内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の哲学のかたち(4)― 古代哲学者の三つの軸、学派・都市・自己

2022-05-31 17:13:09 | 哲学

 昨日の記事で要点を示した exercices spirituels の共通要素からもわかるように、それは理論と実践を兼ね備えたものです。というよりも、理論と実践とが相補的であってはじめて成立するものです。学派によって両者の区別と関係や重きの置き方に違いがありましたが、理論と実践とが不可分であったことは共通しています。少なくとも古代においては、理論だけでも、実践だけでも、それは哲学たり得なかったということです。
 古代においては、exercices spirituels の実践者としての哲学者は、教授でもなければ、著作家でもありませんでした。ある生き方を自らの意志で選択し、他の市民たちとともに、しかし彼らとは違った仕方で生きることを選んだ人たちが哲学者だったのです。
 古代の哲学者たちの著作あるいは語録を読むときに注意しなくてはならないのは、書かれたものは、それ自体が最終目的ではなく、生きた言葉で語られたものの延長あるいは補助であり、何よりも重要なのは肉声でその場で発された言葉であって、その言葉がまさに向けられるべき人に向けられたとき、その言葉はその人の魂を動かし、導くことができます。そして、その言葉は一方的発されるのではなく、聴くものからの応答を伴い、そこに問答が生まれ、対話が生まれます。それが哲学なのです。
 したがって、それらの教説・問答・対話の内容と形は相手によって変わります。パヴィはその点について、古代の哲学者は三つの軸で捉える必要があると言っています。その三つの軸とは、自分の学派のなかで生きる哲学者、都市で生きる哲学者、己自身と生きる哲学者です。言い換えれば、弟子に対して話すとき(しかも、弟子にも高弟、古参、中堅、新入りとさまざまあります)、学派の外の一般市民と話すとき、そして、自らと対話するとき、それぞれの場合で使われる言葉も言葉の使い方も変わるということです。
 この点を無視して、「整合性」のある理論を残されたテキストから「再構成」しようとすることは、その哲学の本来の在り方を歪めてしまうだけでなく、テキスト間の不整合をただそれだけの理由で批判するという誤りを犯していることになります。この点を徹底的に明らかにしたのがピエール・アドだったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(3)― 共同生活・技術・方法

2022-05-30 23:59:59 | 哲学

 Exercices spirituels philosophiques(以下 ESP と略す)は序文から最後の詳細目次まで含めて三三一頁あり、主要部分は九章からなっています。第一章の前に五〇頁を超える序説があり、本書全体の要点がそこに示されています。懇切丁寧な導入の役割を果たしているこの序説をまずは通覧していきましょう。
 型どおりというか、exercices spirituels とは何かという問いから始まります。最初の一文は、古代において、それは哲学に他ならなかったという宣言です。古代以降今日まで、基本的にそれは変わっていないと著者は考えています。
 しかし、これではあまりにもざっくりとしいて、答えになっていないとも言えます。実践としての哲学とは、生きていくなかで出遭うさまざまな困難、苦痛、不幸、災厄などを乗り越えていくために「いかに生きるか」という問いに答えようとするものだ、というだけでは、古代ギリシアに始まるとされる哲学の起源の説明としてはまったく不十分です。
 人間が生きるところには例外なく、困難、苦痛、不幸、災厄はあるのですから、それらに直面して、「いかに生きるか」という問いとそれに対する答えのこころみも世界中いたるところにあり、それらがすべて哲学であり、exercices spirituels なのであれば、わざわざそう呼ぶ必要もないし、そう呼んだところで何がわかるわけでもありません。
 いきなり、因縁をつけるようなことになってしまいましたが、この問題は、本書に限らず、一般的に exercices spirituels を論じようとするときに必ずつきまとう問題なのです。そこで、パヴィの文章をそのまま辿るのではなく、その中から exercices spirituels を特に特徴づける要素を取り出していきましょう。
 まず、これは昨日の記事でも少し触れましたが、それは規則的な実践だということです。その実践は言説にはかぎりません。生活全般において実践されるべきものです。言葉による実践は、それが対話や問答であれ、書かれたものを通じてであれ、全体的な実践に有機的に組み込まれるべきものです。
 では、何のための実践かというと、ものの見方を変えるためです。それも、単にある見方から別のある見方へと移りゆくことではなく、それまでとはまったく違った見方を身につけることです。
 この実践は、独りでも不可能ではありませんが、古代においては、多くの場合、師に導かれてはじめて可能になりました。同じ学派の人たちは、師を中心として共同生活を送ることもしばしばありました。
 もう一つ大事な点は、この exercices spirituels の実践のためには技術と方法が必要だということです。
 技術と方法は学派ごとに異なっており、学説も異なり、最終目的も根本概念も異なりますが、上記の諸点においては共通していたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(2)― 予備的考察

2022-05-29 23:59:59 | 哲学

 今日から昨日紹介したグザビエ・パヴィの本をぼちぼちと読んでいくつもりだったのですが、exercice spirituel って「そもそもなんなの?」という問いをお持ちの方もいらっしゃることでしょう。実は、本書全体がこの問いの答えになっているので、それを簡単に一言にまとめるのは難しいのです。
 でも、そういってしまっては取り付く島もないことになってしまいますので、理解のための補助線として、拙ブログで exercice spirituel を取り上げている記事をお読みいただければ幸いです。それらの記事を探すには、拙ブログのどのページでもかまいませんので、下方右側にある検索エンジンに exercice spirituel と入力してください。この言葉が使われている記事を網羅的に通読することができます。特に2013年7月30日から8月3日までの記事をお読みいただければ、本書読解のための予備知識としては十分であろうかと思われます。
 今日の記事では、それらの記事と重なるところもありますが、読解のための予備的考察として、以下の三点を申し上げておきたいと思います。
 第一点目は、私自身、exercice spirituel をどう日本語に訳せばよいのか、いまだに答えを出せずにいるということです。例えば、「精神的練習(訓練)」と辞書に載っている言葉をベタに貼り付けただけでは何のことかよくわかりません。それどころか、いらぬ誤解や先入観を与えてしまいかねません。「精神的」は「身体的」に対立しているとも取られかねませんが、exercice spirituel においてはその逆であり、両者の関係はむしろ相補的なのです。一般的な用法として、「練習」は「本番」「実践」「試合」「実戦」などの対語として使われることが多いですが、ここではむしろ「実践」に近いのです。ただ一度きり実行すればよいことではなく、一挙に目的を達することはありえず、日々繰り返し行われ、いくつもの階梯を経つつ持続的に実践されるべきことであり、その過程において、やり直しを迫られることもあります。
 第二点目は、この表現を提唱したピエール・アド自身、それに満足しているわけではなく、spirituel という言葉がどうしても引き起こしてしまう宗教的な含意について再三注意を促していることです。アドそしてパヴィがこの表現を使うとき、それはいかなる宗教からも独立した、それ自体で実行可能な哲学的実践、言い換えれば、生き方そのものとしての哲学のことです。ですから、イグナチオ・デ・ロヨラによって始められたイエズス会の霊性修行 exercitia spiritualia とははっきりと区別されなくてはなりません。
 第三点目は、ここまで exercice spirituel と単数形を用いてきましたが、現実の実践としては多種多様な形で為され、したがって、exercices spirituels と複数形で表記すべきだということです。実際、アドもパヴィもつねに複数形を用いているのです。私たちがこれから読もうとしているこのアンソロジーは、古代から現代にまで至るその多様な実践の形の歴史なのです。より具体的に言えば、実践者の言説あるいはその実践の諸形態についての同時代の証言をテーマごとに時系列に沿って編集し、それぞれのテーマの解説を導入として各章の冒頭に置き、それぞれのテキストへの注解を章中に織り込むことででき上がっているのがこのアンソロジーなのです。
 テーマそのものである根本語を日本語にどう訳すかという問いの答えは留保したまま本書を読みはじめるのはいかにも居心地がよくありませんが、余計な先入観を与えないためにはその方がよいと判断しました。読みはじめるにあたって、exercices spirituels とは、日々の生き方そのものとしての哲学のことであり、その形は多様でありうるということだけを押さえておきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日々の哲学のかたち(1)― 一冊のアンソロジーを読みながら

2022-05-28 18:36:29 | 哲学

 来月末が締め切りの原稿が二つある。一つは仏語の書評(10,000字)、もう一つは日本語での随想(12,000字)である。来月はこの二つの原稿を並行して書き進める。
 前者は、若き俊英による九鬼周造のモノグラフィー Simon Ebersolt, Contingence et communauté. Kuki Shûzô, philosophe japonais (Vrin, 2021) についての書評で、当該書をここ10日間ほどメモを取りながら注意深く読んできた。明日には読み終える。実に犀利 ・周到な九鬼研究であり、日本語でもこれを凌駕する研究は当分出ないのではないかと思う。
 後者は、四月末に依頼を受けてすぐにメモを取り始め、ようやくテーマが絞れてきた。六月一日に執筆を開始する。論文ではないので、それだけ自由に自分の考えを前面に出して書けるが、上滑りにならないように気をつけながら時間をかけて書きたい。
 明日の記事から、その執筆のためにいわば精神的エネルギーを供給してくれる仏語の書物をこのブログで少しずつ紹介していきたい。日本語訳がある本は紹介しない。比較的最近出版された本でまだ邦訳されていない(あるいは邦訳されそうにない)書物を紹介するほうが「希少価値」があると思うからである。
 トップバッターは、今年二月に PUF から刊行されたばかりの Exercices spirituels philosophiques : Une anthologie de l'Antiquité à nos jours である。編著者は Xavier Pavie という哲学者で、すでに exercice spirituel についていくつか著作がある。 Pierre Hadot から決定的な影響を受けている。哲学を日常においていかに実践するか、その実践にはどのような形がありうるか、という問題を追求し続けている。
 本書の紹介を通じて、私自身、同じ問題を考え続けたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「自分だけの辞書」― 保苅瑞穂『モンテーニュ――よく生き、よく死ぬために』より(ニ)

2022-05-27 00:00:00 | 読游摘録

 保苅氏のそれ自体が明晰な文章を老生が言い換えても汚すことにしかなりませんから、氏の文章そのままの引用以外は、文意を損なわないように気をつけつつ、補足説明を加え、私なりの表現に置き換えることにします。
 「時間を過ごす passer le temps」という表現は、Le Grand Robert de la langue française によると、それだけで用いられるとき、« avoir des activités destinées à ne pas s'ennuyer pendant un temps » という意味になります。つまり、「ある時間、退屈しないために何かする」ということです。これが合成語として名詞化されて passe-temps となると 「暇つぶし」という否定的な意味が強くなります。他方、le temps の代わりに具体的に期間が示され、かつ前置詞 à+名詞あるいは動詞不定形を伴うと、「~をして~を過ごす」という意味になり、時間潰しという否定的なニュアンスには必ずしもなりません。例えば、« Il a passé des heures à contempler le paysage » という文は、「何時間も景色を眺めて過ごした」ということで、「それほど素晴らしい景色だった」という意味にもなりえます。
 モンテーニュはこのような常用を承知の上で、昨日の記事で引用した一節において「時間を駆け抜ける」という独自の意味で使っているのです。フランス語の le temps には天気という意味もあります。だから、時間のことなのか天気のことなのか、曖昧さを避けたいときには、前者は le temps qui passe [court] とし、後者は le temps qu’il fait として、どちらの意味で使っているのか明示します。モンテーニュは、逆に両意を重ねて使うことで「時間を駆け抜ける」に具体的なイメージを読者に与えようとしています。 この点について、保苅氏はこう注解しています。

この言い回しのなかから、天気が悪い日には、雨のなかを駆け抜けるという人間の生活の匂いがする情景も連想されてくる。昔の人の句に「幾人か時雨かけぬく瀬田の橋」(丈草)というのがあったが、例えばそんな情景である。十六世紀はまだフランス語の語法や文法が十分に確定されず、個人の発想や感性がフランス語を鍛える余地があった時代であって、ここに挙げたものはささいな例かも知れないが、そうした時代を背景にしてモンテーニュが「自分だけの辞書」を使って書いた言葉の妙味を味わわせる一例になっている。

 どうですか。本書を全部読んでみたくなりませんか。この「試食」で「食欲」をそそられた方は、どうぞ「フルコース」を召し上がってください。そうして損はないどころか、幸福な満腹感で心が満たされ、この本に出会えてほんとうによかったときっと思われるはずです。そして、どうしても『エセー』が読みたくなることでしょう。
 最後に、一言、自己宣伝をさせていただきます。先日も一度話題にした拙稿が掲載されている『現代思想』6月号は本日発売です。拙稿のタイトルは「食べられるものたちから世界の見方を学び直す――個体主義的世界観から多元的コスモロジーへ」です。書店あるいは図書館などでご覧いただければ幸いに存じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「時間を駆け抜ける」― 保苅瑞穂『モンテーニュ――よく生き、よく死ぬために』より(一)

2022-05-26 05:21:13 | 読游摘録

 昨日の記事の終わりに挙げた保苅瑞穂(講談社学術文庫 2015年、初版 筑摩書房 2003年)は、宮下志朗氏が仰っているように、名著である。実に精妙かつ明晰な文章でモンテーニュの生動する思考の襞に分け入っていく。読んでいると、モンテーニュというこの上なく柔軟な精神の城館を名ガイドによって案内されているかのような感をもつ。
 例えば、「VII 変化の相のもとに」の「2 時間について」のなかで『エセー』第三巻第十三章の終わりのほう、つまり『エセー』全体の巻末に近いところに出てくる « passer le temps » という表現のモンテーニュ独特の使い方をめぐる評釈を読んでみよう。
 まず、『エセー』の当該箇所を保苅氏自身の訳で引こう。

私はまったく自分だけの辞書を持っている。私は時が悪くて不愉快なときには、時を通り抜ける je passe le temps。時が良いときには、それを通り抜けようとは思わない。何度もそれに手で触れて、味わい、それにしがみつく。悪い時はそれを駆け抜け、良い時はそこに立ち止まらなければならない。暇つぶしとか、時間を潰すとかいうこの通常の表現は、あの賢明な方々の生き方を表している。かれらは一生を流し、逃れ、通り抜け、潰し、巧みにかわし、また人生が辛くて軽蔑すべきものであるかのように、できるかぎりそれを無視して避けることほど、うまい生き方はないと考えている。しかし私は、人生がそういうものではないことを承知しているし、いま私がそれを摑んでいる最後の老境のときにあってさえ、価値がある、快適なものだと思っている。〔…〕人生を楽しむには、その切り盛りの仕方というものがあって、私は人の二倍は楽しんでいる。なぜなら楽しみの程度はそれにどれくらい身を入れるかに掛かっているからだ。とりわけ自分の人生の時間がこんなに短いことに気づいているいまは、それを重みの点で引き伸ばしたいと思っている。人生が逃げ去る素早さを、私がそれを摑む素早さで引き止め、人生の流れ去る慌ただしさを、人生を生きるたくましさで補いたいと思っている。生命の所有がますます短くなるにつれて、それだけ私はその所有をいっそう深い、いっそう充実したものにしなければならないのだ。

J’ay un dictionnaire tout à part moy : je passe le temps, quand il est mauvais et incommode ; quand il est bon, je ne le veux pas passer, je le retaste, je m’y tiens. Il faut courir le mauvais et se rassoir au bon. Cette fraze ordinaire de passe-temps et de passer le temps represente l’usage de ces prudentes gens, qui ne pensent point avoir meilleur compte de leur vie que de la couler et eschapper, de la passer, gauchir et, autant qu’il est en eux, ignorer et fuir, comme chose de qualité ennuyeuse et desdaignable. Mais je la cognois autre, et la trouve et prisable et commode, voyre en son dernier decours, où je la tiens […] Il y a du mesnage à la jouyr ; je la jouys au double des autres, car la mesure en la jouyssance depend du plus ou moins d’application que nous y prestons. Principallement à cette heure que j’apercoy la mienne si briefve en temps, je la veux estendre en pois ; je veux arrester la promptitude de sa fuite par la promptitude de ma sesie, et par la vigueur de l’usage compenser la hastiveté de son escoulement : à mesure que la possession du vivre est plus courte, il me la faut rendre plus profonde et plus pleine.

 先を急ぐ理由はないのだから、保苅氏の名評釈を聴く前に、今日のところは、まずこのモンテーニュの文章を味読しよう。そのために、保苅氏が省略している箇所も下に復元し、その箇所の宮下志朗訳も付しておく。

; et nous l’a nature mise en main garnie de telles circonstances, et si favorables, que nous n’avons à nous plaindre qu’à nous si elle nous presse et si elle nous eschappe inutilement. Stulti vita ingrata est, trepida est, tota in futurum fertur. Je me compose pourtant à la perdre sans regret, mais comme perdable de sa condition, non comme moleste et importune. Aussi ne sied il proprement bien de ne se desplaire à mourir qu’à ceux qui se plaisent à vivre.

自然は、これほど有利な状況まで添えて、人生をわれわれに手渡してくれたわけなのだから、もしこれが重荷となったり、役立つことなく逃れさったりしても、自分に文句をいうしかないのだ。《楽しみもなく、不安ばかりで、先のことばかりを考えているようなのは、愚か者の人生というしかない》(セネカ『書簡集』一五の九、エピクロスのことば)のである。したがってわたしは、思い残すことなく命を失えるようにと、きちんと覚悟を決めている――それも、つらく、あいにくのことなどではなく、ことの本質からして当然失われるべきものだと覚悟している。それにまた、死ぬことを不愉快に思わないというのは、生きることが好きな人間にこそふさわしいのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


モンテーニュの『エセー』の諸版についての偶感

2022-05-25 23:59:59 | 読游摘録

 モンテーニュの『エセー』には色々な版があってややこしい。学問的にはそれぞれの版の異同を詳細に検討することで、モンテーニュ自身の思想の変化を精密に辿ることが重要な仕事になるだろう。
 やっかいなのは版だけではない。十六世紀のフランス語はまだ表記が安定しておらず、『エセー』の原文は現代フランス語に慣れているだけではとても読みづらい。モンテーニュの専門家ではないが「通」らしい友人によると、確かに読みやすくはないが、それでも原文に慣れてくると「クセ」になるし、現代フランス語表記に直した版より直にモンテーニュの息遣いに触れることができて、結局モンテーニュ読解への「近道」なのだとのことだが、私はとてもそのような域には達しておらず、原文表記を忠実に再現した PUF のヴィレー=ソーニエ版(1965年)は手元にあって参照はするものの、なんとか集中して読もうとしても、数分も原文を睨んでいると頭がくらくらしてくる。
 だから、私のようにただ楽しみで読む人間は、できるだけ読みやすい本文を提供してほしいと思う。それは一般のフランス人にとっても同様で、それが証拠に PUF 版以外で今日広く流布している版はいずれも表記を現代フランス語に変更してある。手元には Imprimerie Nationale 版(三巻本、1998年)、ポショテック版(2001年)、アルレア版(2002年)の三種がある。
 しかし、残念ながら、表記を現代フランス語に直しただけでは、よみやすさという点で問題がすべて解決したわけではない。語義や用語法が今日とかなり異なっている場合が少なくなく、現代フランス語の知識だけでは、よくわからなかったり、誤解してしまったりする危険が多分にあるからである。それで、現代フランス語訳もいくつも出ている。私の手元には、ガリマール社の Quarto 叢書版(2009年)とロベール・ラフォン社の Bouquins 叢書版(2019年)がある。
 日本語訳で所有しているのは白水社の宮下志朗訳(全七巻、2005年~2016年)のみで、日頃大変お世話になっているのだが、モンテーニュを電子書籍版で読むのはやはりなんとも味気ない。その宮下訳の第七巻の訳者あとがきに保苅瑞穂『モンテーニュ――よく生き、よく死ぬために』(講談社学術文庫 2015年、初版 筑摩書房 2003年)が名著として挙げられおり、読者に「ぜひ一読を」と薦めている。こちらも電子書籍版で所有していて、よくお世話になっているが、この名著もぜひ紙版で味読したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「わたしに内在する、ふだんからの終始一貫した欠陥」― モンテーニュ『エセー』第三巻第五章より

2022-05-24 23:59:59 | 読游摘録

 ニーチェはモンテーニュを称賛していた。『反時代的考察』の第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」のなかで、正直さという点においてショーペンハウアーと同等かあるいはそれ以上にモンテーニュを高く評価している。モンテーニュが『エセー』を書いたということそのことが、この世で生きる喜びをそれだけ大きくしているという。このもっとも自由でありかつ強健な魂を評価するのに、モンテーニュ自身がプルタルコスを称賛している言葉を引かなくてはならないとニーチェは言う。その言葉の一部をニーチェは引用しているが、それが誤ったドイツ語訳に拠っていて、ちょっと意味不明になってしまっている。問題の箇所は、モンテーニュがものを書いているときには、書物を同伴させたり、書物の記憶に頼ったりすることはしないで済ませているという話を第三巻第五章「ウェルギリウスの詩句について」のなかでしている一節に出てくる。ニーチェが引用した文の直前の数行から宮下志朗訳で見てみると次のようになっている。

プルタルコスを手放すのは、とてもむずかしくてできそうにない。プルタルコスは全知の人で、とても充実しているために、いかなる場合も、どれほど異常な主題を扱った場合でも、われわれの作業に加わってくれて、無尽蔵の富と潤色のネタをたずさえて、気前よく手を差しのべてくれるのだ。プルタルコスが、その著作を読む連中による剽窃という危険にまともにさらされていることが、わたしには腹立たしい。もっとも、このわたしだって、プルタルコスのところを、ほんの少しだけ再訪したときでも、彼からもも肉や手羽先を失敬して帰るわけなのではあるが。

 この最後の一文をニーチェはドイツ語訳に拠って引用しているのであるが、この文の言いたいことは、プルタルコスをちょっとでも読むと、つい「いいとこどり」したくなる、ということだろう。確かに、『エセー』についても同じことが言えるというのは私もまったく同感だ。
 上掲の引用箇所の直後の以下の箇所などもいかにもモンテーニュならではの一節である。

わたしのこの計画のためには、片田舎にあるわが家で執筆するのが好都合なのである。ここならば、だれも助けてくれないし、だれもまちがいを直してくれない。この場所でわたしが付き合うのは、「主の祈り」のラテン語もろくにわからない連中だし、フランス語はさらにだめな連中なのだ。別の場所でなら、もっとましなものができたかもしれないけれど、その著作からはわたしらしさが減ったにきまっている。なんといっても、この著作を完成させるにあたっての第一の目的は、それがまさしくわたし自身のものであるということなのだ。もちろん、偶発的なまちがいは訂正するつもりでいる。気をつけないでどんどん書いていくから、そうしたものはたくさんあると思う。しかしながら、このわたしに内在する、ふだんからの終始一貫した欠陥については、これを取り除くのは裏切り行為となろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「もっとも輝かしい仕事」― モンテーニュ『エセー』第三巻第一三章「経験について」より

2022-05-23 23:59:59 | 雑感

 昨日日曜日の午前中、26キロ走った。今月一日の個人最長記録をまた1キロ更新した。最初からそのつもりではなかった。15キロ前後にするつもりで走り始めた。走り始めは体もどちらかといえば普段より重く感じられ、15キロもしんどいかなあと思いながら、のろのろ走っていた。
 ところが、14キロほど走ったところで不思議なことに体が軽くなった。疲れも感じない。ペースを上げられるほどではないが、まだ走れそうだ。17キロを超えたころ、さらに不思議なことに、体が浮くように感じられ、足が軽くなった。一種のトランス状態に入ったのかも知れない。
 しかし、エネルギーは相当に消耗しているはずだ。調子に乗り過ぎて無理をすると、足腰を痛めてしまうかも知れない。ペースはそのまま、体の変化をいわば内側から自己観察しながら、とにかく行けるところまで行ってみようと、頭に描いていた予定のコースからあえて大きくはずれ、遠回りをすることにした。体のどこかに痛みが出れば、走るのを止めて歩けばよい。結果、自宅前まで休まずに走れた。2時間40分かかった。こちらも最長記録更新である。帰宅後、風呂にゆっくりと浸かり、足の疲れを癒やした。
 今朝はさすがに両足が少しだるい。ジョギングは2キロ半にとどめ、あとはウォーキング4キロ半にした。ウォーキングの途中、自宅付近のアスレチックコースの体操器具を使って若干の筋トレを行った。ウォーキングは久しぶりだ。ここ一ヶ月ほど、買い物時や大学構内で少し歩く以外はほとんど歩いていなかった。歩くという感覚が新鮮に感じられるほどだ。試験監督以外、大学へも出かけることがなかったこの二週間ほどは、起きている間にしていることといえば、外を走る、机の前に座って読書あるいは原稿を執筆する、台所に立って調理及び食器洗いをする、部屋を掃除している、洗濯物を干したり畳んだりする、食事をしながらドラマや映画を観る、これらでほぼ尽きる。
 モンテーニュの『エセー』の一節を思い出した。

Nous sommes de grands fols : Il a passé sa vie en oisiveté, disons nous ; je n’ay rien faict d’aujourd’huy. - Quoy, avez vous pas vescu ? C’est non seulement la fondamentale mais la plus illustre de vos occupations.

Les Essais, Livre III, Chapitre XIII, « De l’expérience », PUF, 1965, p. 1108.

それにしてもわれわれは大変な愚か者なのである。だって、「彼は人生を無為にすごした」とか、「今日は、なにもしなかった」などというではないか。とんでもない言いぐさだ。あなたは生きてきたではないか。それこそが、あなたの仕事の基本であるばかりか、もっとも輝かしい仕事なのに。

『エセー』第三巻第一三章「経験について」 宮下志朗訳 白水社 2016年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ドキュメンタリー『日本のホストたち』― ひとりの学生が作成したドキュメンタリービデオ

2022-05-22 13:20:34 | 講義の余白から

 メディア・リテラシーの授業では、後期、学生たちに、新聞記事、雑誌記事、ルポルタージュ、あるいはドキュメンタリービデオ作成を課題として課す。前期が主にメディアをどう理解すべきか、どう利用すべきか等、受け手の立場からのメディア・リテラシーを扱ったのに対して、後期は、発信者の側に立ってメディアの功罪を考えることをその目的としていた。
 いわゆる課題レポートの評価基準と違うところは、調べて考えたことを手際よくまとめただけでは駄目だという点である。想定される読者あるいは視聴者に対してどれだけその関心を惹き付けることができる内容・構成・形式になっているかが重要な評価ポイントになる。いくら真面目に調べてまとめたレポートでも、読者の注意を惹き付ける工夫がされていない、いわゆるベタな記事にはいい点はあげない。
 日本人への遠隔インタビューを織り込んだビオ食品産業についてのルポルタージュは出色の出来であった。河豚計画(1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画)について多数のイメージを巧みに記事の中に組み込み、本文の説得力を増強することに成功していた歴史探訪的記事も高く評価した。
 日本のホストという仕事についてドキュメンタリービデオを独りで作成した学生がいた。これがなかなかの出来なのである。本人の許可は得ているので、このブログの読者の皆様にも公開いたします。こちらがリンクです。お楽しみください。