内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五)

2014-05-31 00:00:00 | 哲学

1. 2 出来事としての生命(2)

 形とは、情報によって形成された秩序であるとすれば、この情報は、混沌からある一定の秩序を形成するための選択の規則として差異化作用を実行する一連の命令であると定義できるだろう。形を維持するためには、秩序を混沌へと引き戻す自然の傾きに抵抗しなくてはならない。自己形成的な生命においては、葛藤と競合は片時も止む時がない。だからこそ、生命は恒常的に対立と矛盾をうちに含んでいる。対立と矛盾が新たな差異化をもたらすからこそ、形は維持され得る。つまり、絶えず自己差異化作用を実行し続けるかぎりにおいて、形は自己同一性を維持する。これがまさに自己否定を通じての自己保存である。
 「生命の矛盾といふのは、自己を否定することなくして、自己を否定するものを否定することができないと云ふことである」(全集第八巻七五頁)と西田が書くとき、「自己を否定するもの」とは、物あるいは物質、つまり、生命の内に含まれた矛盾的要素である死の契機を指している。 「生命は外に環境を有つと共に内に環境を有つのである(ホルデーンの云ふ如く)。故に生命は否定を含む、生命は死を含むとも考へられる」(同巻一八九頁)。
 「生命は到る所に自己矛盾である」(同巻七七頁)と言うとき、西田は、私たちの生命において絶えず生じ続けている事実、つまり、生と死、健康と病気などの相対立する契機を内に含みながら、生命体が形として己自身を維持しているという事実を指し示そうとしている。「生命は生産が消費であり消費が生産であり、消費と生産との矛盾的自己同一にあるのである」(同巻二〇五頁)。西田の生命論において、矛盾的自己同一とは、生命が己の内に相矛盾する契機を内包しながら自己同一性を確保するために維持する動的平衡のことである。しかも、この動的平衡は、現在する自己に常に内在する矛盾を解決するために、或る形から別の或る形へと、或る差異から別の差異へと、自己を否定し続けることによってはじめて保持される。
 或る形から別のある形への移行は、実体の属性の変化ではなく、物質の質的変化でもない。生命の世界には、自己同一性の基礎になるような同一の基体や物質はない。形は、自己同一的な基体という基礎なしに、矛盾的自己同一性の現実的形態として変容し続ける。生物学的知見から打ち出したこのテーゼを、西田は、物理現象一般にまで拡張して適用しようとする。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四)

2014-05-30 00:00:00 | 哲学

1. 2 出来事としての生命(1)

 最後期西田の生命論について特筆すべきことは、機械論と生気論と間の対立を乗り越えて、「第三の道」を見出したことである。機械論は、生命活動を、すべての物理化学的現象と同様に、物質的メカニズムへと還元する。生気論は、生命過程を物理化学的諸現象から截然と区別し、物理化学的環境から独立した自律的要素にのみ生命としての価値を与える。ところが、機械論と生気論とは、生命現象は何らかの自己同一的な実体に基づいているという前提を共有しており、その結果として、生命現象固有の流動性と創造性をそれとして現実的に把握することができないという共通の弱点を有っている。生命は物質的基礎なしにあり得ないとしても、そのことは物質的基礎が必要条件であるということを意味しているだけで、その他の物理化学的諸現象のように、生命が何らかの物質の運動に完全に還元されてしまうということを意味しているわけではない。ホールデーンの有機体論は、機械論も生気論も乗り越えることができなかった上記の理論的困難を克服するための第三の道を見出すための出発点を西田に与えたのである(全集第十巻二三三頁参照)。西田は、ホールデーンの有機体論に依拠しながら、有機体の内的環境と外的環境との間に維持される「個性的全体」という動的平衡関係こそが生命だと考える。
 生命をそれとして成り立たせているものは、生命現象を構成する物質的要素そのものではなく、それら要素を一つの全体として形作る形成原理である。その限りにおいて、西田の言う「形」とは、物質に一定の秩序を与える作用そのものであり、秩序の形成をもたらす「情報」(information)にほかならない。この « information » というフランス語が、 動詞 « informer »から派生した名詞であり、この動詞の原義が「形を与える」であることをここで思い出すことは、西田の〈形〉の生命論のより深い理解のために無駄ではない。生命体は、自律的なシステムとして一連の情報を自ら産出する個体として環境においてそれとして分節化される。これらの情報によって形成される動的平衡というダイナミックな秩序が生命にほかならない。このような生命観が開くパースペクティヴにおいて、西田は、一個の生命体が絶えず情報を産出しながら一つの形を維持する活動を、「形が形自身を限定する」と規定しているのである。

私は絶対現在の自己限定として、形が形自身を限定する世界は、無限なる生滅の世界であると云つた、物質的世界も之に他ならないと云つた。生命に於て世界はその矛盾的自己同一形を現し来るのである。世界は生命に於て自覚すると云つてよい(全集第十巻四四頁)。

 〈形〉は、「無限なる生滅の世界」つまり恒常的変化のうちにある世界において、時間・空間的に限界づけられた現実存在形態である。情報によって形成された生命の秩序は、熱力学のエントロピーの法則によって、常に必然的に解体へと向かっている。生命は、この自然の解体原理に抗して一つの形を維持することそのことである。生命は、それゆえ、時間・空間的に限界づけられた同定可能な一つの形として存在し、自己解体と自己形成という相対立する作用の協働から発生する。一般的に、生命は、継起的に生起する形の生成と生滅を恒常的に繰り返すことを通じて、ある形を維持することからなっている。個々の形同士は非連続である。しかし、まさに自己形成と自己解体とを無限に繰り返す種々の形の非連続性を通じて、生命は己の自己同一性を維持している。この生命の根本的現実こそ、西田が「矛盾的自己同一」と呼ぶところのものにほかならない。この生命の「矛盾的自己同一」とは、異なった複数の種への差異化、さらには個別的な無数の個体への差異化によってのみ維持されうる、常に解体の危機に晒されている動的自己同一性のことである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三)

2014-05-29 00:00:00 | 哲学

1. 1 全体論的有機体論からの影響(2)

 西田は、ホールデーンのもう一つのテーゼである 「生命とは、空間的な境界を有たない特異な全体として己を表現している自然である」(« Life is nature expressing herself as a characteristic whole which has no spatial bounds. » この英語原文は、全集第八巻四六二頁と第十巻二三三頁に引用されている)を、やはり好んで援用する。西田によれば、「空間が自己超越的に自己表現的要素を含むと云ふことから生命が成立する」(全集第十巻二四七頁)。「生命は自然の自己表現である」というホールデーンのテーゼは、「歴史的生命の世界は表現的世界である」というテーゼとなって西田の生命論の中に組み込まれる。
 生命に空間的限界がないということは、次のことを意味している。生ける身体は、代謝活動を通じて内的環境と外的環境との間のエネルギー交換を実行しているから、生命活動は、生ける個体の物理的延長という限界のうちに限定され得ない。生命は、種に固有な形態・構造・機能とその環境との間の動的平衡を維持することそのことにほかならない。この動的平衡が生命そのものであり、それはそれぞれの種に固有の形で表現される。この形は、それぞれの種が己に固有な仕方で物理的基礎を己に与えることによって現実に具体化されている。この意味で、生物の形態とその機能とは不可分である。
 西田は、生物学における「形態」という概念を一つの出発点として、自身の最後期の哲学の鍵概念の一つである「形」という概念を精錬していく。「生物の身体的構造は機能的でなければならない。そして機能といふものなくして、形といふものは考へられないが、又形といふものなくして、機能といふものも考へられない」(全集第八巻四一頁)。生物の形態とその機能とのこの不可分性について、一言先取りして言っておけば、西田の考えは、生理学者のクロード・ベルナールのそれとも近い。クロード・ベルナールによれば、機能の研究は構造の研究と不可分であり、構造の研究はその生成の研究と不可分である。両者の考え方の関係については、本節の第三項「歴史的生命の論理」において立ち入って検討する。
 しかし、西田は、形態・構造・機能の生物学的不可分性をただそれとして自身の生命論の中に組み込むだけではなく、それを出発点として、〈形〉という概念を自身の哲学に固有な概念として発展させていく。西田によれば、〈形〉は、自らのうちに自己形成作用の原理を有っており、それが構造と環境との関係そのものをも限定する。つまり、西田における〈形〉は、最初はその生命論の理論的基礎として据えられた生物学的概念から、歴史的生命の論理を構築するための存在論的概念へと変貌を遂げていくのである。この〈形〉概念の存在論的変貌が、西田の生命論にそれ固有の構想の展開を可能にする。
 論文「論理と生命」ではまだ十全には展開されていなかった西田の〈形〉の生命論は、死の前年から死の年にかけて執筆・発表された論文「生命」において、その最も仕上げられた表現に到達する。

有機体と環境との相互整合的に、形が形自身を維持する所に、我々の生命があるのである。それは私の所謂主体と環境との矛盾的自己同一的に、時間と空間との矛盾的自己同一的に、全体的一と個物的多との矛盾的自己同一的に、形が形自身を限定すると云ふことに他ならない。それは所謂物理的空間的に機械論的たることはできない(全集第十巻二三三頁)。

 このような西田固有の表現に変換されながら、ホールデーンの有機体論は、西田の生命論の中にまさに有機的に組み込まれていく。「形が形自身を維持する」と西田が言うとき、有機体はその環境との相互作用の中で己が属する種に固有な規範的構造を積極的に維持しており、形態と機能とは互いに不可分であるというホールデーンの生命観が念頭に置かれている。この生命観が強調するのは、安定性と可動性、統一化と多様化、自律と依存などの対立する性格の相互的な不可分性である。この相互的な不可分性を、西田は、「矛盾的自己同一」と名づける。これら相対立する性格の協働が動的平衡を生み出し、この動的平衡がある種に固有な形を発生させる。この形の生成を、西田は、「形が形自身を限定する」と表現する。
 形とは、一度限り固定された自己同一的な実体ではなく、時間的に有限な平衡状態であり、この平衡状態は、対立する諸性格の協働から生れる。生命は、どこまでも可変的で不安定にもなりうるこの平衡状態を積極的に維持する努力である。それが動的平衡であるのは、その平衡状態が常に解体の危機に曝されているということでもある。西田は、歴史的生命の創造性を、この動的平衡状態を維持するために、自己が己の与えられた環境に対して行為的に働きかけ、自己が己自身と己がそこに生きる世界とを具体的・実践的にポイエーシス(制作)によって改変していくという事実の中に見ている。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(二)

2014-05-28 00:00:00 | 哲学

1-西田哲学の生命論

1. 1全体論的有機体論からの影響(1)

 西田の生命論がその固有の展開を見せるのは、一九三〇年代半ば以降である。その展開にとって最も重要な契機となったのが、J・S・ホールデーンの『生物学の哲学的基礎』(J. S. Haldane, The philosophical basis of biologie, 1931)である。論文「論理と生命」(一九三六)から論文「生命」(一九四四-一九四五)にかけて、西田最晩年の十年間に発展・深化させられた生命論は、明らかに、ホールデーンの全体論的有機体論にその発想の基礎が置かれている。とりわけ、西田自身によって度々英語原文のまま引用されている『生物学の哲学的基礎』の次の一節は、西田の発想の源泉の一つである。

We perceive the relations of the parts and environment of an organism as being of such a nature that a normal and specific structure and environment is actively maintained. This active maintenance is what we call life, and the perception of it is the perception of life. The existence of life as such is thus the axiom on which scientific biology depends.
(全集第八巻四六一-四六二頁に引用されている原文のまま)

われわれが生物の各部分の関係およびそれと環境との関係として知覚するのは、生物の正常で固有な構造および環境の積極的な維持をもたらすような性質である。この積極的な維持こそわれわれが生命と呼ぶものであり、これを知覚することが即ち生命を知覚することなのである。それでこのようなものとして生命が実在するということが科学的生物学の準拠すべき公理であるのである。
(全集第八巻中の論文「経験科学」の注二四、五三六頁の邦訳)

 この一節には、呼吸システムの生理学的研究を専門分野とするホールデーンの生命現象の把握の仕方の特徴がよく表現されている。ホールデーンの考えに従えば、有機体とその環境との間での酸素と二酸化炭素との交換からなる呼吸は、酸素摂取がすべての生命活動の源であるという意味において、すべての生命現象の基礎を成す。このように呼吸のメカニズムから生命を考えるとき、有機体の内的環境と外的環境とは、互いにその構成要素を交換する関係にあり、有機体とその環境との間の境界は、それだけ相対的なものになり、両者は不可分であり、むしろ相俟って一つの全体を形成しているといったほうがよい。この関係は、有機体個体ごとに異なるのではなく、それら個体が属する生物種に共通する。つまり、生命活動は、有機体がその環境との間に、己が属する生物種に固有な相互関係を維持することからなっている。
 西田は、ホールデーンの生理学的生命論の中に、自身の哲学の根幹である「場所の論理」と共鳴する物の見方を見出している。ホールデーンの生命論によって開かれたパースペクティヴにおいては、生命は、環境から独立してそれ自体で自律する実体ではないことは、先の引用からも明らかである。生命は、それとはまったく逆に、一個の有機体とその環境とが相互作用を及ぼし合う〈場所〉において、捉えられなくてはならない。より西田哲学の方に引き寄せた言い方をすれば、生命は、〈場所〉そのものの自己分節化として生まれた、有機体の種的規準的構造とその環境との間の関係が能動的に維持されているところで、それとして捉えられなくてはならない。種的に固有な形態・構造・機能とその環境との動的相互関係を、西田は、「世界が世界自身を限定する形成作用」(全集第八巻一九頁)と呼ぶ。論文「論理と生命」の中で、西田は、ホールデーンの『生物学の哲学的基礎』に明示的に言及しながら、その生理学的生命論を、生物種の形態・構造・機能およびその環境を相互的な表現作用の動的体系として捉える西田自身の生命の哲学に、実証的な基礎づけを与えるものとして組み入れようとしている。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(一)

2014-05-27 00:00:00 | 哲学

 昨日までで、第四章の連載をようやくひとまず終えることができた。同章の連載に四十二回もかかってしまった理由は、一つには、基になっている仏語の博士論文から訳しながらの投稿であったからだが、もう一つには、やはり十年も前に書いた原稿だけに、そのままでは使えないと判断せざるを得ない部分も少なからずあり、そのような個所を書き直しながら、あるいは、それだけでは済まず、新たに書き加えながらの掲載だったからである。
 今日から取り掛かる第五章には、さらに厄介な問題がある。博論を提出した直後から、この第五章の出来には自分でも不満があり、その不満が日本語での出版にすぐには踏み切れなかった大きな理由の一つでもあった。だから、今回の連載も、元の仏語原稿に相当な改変と補充を加えながらということにならざるをえない。一回ごとの記事の長さも、したがって、短めになるだろう。一応六月末までにはなんとか終えたいと思っている。しかし、七月にはストラスブールへの引っ越しを控えており、その準備もあれこれとあるから、もっと時間がかかるかもしれない。それはとにかく、これら一連の記事を、日々の哲学演習として、毎日休まずに投稿することだけは、何としても順守していく。

 まず、基になる仏語博士論文第五章の目次をそのまま掲げる。

Chapitre V La vie auto-formante et la vie s’auto-éprouvant
— entrecroisement et opposition entre Nishida et Michel Henry dans la Vie autogène —

1– L’évolution de la pensée de la vie chez Nishida
1. 1 Transition de la phase de l’expérience pure à celle de la logique du basho
1. 2 L’inspiration de la vision organiciste holistique
1. 3 La vie en tant qu’événement
1. 4 La logique de la vie historique

2 – Le problème critique de l’espèce dans la dernière philosophie de Nishida
2. 1 L’intégration de la notion d’espèce dans la logique de la vie historique : un échec ?
2. 2 L’habitude et le monde de la vie historique

3 – De la vie s’auto-éprouvant à la vie auto-formante
3. 1 La phénoménologie de la vie, recherche de la phénoménalité pure
3. 2 L’apparaître du monde, mis au-dehors de la vie
3. 3 La vie auto-révélatrice, fermée à l’autre
3. 4 Le souffrir primitif, étranger aux souffrances
3. 5 Le corps, déchiré en deux
3. 6 L’étendue échappée entre l’éveil à soi et l’intuition-action

 見て通り、第五章は三つの節からなる。第一節では、西田の生命論を、『善の研究』出版前後の初期から生前に出版された最後の論文「生命」に示されたその最終的な立場まで、時系列に沿って概観している。この概観は、野家啓一論文「歴史的生命の論理 — 西田幾多郎の生命論」(『講座[生命]96生命の思索』、哲学書房、一九九六年、 九-三六頁)に主に依拠しており、多数の西田のテキストの引用を含んでいる。このような紹介的概観とそこに含まれる多数の西田の著作からの引用すべての仏訳作業は、西田哲学の全体がまだよく知られていなかった当時のフランスの現状からして、不可欠な手続きであった。しかし、日本語で書かれ、日本の読者を前提としている本稿にとっては、この節にそれをそのまま日本語に訳して掲載するだけの価値はないと私たちは考える。そこで、引用を大幅に削減し、本文も、第二節以降に展開される議論の理解に必要な部分に限って再録することとした。
 第二節では、最後期西田哲学の生命論が孕んでいる最も重大な欠陥を指摘し、その欠陥の克服の可能性を西田最晩年の論文「生命」の中に探る。
第三節は、西田とミッシェル・アンリにおける〈生命〉論の比較検討を通じて、両者の哲学が交叉する問題領域と決定的に背反する論点とを明らかにし、その上で、両者いずれによっても問題化されることがなく、いわば冥闇のうちに残されたままの領域に私たち自身の観点から光を当てる。
 第一節に上記のような意図に従って改変を加えた本稿第五章の目次は、以下のようになる。

第五章
自己形成的生命と自己触発的生命
― 自己生成的〈生命〉論における西田とミッシェル・アンリの交差と対立 ―

1-西田哲学の生命論
1. 1 全体論的有機体論からの影響
1. 2 出来事としての生命
1. 3 歴史的生命の論理

2-最後期西田哲学における〈種〉の問題
2. 1 歴史的生命の論理の中へ〈種〉概念を導入することに伴う困難
2. 2 習慣と歴史的生命の世界

3-自己触発的生命から自己形成的生命へ
3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究
3. 2 世界の現われ ― 生命の外化
3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落
3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの
3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体
3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり

 明日以降、この構成に従って、毎日少しずつ、十年前にフランス語で自分が書いた文章を読み直し、まずは自分がそこに表現しようとした考えを思い起こし、そしてそれに再検討を加え、それらの作業を通じて、日本語で、今、もう一度同じ問題を考え直していきたい。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(四十二)

2014-05-26 00:00:00 | 哲学

2. 5 〈肉〉のロゴスと語る身体(4)

 昨日の記事の終わりに引用した一節を再度掲げる。

見えるものを、人間を通じて実現される何ものかとして記述しなくてはならない。しかし、その何ものかは少しも人間学的なものではない[…]。〈自然〉は、人間の裏側として記述しなくてはならない(〈肉〉として ― 「物質」としてではまったくなく)。ロゴスもまた、人間の中で実現するものとして、しかし、その「所有物」としてではまったくなく。
« Il faut décrire le visible comme quelque chose qui se réalise à travers l’homme, mais qui n’est nullement anthropologie […] la Nature comme l’autre côté de l’homme (comme chair — nullement comme « matière », le Logos aussi comme se réalisant dans l’homme, mais nullement comme sa propriété » (VI, p. 328).

 このロゴスは、私たちの言葉を通じて、私たちにおいて、己自身に対して現れる。しかし、このロゴスは、私たちの言語の構造にも、私たちの言語行為を成り立たせている意味のシステムにも、私たちの知的能力にも一致しない。メルロ=ポンティがここで言うロゴスとは、〈肉〉のロゴスであり、このロゴスは、私たちの中で目覚め、私たちの語る身体を通じてそれを表現するよう私たちを促し続ける。〈肉〉は、私たちの身体的自己において己を表現する。それは自己限定的・自己表現的生命にほかならない。
 ここまで、メルロ=ポンティの〈肉〉の存在論が切り開いた世界を、その存在論が前提としている『知覚の現象学』の成果を適宜想起しながら、できるだけその生き生きとした光景に焦点を合わて辿ってきた。その上で、私たちは、この章の締め括りとして、西田哲学の立場から、次のような問いをメルロ=ポンティの〈肉〉の存在論に対して向けなくてはならないと考える。〈肉〉の名のもとに、歴史的生命における創造ということを果たして考えうるのだろうか。
 メルロ=ポンティの〈肉〉の存在論に決定的に欠けているもの、それは創造性である。〈肉〉は己を再生産するだけであり、己ではないものを創造することはない。確かに、〈肉〉は生命の要素ではある。しかし、歴史的生命の世界として、己自身を限定しつつ自らを創造し続ける〈生命〉そのものではない。歴史的生命の世界においては、私たちの行為的・受容的身体が創造的要素となることができ、そのことによって、物が〈生命〉の表現となりうる。「我々の自己が創造的要素となる時、物は生命の表現となる」(全集第八巻六七頁)。
 私たちの課題は、しかし、西田哲学の観点からメルロ=ポンティの現象学的存在論を一方的に批判することではない。私たちがこれまで繰り返し言及してきた私たちの哲学にとっての根本概念である〈受容可能性〉、世界を創造的なものにしている根源的な〈受容可能性〉をそれとして捉えること、それこそが私たちの探究の最終目的である。そのためには、〈肉〉の生成を、自己形成的な創造的歴史的生命の世界から考えなくてはならず、その逆ではない。私たちがこれから考えなくてはならないのは、創造であり、円環的ではない時間性であり、再生ではない誕生である。一言にして言えば、創造的生命の哲学である。
 私たちの行為的・受容的身体が自らに与えることができ、世界の事物に与えることができる諸々の形はすべて生命の表現であるとすれば、哲学的表現とその他の表現、例えば、芸術的、科学的あるいは制度的な表現との違いはどこにあるのだろうか。西田は、「哲学は歴史的生命の全体的な行為的直観でなければならない」(全集第八巻八〇頁)と言う。とすれば、哲学は、自覚する〈生命〉、創造的歴史的生命のロゴスの表現でなければならない。一個の語る身体における自己形成的な〈生命〉の表現は、その都度新たな言語活動を必要とし、その言語活動は、歴史的世界の中の既得の言語の中に固定化されることを拒否し続けなければならない。
 この哲学的言語における創造はいかにして可能なのか。語る身体による哲学的創造はいかにして可能なのか。哲学的言語における創造が可能であるとして、それは詩的言語における創造とはどう違うのか。これらの問いに対する答えを、メルロ=ポンティのテキストの中に見出すことはできない。そこから立ち去る時が来たのである。私たちは、今や、〈生命〉の問題に真正面から向き合わなくてはならない。この課題に取り組む次章最終章では、本稿でこれまで留保されてきた諸問題がそれらをすべて包括しうる視野の中で取り上げ直されるだろう。


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(四十一)

2014-05-25 00:00:00 | 哲学

2. 5 〈肉〉のロゴスと語る身体(3)

 昨日の記事の最後に引用した一節をもう一度掲げる。

問いかけとしての哲学は、[…]無ではない存在の零から世界がいかに分節化されるのかを示すこと、つまり、対自の中でも即自の中でもなく、存在の辺りに、世界への無数の入り口が交錯する繋ぎ目に居を構えること、そのこと以外ではありえない。
« La philosophie comme interrogation […] ne peut consister qu’à montrer comment le monde s’articule à partir d’un zéro d’être qui n’est pas néant, c’est-à-dire à s’installer sur le bord de l’être, ni dans le pour Soi, ni dans l’en Soi, à la jointure, là où se croisent les multiples entrées du monde » (ibid., p. 314).

 この存在の零は、無ではない。この繋ぎ目は、私の身体、より一般的に言えば、自己身体に他ならない。私たちが自己身体を与えられ、世界に属し、世界に曝され、世界が沈黙のうちに言わんとするところに耳を傾け、それを表現することができるかぎり、私たちが真に生まれ、働き、そして死んでいくこの歴史的世界に現在するものとして、世界が沈黙のうちに言わんとするところを言うことに私たちは努めなければならない。
 私たちの見るという経験は、世界の存在への知覚的信なしにはあり得ない。見るものは、見えるもののうちに生まれ、この知覚的信なしには生きることができない。この知覚的信は、一方では、私たちが世界に内属することを意味しており、他方では、見えないものへの信が私たちの生命にとって本源的なものであることを意味している。見るものは、見えるものの中の一つとしてその中に己を見出すが、それと同時に、見えるものを通じて見えないものへと開かれている。したがって、見えるものへの信と見えないものへの信とは二者択一的ではなく、私たちの生命において不可分である、と言うだけでは、まだ十分にそれら二つの信の関係を言い表したことにはならない。なぜなら、この二つの信は、見るという同じ一つの経験のニ側面だからである。
 見えないものへ信は、懐疑の拒否ではありえない。むしろその逆である。「それが疑いの可能性である」(ibid., p. 139-140)からこそ、知覚的信は信なのである。この信は、私たちのうちに目覚め、世界が私たちに向かって世界の沈黙の声を聞くように、そして世界がその内部に沈黙のうちに残したままの問いかけを自ら引き受けるように絶えず求めているという原初的な事実に私たちを気づかせる。したがって、メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の中で次のように言うとき、それは文字通りに受け取られなくてはならない。「感覚とは、文字通り、一つの聖体拝領である」(« la sensation est à la lettre une communion », PP, p. 246)。私たちは、このテーゼと共鳴するテーゼを 、死の二月前に記された、『見えるものと見えないもの』の最後のノート中に見出すことができる。

見えるものを、人間を通じて実現される何ものかとして記述しなくてはならない。しかし、その何ものかは少しも人間学的なものではない[…]。〈自然〉は、人間の裏側として記述しなくてはならない(〈肉〉として — 「物質」としてではまったくなく)。ロゴスもまた、人間の中で実現するものとして、しかし、その「所有物」としてではまったくなく。
« Il faut décrire le visible comme quelque chose qui se réalise à travers l’homme, mais qui n’est nullement anthropologie […] la Nature comme l’autre côté de l’homme (comme chair — nullement comme « matière », le Logos aussi comme se réalisant dans l’homme, mais nullement comme sa propriété » (VI, p. 328).


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(四十)

2014-05-24 00:00:00 | 哲学

2. 5 〈肉〉のロゴスと語る身体(2)

 知覚世界は、どのようにして表現的となるのか。この問いに対する答えを西田のテキストの中に求めてみよう。知覚世界が表現的となるのは、「物の世界の中に弁証法的に含まれ」(全集第八巻二六二頁)、「物そのものとなつて考へる」(同巻二二三-二二四頁)ために世界の中で働く身体的自己によってである。私たちの身体的自己が担う表現的作用は、「行為的直観的に見られる物の世界から要求せられる」(同巻二六九-二七〇頁)。この行為的直観によって、「世界は表現的となる。 我々に対するものは何処までも表現的なものである」(同巻六五頁)。かくして、世界は「表現的に自己自身を形成する」(同巻二八一頁)。
 〈肉〉の存在論は、「問いかけとしての哲学」と分かちがたく結びついている。自己身体は、両者の関係において、両者がそこで出会い、それをめぐって組織化される基軸のような役割を果たしている。「問いかけとしての哲学」と〈肉〉の存在論とは、自己身体を基軸とした一つの探究の両側面だと言ってもよい。「問いかけとしての哲学」は、「一つの空洞、一つの問いかけを、〈これ〉とそこに在る世界の周りに設えることであり、それらにおいて、〈これ〉と世界は己自身がそれであるところのものを自ら言わなくてはならない」(« aménagement, autour du ceci et du monde qui est là, d’un creux, d’un questionnement, où ceci et monde doivent eux-mêmes dire ce qu’ils sont », VI, p. 314)。それは、「沈黙の、構造の不変項の探究」(ibid.)である。
 このような「問いかけとしての哲学」において求められていることは、この世界の中で私たちの周りに様々なレベルで見出される欠落、不足、空虚あるいは必要などを、既得の言葉によって満たすことではないし、最初からその存在が想定されうるような最終決定的な答えを出すことでもない。そうではなく、それは、意味の既得のシステムの枠組みを超え出てしまうこともあるような言葉の力によって、私の身体と世界とが、私たち自身の関心と相関的な諸項目に還元されてしうまう前に己は何であったかを言うことができ、それゆえ言わなくてはならない場所を開くことである。

それ[=哲学]は、私たちの世界経験に、世界が語られ自明のものとなる以前に何であるのか、自由に取り扱うことができる意味の全体に還元されてしまう以前に何であるのかを問う。哲学は、この問いを私の黙せる生に問いかける、反省に先立つ世界と私たちとの混淆に向かって言葉をかける。
« Elle [= la philosophie] demande à notre expérience du monde ce qu’est le monde avant qu’il soit chose dont on parle et qui va de soi, avant qu’il ait été réduit à un ensemble de significations maniables, disponibles ; elle pose cette question à notre vie muette, elle s’adresse à ce mélange du monde et de nous qui précède la réflexion » (ibid., p. 138).
問いかけとしての哲学は、[…]無ではない存在の零から世界がいかに分節化されるのかを示すこと、つまり、対自の中でも即自の中でもなく、存在の辺りに、世界への無数の入り口が交錯する繋ぎ目に居を構えること、そのこと以外ではありえない。
« La philosophie comme interrogation […] ne peut consister qu’à montrer comment le monde s’articule à partir d’un zéro d’être qui n’est pas néant, c’est-à-dire à s’installer sur le bord de l’être, ni dans le pour Soi, ni dans l’en Soi, à la jointure, là où se croisent les multiples entrées du monde » (ibid., p. 314).


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十九)

2014-05-23 02:10:44 | 哲学

2. 5 〈肉〉のロゴスと語る身体(1)

 私たちは、今や、〈肉〉の存在論における自己身体の存在性格の核心に到達している。それは、単に、〈肉〉の存在論の要を成す結び目を見極めうる地点に立っているということではなく、それと同時に、「問いかけとしての哲学」(« la philosophie comme interrogation », VI, p. 314)の出発点に立っているということでもある。
 奥行は、そこにおいて存在論的探究が展開される、〈存在〉の本質的な次元である。この奥行を原理的に隠されたものの次元として有つ知覚の領野こそ、すべての存在論的問題群が提起される場所であり、「〈存在〉に向かって最も充溢した仕方で開かれている」(« ouvrent le plus énergiquement sur l’Être », ibid., p. 140)言葉の誕生に立ち会うために立ち戻るべき場所である。この言葉が、「万有の生命をより強い結びつきのうちに伝え、私たちの諸々の習慣的な自明性を断ち切るところまでそれらを振動させる」(« rendent plus étroitement la vie du tout et font vibrer jusqu’à les disjoindre nos évidences habituelles », ibid.)。
 『知覚の現象学』の成果は、見ること・触れることが反省的思考に先立つ作用として作動する場所である知覚の領野に精細な記述を与え、その中に知覚主体としての自己身体を明確に位置づけたことにあった。それに対して、『見えるものと見えないもの』の主眼は、見ること・触れることを、存在論的探究がそこで遂行されるべき本来的な地平を開く作用として捉え、知覚主体としての自己身体の経験の有つ存在論的含意を引き出すことに置かれている。
 メルロ=ポンティは、私たちの世界への眼差しを、自己身体にとって本来的な眼差しである「物らに問いかける眼差し」(« regard qui interroge les choses », ibid.)へと立ち返らせる。この眼差しは、知覚世界に住まい、あらゆる眼差しの起源と基礎となり、世界が言いたいことを自ずから世界に言わせるべく、世界へと問いかける。
 今ここでの事実的状況を引き受け、そこに身を据えながら、哲学者は、知覚世界が言わんとするところに耳を傾け、既存の意味のシステムによって覆い隠された世界の基層において私たちが生きているものを今一度生き直そうとする。黙せる世界へ繰り返し問いかけ、言葉なしでは感覚的なものの内に固着したままの問いかけを私たちのうちに呼び起こす。そこで索められているのは、知覚世界への回帰でも、その世界の再生でも、その世界で起こる諸現象についての単なる事後的な記述でもなく、世界が沈黙のうちに言わんとしていることに表現を与えることである。この表現者の役割を担うのが私たちの自己身体、世界の基層を成す知覚世界の「生地」から生まれた私たちの語る主体としての身体なのである。
 世界は、己が絶えず更新し続けるこの表現を通じて、歴史的生命の世界となる。この歴史的生命の世界においてこそ、私たちは、真に生れ、働き、そして死んでいくのである。

 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十八)

2014-05-22 00:00:00 | 哲学

2. 4. 3 〈肉〉に奥行を与えるものとしての自己身体(2)

 私の身体は、己に固有の知覚の領野に対して開かれている。しかしながら、それは、ただ単に、この領野が「時間空間的に個体化された〈これ〉」(« un ceci individué spatio-temporellement », VI, p. 313)としての、つまり知覚主体としての私の身体にとって固有であるということだけを意味するのではない。私の身体は、他方で、その知覚の領野に従属してもいる。私の身体は、その領野において生まれ、己とその領野とは同じ一つの生地、つまり〈肉〉から成っているという意味においては、そこに内属しているからである(ここで通常「主体」と訳される « sujet » という言葉が、古くは「何かの下に置かれたもの」「何かに従属するもの」「何かの影響下にあるもの」という意味を有っており、今でもその意味が形容詞としての sujet には残っていることを思い出しておくことも無駄ではないであろう)。私の身体とその知覚の領野との間には、一種の円環関係がある。「〈肉〉はこの円環全体である」( « La chair est ce cycle entier », ibid.)。
 知覚主体である自己身体が己に固有の奥行を有つことで、精神がそこに住まい、この身体がまさに自己身体として形成される。この同じ自己身体が知覚世界にもたらすことは、知覚された諸事物それぞれに固有の奥行が与えられ、それらの諸事物がそれとして形成されるということである。かくして、自己身体は、〈肉〉を〈肉〉たらしめている。しかし、〈肉〉は、自己身体の生誕地であり、自己身体は、したがって、〈肉〉から独立自存しているような「主体」ではない。自己身体が〈肉〉の只中に生まれることで、〈肉〉のうちに奥行が与えられ、〈肉〉は汲み尽くしがたい意味の大地となる。自己身体を媒介としたこの〈肉〉から〈肉〉への循環性こそ、〈肉〉を自ずから意味の無尽蔵な宝庫とし、己を隠しつつ己を顕にするものとしている。奥行という次元は、知覚世界がこの肥沃な意味生成循環性へと開かれていることを知覚的に明証している次元なのである。
 〈肉〉のそれ自身に対する自己身体を媒介としたこの無窮の動的円環性という関係性は、西田における歴史的生命の世界にも見出される。歴史的形成作用が働く歴史的生命の世界においては、「我々の身体といふものも作られたものであると共に作るものである、見られるものであると共に見るものである」(全集第八巻二二〇頁)。というのも、歴史的生命の世界を歴史的形成作用が働く場となるようそれを下支えする行為的直観は、それもまた「円環的」(同巻八九頁)であり、行為的直観が開く世界においては、作るものは作られたものから生まれ、作るものは翻って作られたものを生み出す。「作られたものは作るものを作るべく作られたのであり、作られたものと云ふことそのことが、否定せられるべきものであることを含んでいるのである。併し作られたものなくして作るものと云ふものがあるのでなく、作るものは又作られたものとして作るものを作って行く」(同巻二二〇頁)。
 私たちはメルロ=ポンティのテキストの読解を通じて、西田の行為的直観が生動する世界の光景へと導かれたのである。メルロ=ポンティの〈肉〉の存在論における〈肉〉の意味生産的な動的円環性は、西田の行為的直観の世界の論理を読み解くための一つの鍵を与えてくれるのである。
 本節でここまで加えてきたメルロ=ポンティのテキストへの注釈を念頭に、西田の次の二つのテーゼを読んでみよう。「現実は現実を越えて現実に行く」(同巻二三二頁)。「世界は歴史的現在として何処までも決定せられたものでありながら、自己自身の中に自己否定を含み、自己自身を越えて現在から現在へ行くといふ所に、行為というものが成立するのである」(同巻二一七頁)。この世界が自己否定を通じて自己超越を無限に〈今〉〈ここで〉繰り返すこと、それが行為であり、その行為を担うのが自己身体である。その自己身体の知覚世界における存在性格とその行動を、私たちは、メルロ=ポンティとともに、ここまで見てきたのである。