子のアリアノスが、エピクテートスの講義に出席しながら取っていた自分のノートから、エピクテートスの教えのエッセンスと思われる表現を抜粋したものである。手元にあるピエール・アドの仏訳で、わずか四十五頁に過ぎない小著である。アリアノスは、何のためにこの『提要』を作成したのだろうか。
 アリアノスは、講義と著述を生業とするいわゆる職業的哲学者ではない。国家の運営に関わる行政官の一人であった。しかし、これは古代ギリシア・ローマにおいて例外的なことではなかった。同時代人から哲学者と認められていた人たちの中には、同様の例をいくつも挙げることができる。ソクラテスの弟子クセノフォンは軍人、キケロは政治家、先日の連載で取り上げたセネカも政治家、そして、日本でもその『自省録』がよく読まれているマルクス・アウレリウスはローマ皇帝であった。これらの先人の顰に倣い、アリアノスは自らも哲学者として生きようとしたのである。
 では、アリアノスが哲学者として同時代人に認められたのは、彼が哲学的著述をしたからであろうか。それは必ずしもそうではない。というのは、コリントやアテネの人たちは、アリアノスに著述があることさえ知らなかったのにもかかわらず、アリアノスを哲学者として碑銘を刻んでいるからである。
 それと同様に、マルクス・アウレリウスが哲学者皇帝として同時代人に認められていたのは、自分のために書いていただけで、側近を除けばその存在さえ知られていなかった『自省録』によってではなく、マルクス・アウレリウス自身が、自分は哲学者として生きると公言していたからである。
 エピクテートスの愛弟子であったアリアノスが哲学者として同時代人に認められていたのも、国家の行政官あるいはその運営に携わる政治家として公的生活を送りつつ、ストア哲学の教えにしたがって生きようと努めていたからである。
 しかも、彼らがそう認められたのは、何か独創的な思想を抱いていたからではない。アリアノスの場合、師エピクテートスの講義で学んだストア哲学の教えによく従って生きたからである。アリアノスが『提要』を書いたのも、ストア哲学の要諦をまさに心に刻みつけるためであって、自分の思想を披瀝するためではなかった。

 

 

 


『古代において哲学することを学ぶ』― アド夫妻の麗しき共著

2015-11-22 00:12:00 | 読游摘録

 Pierre Hadot と Ilsetraut Hadot 夫妻には、Apprendre à philosopher dans l’Antiquité. L’enseignement du « Manuel d’Epictète » et son commentaire néoplatonicien という共著がある。2004年に Le Livre de Poche の « référence » というシリーズの一冊として出版された。2002年2月に夫妻が École normale supérieure で一緒に行った四回の講義録である。
 連名の序文に、同書の目的、内容、構成について簡にして要を得た説明がある。
 日本語では、エピクテートスの『提要』として知られているストア哲学の代表的テキストは、しかし、エピクテートス自身によって書かれたものではなく、その弟子の一人、アリアノスが同じく自身が師エピクテートスの言葉を筆録した『語録』(岩波文庫には『人生談義』というタイトルで上下二巻本として収録されている。仏訳は、今年になって、信頼できる新全訳が Vrin から « Textes philosophiques » 叢書の一冊として出版された)から作成した抜粋である。このアリアノスは、しかし、いわゆる哲学者として教育と著述を行った人ではない。二世紀ローマの国家運営に携わる政治家の一人であった。
 この『提要』(ピエール・アドによる懇切丁寧を極めた150頁を超える序論と注付の仏訳がある)とそれから四世紀後に書かれた新プラトン主義哲学者シンプリキオスによる同書の注釈書を比較検討することが、このアド夫妻の講義の主な内容をなしているのだが、両テキストの比較講読が主な内容である本書は、一見するとそれらの注解に終始しているように見える。しかし、実のところは、ある明確な方法論的意識に基づいて、「古代において哲学するとはどういうことか」という根本的な問いに答えようとしている。

Le présent ouvrage pourrait donc être considéré avant tout comme une simple explication de textes. Mais, en fait, en utilisant la méthode exégétique, nous avons eu l’intention de répondre à une interrogation à la fois historique et existentielle : comment apprenait-on à philosopher dans l’Antiquité ? Car le Manuel et son commentaire par Simplicius peuvent nous apporter de précieux renseignements sur la nature exacte et la pratique de la philosophie antique. Tout au long de notre recherche, nous avons eu à répondre à des questions de ce genre : comment se fait-il que l’auteur du Manuel, Arrien, n’enseignait pas la philosophie dans une école, mais était un homme d'État ? À quel public s’adressait-il, lui aussi ? Son commentaire avait-il une finalité purement scolaire ? Quels étaient dans l’Antiquité les rapports entre la philosophie et les pratiques du culte ? En répondant à ces questions, nous avons peut-être contribué à faire mieux comprendre ce que représentait l’apprentissage de la philosophie dans l’Antiquité (I. & P. Hadot, op. cit., p. 10-11).

 このように、お二人の人柄に相応しく謙虚にかつ明快に自分たちの講義の目的を規定しているが、そのことによってかえって、その背後に迫る、さらに根本的かつ端的な問いを私たちは聞き逃すことはできない。いかなる時代と社会に生き、いかなる職業に携わるのであれ、そもそも、「哲学することを学ぶとはどういうことなのか」、アド夫妻は自らそう問い、聴講者たちに問いかけてもてもいるのである。同書を読むことによって、読み手もまた、己にそう問うことを求められているのである。

 

 

 


『セネカ、精神的教導と哲学の実践』(10)― 魂の医療としての哲学

2015-11-21 03:52:02 | 読游摘録

 体のダイエットの処方をするのは、古代においては、医者の仕事であった。昨日見たように、体の健康を保つための諸規則の適用に準えて、魂の健康を保つための諸規則の適用を実践する人たちが現れたということは、おそらくそれと同時に、その人たちを「診察」し、適切な「治療」と必要な「処方箋」を与える人たちが登場したということでもある。つまり、「魂のお医者さん」たちの登場である。この魂の医療の専門家が哲学者になっていく。
 哲学は、ちょうど医学が体を治す知であるように、魂の病を治す知であることをその使命とする。アドの本の中に引用されている、L. Edelstein, « Antike Diaetetik » (1931) という論文の一節の仏訳を掲げよう。

Le service que le philosophe rend à l’âme est donc identique à celui que le médecin rend au corps. Et de même que le bien portant a besoin du médecin pour demeurer bien portant ou doit être à lui-même son propre médecin, tout homme a besoin de la philosophie ou doit être lui-même philosophe pour bien vivre (cité dans I. Hadot, op. cit., p. 49).

哲学者が魂に施す世話は、それゆえ、医者が体に施す世話と同じである。そして、元気な人が元気でい続けるためには、医者を必要とするか、あるいは自分自身が自分の医者でなければならないのと同じように、すべての人は、よく生きるために、哲学を必要とするか、あるいは自ら哲学者でなければならない。