内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「ペラペラ」についての一考察

2013-06-20 21:00:00 | 語学

 明け方、目覚めると雷雨。午前7時、雨中、いつも通っているパンテオンの近くの、アンリ4世校に隣接するプールへ。このプールが自宅から最寄りとなるが、徒歩15分。早足で歩けばちょうどいい準備運動になる。30分で1200メートル。コースが混んでくる前に上がる。帰路は、上がりかける雨の中、走る。午前中には天気が回復し始め、午後は、昨日同様、気温が28度まで上昇。洗濯物がさっと乾いてくれるのが気持ちいい。ところが夕方、一転して雷雲と雷鳴。

 今日明日で発表原稿に目処をつけたい、と思っているが、少し焦り始めている。〈虚〉〈空〉〈無〉を論ずるなんて、いくら依頼があったからとはいえ、向こう見ずもいいところだと今さら足掻いている。テーマが大きすぎ、引用も欲張りすぎ、収拾をつけるのが難しい、と嘆息。でも、それはそれでいいのかとも思う。いい加減でいい、ということではなくて、簡単に収拾がつかないものはつかないものとして示すしかないではないか。下手にお座なりな結論でお茶を濁すより、未完成の原稿のまま、適当なところで投げ出し、後は当日その場で言葉を補いながら、オチをつけようかとも思う。いずれにせよ、できた原稿を読み上げるだけというのは、発表としては好ましくない。ただ読み上げられた言葉は、その場にいる聴き手に向かっていかず、独言のようになりがちだから。完成原稿の場合でも、聴き手の反応を確かめながら、少し表現を変えたり補ったりは、いつものことでもある。これは講義でも同じで、あまり準備しすぎると、かえってうまくいかない。その場で言葉を探しながら、その場にいる学生たちに話しかけるように話すほうが、相手もよく聴いてくれるし、それに感応してこちらも乗ってくると、探さなくても言葉の方からやってくる。もちろん、いつもこちらの思い通りにいくとは限らず、適切な表現が見つからず、言葉に詰まってしまうこともある。しかし、それはそれで、まさにその場で考えている姿を晒していることでもあり、その緊張感が聴き手に何かを伝えることもある。
 要は、言いたいこと、言うべきことがあり、それを人に正確に伝えたい、わかってもらいたい、分かち合いたいという情熱があるかどうかだ、といつも私は考えている。キレイに整っていても、何にも伝わってこない話になど何の意味があるのか。よく「あの人は外国語がペラペラだ」と言って褒める人がいるが、これは褒める当人がその外国語が下手か、まったく解さない場合に多い。つまり、話されている内容がわからないままに褒めているのである。しかし、これは、私見によると、褒め言葉ではない。なぜなら、外国語が「ペラペラな」人は、私の知るかぎりでは、ほぼ例外なく、人間的中身も「ペラペラ」、つまり、薄っぺら、なのである。だから、碌に考えもしないで、有ること無いこと、中身の無いことを、いわゆる「語学の才」にまかせて、「流暢に」しゃべることが恥ずかし気もなくできるのである。考えないから「ペラペラ」喋れるのである。語学にコンプレックスがある人が、賛嘆の眼差しでそういう輩を褒めるのは無理からぬことではあると思うが、もし褒められた側がそれで自惚れるとすれば、その輩は、まさにそのことによって、「私はペラペラ、薄っぺら、中身の無い人間です」と宣伝しているようなものなのだが、本人は一向にそれに気づかない。残念ながら、私はそういう輩に付ける薬を知らない。少しでも考えを正確に伝えたいと願い、相手はわかってくれているのだろうか、自分の表現に曖昧なところはないだろうか、よりよい言い方があるのではないか、このように自問しながら話す人は、「ペラペラ」は話せない。
 ここまで来れば、これは何も外国語に限った問題ではないことに気がつくであろう。むしろ母国語で「ペラペラ」話す方が問題は深刻であると言わなくてはならない。日本人が日本語で中身が無いことを平気で喋りまくって恥じることがないとき、誰が「日本語がペラペラですね」と言って褒めてくれるだろうか。母国語である日本語で中身の無いことしか言えない人間が、外国語だとちゃんとしたことが言えるということは論理的にありえない。語学ができても中身が無い人間であることには何の変わりもないからである。だから、例えば、英語を学んでいる人が「私は英語がペラペラになりたい」という目標を立てるのは、方法論上、決定的に間違っている。なぜなら、それは、「私は英語で話すとき、薄っぺらな人間になりたい、あるいはそう思われるようになりたい」ということを目標にしていることになってしまうからである。自分に本当に言いたいことがあるのかどうか、それを他者に伝えるにはどのように表現したらいいのか、母国語である日本語でまずこれらの問いを真剣に問うことなしに、真の語学の上達などあり得ない。