『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』の「Ⅵ 世界、この私を映す鏡」のなかでロンサールとモンテーニュを比較している一節が特に私の注意を引いた。
まず、事物の世界との関わりにおいて両者に共通する点を次のように保苅氏は指摘している。
ロンサールとともに、かれはなかば事物の世界に棲んでいて、世界と自分の対立という余計な問題に悩まされずに、親しく外界と交渉しながら生きることができた、おそらく最後の人間だったであろう。(207頁)
しかし、ロンサールの詩の世界が、モンテーニュのそれとは根本的に異なる自我の意識の上に成り立っていることに氏は気づく。
これはロンサールの詩を読んでいて感じることであるが、かれの自我の意識は、かれ以外の存在や外界のなかに散乱していて、はっきりと限られた自我の領域を持っていない。かれの自我は、自我の外にあるものと明確な境界をもたず、その透明な意識のなかに外部のすべてが偏在しているような印象を受ける。(210頁)
そして、カッサンドルへの恋愛詩から、絶唱といっていい十四行詩を引用する。その詩について、「春の野原も、恋人の姿も、無垢なまま、かれの詩的想像のなかへ直接に入って来る。目の前に広がる春の景色に、失った恋人のまぼろしを見て心が乱れる詩人の想いにしても、それがロンサールのものでなければならないという感じがしない」(211‐212頁)。この非人称性が、ボードレールやヴェルレーヌなどの近代恋愛詩とロンサールの恋愛詩とを截然と分かつ指標である。
また、「ロンサールの世界には、草木が茂り、動物が棲み、恋人が花を摘む自然がある一方で、天界までがその詩の世界に属していて、神々をはじめ、天使も、妖精も、ダイモンも、それぞれ住むべき場所を与えられていた。天と地が文字どおり、かれの感覚と想像力を介して、詩の舞台をなし、また天と地そのものが詩の主役になって、万物と万象が詩のなかに生動する」(212頁)。
ロンサールは、「天界と自然界と人間界が時空を共有して生きているルネサンス的な宇宙を描くことで、壮大な相互関連の世界を詩のなかに出現させることに成功している」(213頁)。「それが可能だったのは、かれの自我がその限られた個人の枠を持たないか、あるいは極端にいって不在であるためであって、こうした自我のありさまは、近代人の個人主義の立場からはほとんど想像を超えるものがある」(同頁)。
モンテーニュは、ロンサールの詩を讃えつつも、このような非人称的な詩の世界を共有することはなく、またそれに憧れることもなかった。「ここといまとからなる自我の現在のなかで、モンテーニュはかれがいう「もっとも美しい生活」を築くことに向かうだろう。その生活は、[…]「自分の存在を誠実に享受する」ことにあると言っていい。そして、この存在を享受する試みのなかでは、もはや宇宙も、超越的な彼岸も係わって来ない」(208頁)。
このように、自然・世界・宇宙との関わり方において十六世紀の同時代人であった二人の間に見られる決定的な違いが鮮やかに浮き彫りにされている。