内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

他者が信仰する神々との関係をどう考えるか

2016-11-30 19:58:33 | 読游摘録

 『多神教を讃えて』の著者マウリツィオ・ベッティニが特に憂慮の念とともに考察しているのは、現代社会に蔓延する宗教に関わる争いである。それらに対して、古代宗教は実践的に対処する手立てを与えてくれると著者は本気で考えている。そのために、古代宗教において他者の神々との関係がどう取りもたれていたかを特に重視する。なぜなら、古代宗教は、一神教に固有な心的枠組みとはまったく異なった心的枠組みによって動かされているからである。
 ここで言われる「心的枠組み」とは、著者によれば、ある一定の文化の中で稼働している思考の構成形態のことである。この枠組がある行動を準備・組織・実行する際に機能し、ある心的傾向を命令し、他のある心的傾向を禁じているとする。
 古代の多神教において機能している心的枠組みと一神教のそれとについて、他者の神々との関係という問題が提起される様々な場面での両者の対応の違いを比較検討することで、私たちが生きている現代社会が直面している宗教問題をそれが陥っている袋小路から抜け出させる手立てを提供しよういうのが本書の目指すところである。











追放された神々を求めて

2016-11-29 15:15:52 | 読游摘録

 昨日の記事の中の著者紹介に誤りがあったので、まずそれをお詫びして訂正させていただきます。Éloge du polythéisme[『多神教を讃えて』]の著者 Maurizo Bettini は、古代哲学の専門家ではなく、古代文献学が専門。イタリアのシエナ大学「人類学と古代世界」研究センター創設者。
 さて、昨日の記事の最後に予告した対照的な二つの事例の紹介を期待されていた方たちがいたとしたら、その方たちには申し訳ないのですが、今日はそれについて書いている時間がないので、その二つの事例紹介は明後日に延期させていただきます。その代わり、今日明日の記事では、本書の序章の一部を紹介します。
 ギリシア・ローマの古代世界について、哲学・文学・演劇・建築・美術などの文化に関わる分野では、専門研究の枠を超えて情熱的な関心が今日でも持たれており、現代におけるそれらの諸分野での活動に霊感を与え続けているのに、宗教のことになると、それは「原始的な」多神教であり、今日の世界では(一神教によって)完全に「乗り越えられてしまった」過去の遺物とされ、一部の専門家の研究対象でしかないことを本書の著者はかねてより残念に思っていました(ただし、現代においても、詩人、哲学者、作家の中には、古代多神教に対して、かなり暗喩的な仕方ではあれ、つまり、古代の実際の宗教的実践とは切り離された仕方ではあれ、真剣な興味を抱いている人たちがいることは、著者もこれを認めています)。
 そのような古代宗教に対する一般的な無関心あるいは蔑視は、どこから来るのでしょうか。それは、上掲の文化的諸分野と宗教とはまったく「別物」だという、少なくとも古代世界についてはまったく誤った認識から生まれたものです。古代世界では、文化と宗教とは不可分でした。プラトンを読めばわかるように、哲学も宗教とは不可分でした。
 ヨーロッパにおいて、古代宗教に対する無関心あるいは蔑視を決定的にしたのは、言うまでもなく、キリスト教の歴史的「勝利」です。キリスト教が古代宗教を排除しそれに取って代わったという歴史的事実が、古代宗教に対して「異教」「偶像崇拝」「多神教」という決定的な烙印を押すことになりました。
 それにもかかわらず、なぜ、今日、古代の多神教を「讃える」のでしょうか。多神教である古代(特に古代ローマ)の宗教と現代社会において支配的な排他的一神教的信仰(あるいは狂信)とを比較するという方法は、今日の社会に生きる私たちに何を教えてくれるのでしょうか。
 古代の多神教世界での宗教的実践について学ぶことは、一神教的信仰によっては解き難い、あるいは一神教的信仰自体が発生させている現代社会の諸問題のうちの一つである宗教的闘争を、そして、それに伴って発生する、他者たちによって信仰されている神々に対する敵意・否認・無関心を、いくらかでも減少させてくれるだろうと著者は期待し、それゆえに本書を書いたのです。











多神教を讃えて ― 古代宗教が私たちに教えてくれること

2016-11-28 21:33:27 | 読游摘録

 今年の九月に Les Belles Lettres から Maurizio Bettini の Éloge du polythéisme. Ce que peuvent nous apprendre les religions antiques という袖珍本が刊行されました(「袖珍本」って、「袖の中に入れて携えられるくらいの小型の本」っていう意味だから、和服を日常では着ない今日ではもうほとんど死語かもしれないけど、好きなんですね、私、この言葉。別に和服を着るわけじゃないけれど。もちろん文庫本サイズとかポケット版とか言った方が通りがいいんでしょうけれど、なんかそれじゃ言葉として味わいに欠ける気がして)。
 著者はイタリア人、古代哲学の研究者、シエナ大学教授。作家でもある。カリフォルニア大学バークレー校で定期的にセミナーをもっているし、フランスにも、École Pratique des Hautes Études やコレージュ・ド・フランスに教えに来ています。
 上掲本は、2014年にイタリア語で出版された原本 Elogio del politeismo. Quello che possiamo imparare oggi dalle religioni antiche (© Il Mulino, Bologne, 2014) の仏訳。すごく面白い、この本。タイトルはちょと挑発的だけれど、中身はいたってまっとう。著者は、現代社会に蔓延しつつある不寛容に対して、その原因の一つが一神教の排他的精神にあると考え、古代多神教の世界観から治療法の一つを提案しようとしています。
 参照されている現代社会の実例は、イタリアのそれが多く、それがまたフランスと違っていて面白い。議論の出発点として挙げられている対照的な二つの事象はとても示唆的。それを紹介している第一章のタイトルは « Le sacrifice de la crèche et les bombes à la mosquée »。一見すると、寛容の精神がよく発揮された決断と不寛容な態度のラディカルな表明とが、実はどちらもほとんど無意識のうちに一神教の排他性を前提としていることが鮮やかに示されています。そこのところを明日の記事で紹介しますね。












《Philosophia》あるいは哲学の実践

2016-11-27 18:32:13 | 読游摘録

 今年に入って、Monique Dixsault の名著 Le Naturel philosophe. Essai sur les Dialogues de Platon の改訂増補新版が Vrin から刊行された。初版は1985年である。2001年には第三版が刊行されているから、今回の新版は第四版ということになるのだろう。おそらくこれが最終決定版になるだろう。650頁近い大著である。
 本書は、« philosophia » という言葉そのものにプラトンの諸対話篇の各処でいかなる意味が与えられているかを詳細に辿り直すことで、哲学が対話篇の中で様々な仕方で実践されていることをテキストに即して明らかにしていく。
 プラトンにおいて、哲学は、出来上がった学説の披瀝でも、思想体系の構築でもない。そもそも、プラトンの時代、哲学は、まだその可能性よっても、その現実によっても、その定義によっても、さらにはその名によってさえも、まだ確立されたものではなかった。ただ、哲学が創り出されねばならないという要請のみがその時代にあった。プラトンは、« philosophia » という言葉のあらゆる含意を引き出しながら、この言葉の「哲学的な」意味を創り出していく。
 本書は、« philosophia » に初期・中期・後期それぞれの対話篇で与えられていた異なった意味を確定する一方、プラトンの哲学の「学説」から哲学の仕方そのものへと、つまり、問題が提起され、再度提起され、再考される仕方へと読者の注意を転じさせる。
 本書の著者は、そうすることで、きわめて巧妙に意表を突き、意図的に断片化され、この上なく多様な仕方で媒介項を導入するプラトンのテキスト群を、細心の注意を払いつつ、かつ自由に読むことで哲学することへと読者を招いている。












加藤周一『日本文化における時間と空間』の批判的読解作業

2016-11-26 18:47:50 | 講義の余白から

 修士の一二年共通の演習のテキストとして、今年は加藤周一『日本文化における時間と空間』を選び、九月からずっと学生たちと読んでいる。
 昨年は、丸山真男『日本の思想』を選んだのだが、こちらの予想に反して、学生たちは構文のむずかしさゆえにえらく読解に苦しんだ。そこで、今年は、一昨年高橋哲哉『靖国問題』を選んだときのように、仏訳がある本にしようと思った。加藤のこの本の仏訳には、本文中に言及されている人物・作品・歴史的事項などについて訳者による補注が多数付加されており、それがさらに読解を助けてくれる。完全に意味を取り違えている誤訳も散見されるけれど、全体としてはとても良い訳だ。それでこの本を選んだ。もちろん原本の内容が学生たちにとって刺激的であろうというのが選択の第一の理由であるが。
 仏訳があるのだから、日本語のテキストの読解が教室での主たる目的ではない。教室では、学生全員にそれぞれ担当頁の要約を日本語で毎週させている。しかもパワーポイントを使うことも義務づけている。それは、この演習が来年二月の法政大学の学生たちとの合同ゼミの準備を目的としているからである。そのゼミでの日本語での口頭発表の訓練を毎週しているわけである。
 一年生は第一部「時間」を、二年生は第二部「空間」を担当している。来週で一応全部読み終える。この読解作業で面白かったことは、加藤のあまりにも明快な割り切り方に学生たちが納得し難い思いをしていることである(私から見ても、これは無茶苦茶だ、明らかに議論が破綻しているところが少なからずある)。なかには、ちゃんと反例を挙げて、加藤の主張を批判する学生もいる。これはまさにこちらの狙い通りで、学生たちには遠慮せずに批判を展開するように煽っている。












「戦闘」開始前夜

2016-11-25 17:55:20 | 雑感

 今日金曜日は、先週の金曜日に引き続いて、午前中の通常の二時間の講義に加えて、午後に同じく二時間の補講を行った。これで十二月の二回の休講を補ったことになる。一日に四時間も日本古代史についてテキストを読まされるのは学生たちにとっても楽ではないだろう。先週などは、補講の教室に入った瞬間に、少なからぬ学生たちがすでにぐったりしているのがわかった。他の授業の後、私の補講との間に少し間が開いてしまったのも、否定的に作用したようだ。それに比べて今日は、補講の時間が一時間繰り上がっていたこともプラスに作用したのか、最後までわりと集中力を切らさずに聴いてくれた。
 普段は、二時間、休憩なしに講義を続けるのだが、今日は午前も午後も五分間の休憩を真ん中あたりに入れたのもよかったのだろう。それに、その休憩時間に日本の音楽を聴かせたりして「機嫌を取った」のも功を奏したのだろう。来週が今年最後の授業になるが、そのときにも間に五分間の休憩を入れようかと思う。
 十二月に入ると、様々な予定で本当に忙しくなる。普段から水泳で体を鍛えてあるから、体力的にはなんとか乗り切れる自信があるが、発表原稿の仕上げや翻訳の仕事にはかなりの集中力を要求される。明日からは、そんなわけで、「戦闘態勢」に入る。今時「二十四時間戦う」人はいないだろうけれど、気持ちとしてはそれくらいテンションを上げないといけない。今日は、水泳も休み、一晩ゆっくり体を休め、明日から「総攻撃開始」である。












内的自己対話、そして思考の言語

2016-11-24 09:57:38 | 哲学

 このブログのタイトルは「内的自己対話」となっていますが、これには二重の意味が込められています。
 一つは、内的自己との対話という意味です。社会生活の中での帰属集団や人間関係によって規定されている自己を外的自己とするならば、その外的自己とは異なり、したがってそれには還元されず、それに対してときに違和感を覚え、それから疎外されていると感じることさえもあり、それ独自の存在を私の名において主張する自己が内的自己です。このブログは、この意味で、外的自己と内的自己との対話であり、その対話を通じて、両者の間のずれはずれとして、それぞれの自律と融和を図ろうとしています。
 もう一つの意味は、自己と自己との内的な対話という意味です。問う自分と問われる自分とに自分が分かれて問いと応答を繰り返すことで対話を続けることを意味しています。フランス語に訳せば、mono-dialogue intérieur となりましょう。この意味での内的自己対話は、現実の他者との対話とは異なって、お互い相手の手の内は知り尽くしているわけですから、想定外の発言というのはほとんどありえず、結果として堂々巡りに陥りやすいという弊害があります。この弊害を避けるためには、自己内対話であっても、実際の他者からの意見を考慮する、書物などで得られた観点を導入して自己の観点を相対化するなどの意識的操作が必要になります。
 しかし、上記二つの意味での内的自己対話とは別に、さらにもう一つの次元を導入する可能性について考え始めています。それは、通常私たちがその中で思考している自然言語(私自身の場合は、日本語あるいはフランス語)とは独立に機能し、それ固有の文法を有した概念的言語という次元です。
 これは、「思考の言語」という問題として、古代ギリシアのプラトン、アリストテレスから、中世スコラ哲学を経て、現代の言語哲学や分析哲学に至るまで、様々な形で議論されてきており、真理の存在と人間の認識の限界に関する根本問題の一つなのですが、この問題を徹底的考え抜いた哲学者の一人が十四世紀の神学者・哲学者オッカムのウィリアム(1285-1347)でした。
 このオッカムが言うところの「心的言表」« oratio mentalis » について、その古代哲学にまで遡る前史からオッカムに至るまでの系譜を辿り直し、オッカムの議論がなお有している哲学的アクチュアリティを明らかにしてみせたのが、 Claude Panaccio の Le discours intérieur. De Platon à Guillaume d’Ockham, Éditions du Seuil, 1999 です。刊行されてすぐに買ったのですが、一旦日本に持ち帰ってそれきっりになっていて、先日再購入しました。ぼちぼち読み直していますが、十数年前に読んだときより、今の自分にとって問題が切実なものになっていることに読みながら気づかされています。












「存在するであります」

2016-11-23 19:52:27 | 講義の余白から

 学生たちからの質問メールはほとんどがフランス語ですけれど、マスターのよくできる学生は日本語で質問を書いてきます。少なくともこちらが質問内容を理解できる程度にはしっかり書けていますし、ときにはなかなか見事に日本語を使って見せてくれます。そういう学生には、もちろん日本語で答えを返します。できるだけ平易な表現を使い(つまり、哲学ブログでのくそ難しい表現はすべて避けます、はい)、簡潔に答えます。
 ちょっと込み入った返答が必要なときは、授業の後などに口頭で、日本語あるいはフランス語で補足します。彼らの表現の中に、彼らの日本語能力について何の予備知識もない日本人が読んだり聞いたりしたら、ちょっと気分を害するかもしれないような誤った表現があるときは、詳しく理由を説明して、注意を促します。
 学部学生は、まあフランス語でのコミュケーションが普通なのですが、ときどき、必ずしも日本語がよくできるわけではないけれど、とにかく日本人である私には日本語でコミュケーションを取ろうとする健気な学生がいます。
 学部二年生の女子学生の中にそんな子が一人いて、この間の中間試験の成績も20点満点で8.3とぱっとしなかったのですが、中間試験前まで毎週行った5回の漢字の小テストの平均点は、16点(20点満点)と結構頑張っていました。そんな彼女が、先週金曜日、今学期初めて私の授業を欠席したのですが、その日のうちに診断書が添付された日本語のメールが届き、「今日受けられなかったテストはどうしたらいいですか」と聞いてきました。
 翌週の金曜日の午前中の授業の直後に、日本学科の教員室(どう贔屓目に見ても、日本の大学で言うところの研究室という名称は値せず、四人で満席になる小さな職員室を想像してください)で受けられますと、「学科の教員室」とは日本語で書かずに、« bureau du département » とそこだけフランス語にして、日本語で返事を送りました。
 そしたら今朝来た返事が、「私は午前11時から département の bureauで存在するであります。ありがとうございます」、であった。思わず大声を出して笑ってしまった。なんとカワイイ返事じゃありませんか。 « être » を辞書で引いたら、「存在する」ってあったんだね。それをそのまま使って、しかも丁寧な表現にしなきゃいけないと思って、「あります」って付けたんだね。ありがとネ。












水中自己観察

2016-11-22 12:33:53 | 雑感

 歩いているときと違って、泳いでいるときは、何かについて集中して考えることはむずかしい。むしろ、余計な考えを追い払って、泳ぐことそのことに集中することで、心身のリフレッシュ効果が得られる。
 毎日泳ぎながら、手足の動かし方や位置、肩や上体が水面からどれだけ出ているか、腰のひねり方、キックのタイミングや頻度などに注意を払い、ターンの度に泳ぎ方を微調整し、それによってスピードがどれくらい変化するか、水中での体感がどのように変化するか、自己観察している。よく水に乗れているときは、それらの微調整もうまくいっているときなのだが、逆に、どう微調整しても体が重く、水に乗れないときもある。
 その日の調子は、プールによっても違うし、水深・水温・水質によっても違ってくる。屋外プールの場合、当然のことながら、外気温・天候にも左右される。日常的に利用している二つのプールは、どちらも設備としては悪くないのだが、パリに住んでいた頃に通っていたいくつかのプールに比べると、なぜかちょっと泳ぎにくく感じる。原因はよくわからない。












晩秋の空の下、午前の日の光が室内に眩しく溢れる

2016-11-21 12:40:05 | 雑感

 今年の十月末から十一月前半にかけてストラスブール市内の各所で撮った紅葉の写真と去年の同時期に撮った写真とを比べてみるとよくわかるのだが、市内の今年の紅葉は、色がくすんでいて、見る者に何か冴えない印象を与える。
 今年の四月から九月にかけての天候不順、特に六月は記録的な降水量で、日照時間もそれだけ少なかったこと、ところが九月半ばに真夏のような暑さが一週間ほど続いたことなどが関係しているのだろうか。もともと、日本で見られるような色鮮やかな紅葉はこちらでは期待できないのだが、それにしても写真に撮りたいという気持ちにさせるような色合いを今年はほとんど見ることができなかった。
 今は十一月も下旬、市内のどこを歩いていても、それまで紅葉していた樹々の葉も大半は枯れて地面に落ちてしまっているのを目にするばかり。日没ももう五時前。やはり少し感傷的な気分に陥りそうになる。
 しかし、この季節、自宅の書斎前の樹々の葉が落ち尽くすと、昨日のような小春日和には、東南東向きの大きな窓から、室内に午前の日の光が眩しく溢れるように流れ込む。それが気持ちを少し明るくしてくれる。
 朝、プールから帰って来てから、窓を大きく開け放ち、書斎の板張りの床を隅々まで拭き清める。そして、ストリーミング配信の中からお気に入りのクラッシク音楽を選ぶ。それを小さな音量で流しながら、仕事に取り掛かる。