昨日の記事で読んだ箇所だけを見ると、そこに示されている学説は一種の唯物論だとも誤解されかねないところもあるが、もちろんシモンドンはそれをはっきりと否定する。なぜなら、その学説は、物理的現実から高度な生物的諸形態に至るまでの連鎖を想定しているのであって、そこでは物質と生命との間の固定的な〈類-種〉関係はまったく排除されているからである。
とはいうものの、物理から生物までカヴァーする一般存在生成論を目指す個体化論が完全で充足的なものであるためには、それは唯物論とは違うというだけでは不十分であることも明らかである。なぜなら、私たちの一般的思考には、〈類-種-個〉という論理的階層に存在全体を斉一的に秩序づけようとする傾向があることは事実であり、この傾向がなぜ、どのような意味で帰納的に生まれて来るのか説明できなくてはならないからである。
現実的思考の中である条件下に実行される〈類-種-個〉という存在論的階層の区別は、生命を物質に還元する唯物論的図式や物質か生命かという二項対立図式を超えたより広大な現実の中に位置づけられなければならない。このより広大な現実においてはじめて、諸種間の連続性と非連続性とをともに説明しうるからである。この非連続性の方は、物理学において現れる量子的性格と関係づけられうるとシモンドンは見ている。
昨日読んだ段落に提示されていた物の見方から導かれる最初の帰結は以下の通りである。
物理的システムに含まれた組織化のレベルは、生物的システムのそれに劣る。しかし、物理的個体は、場合によっては、生物的個体のシステムの組織化のレベルより高度でありうる。それは、生物的個体のシステムがより広大な全体の中に統合されている場合である。理論的には、物理的システムと生物的システムとの間に交換・交代の可能性を否定することはできない。
とはいえ、この仮説が有効であるためには、物理的個体としての統一性が生物的集団に変容することが想定されなくてはならない。さらには、ある意味において、物理的存在の発展の中断とその存在の分析が生物を発生させると考えなくてはならない。つまり、すでに完成された物理的個体をいくら集めたところでその総合が生物を発生させるのではない、ということである。
もしこのように考えてもよいのなら、きわめて複雑な物理的構成体のみが生物に自己変容する可能性をもっていると言わなくてはならない。こう考えれば、自発的生成が可能な場合を大幅に限定することになる。このような見方によれば、生命としての統一体とは、組織化された完全な集団であり、孤立した個体ではない、ということになるだろう。
今日もシモンドンのテキストを淡々と読んでいく。昨日読んだ段落の次の段落を意訳する。十分に内容を理解できているという自信はない。しかし、今はただ、休まずに読み続けること自体が目的である。
一個の個体がそれとして死すべき存在であり、分裂によって分割することは不可能である、あるいは、原形質の交換によって再生可能である、という違いは、それぞれ個体化のあるレベルに対応しており、そのレベルが個体成立の閾値を示している。物理的個体化と違って、生物的個体化は、種・コロニー・社会という全体の存在を認める。生物的個体化は、物理的個体化のように無限に拡張可能ではない。物理的個体化には制限がないとすれば、物理的個体化と生物的個体化との間の移行がどこで起こるのかを探究しなくてはならない。生物的無制限性は、物理レベルにおける外部的拡張性においてではなく、種あるいは集団の内部に見出される。生物学で個体と呼ぶところのものは、実のところ、ある意味で、一個の個体というよりも、むしろ個体の下位区分に相当する。生物学においては、個体性概念は、いくつもの異なった位階に適用される。あるいは、継起的な異なった包摂レベルに応じて適用される。しかし、類比的には、物理的個体を一つの生物的社会として考えなくてはならないだろう。そのとき、物理的個体は、たとえきわめて単純なものであるとはいえ、一つの全体性の像をそれだけで有している。
上の段落の最後に見られる、物理的個体を一つの生物的社会として考えるという主張は、この文脈では、いささか唐突であり、同段落内の直前の主張と矛盾しているようにも見える。
しかし、まさにこのような双方向的類比的思考にシモンドン哲学の特徴がある。まず、物理的個体化から生物的個体化への移行という方向で個体化を考察し、後者の前者に対する差異を、個体が属する全体性の有無に帰しておきながら、その全体性を認めうるかぎりにおいて、物理的個体を生物的個体化の観点から見直すという思考の方向の逆転がここで実行されている。
存在を個体化の重層的・往還的グラデーションとして捉えるシモンドンの思考方法の特徴がここによく現れていると思う。
以下は、昨日読んだ冒頭の段落の次の段落の意訳である。
個体性の水準の多様性という問題にいくらかでも明瞭な解決策をもたらすためには、個体化の諸水準を計測する尺度を規定するのが望ましいことは言うまでもない。しかし、個体性の程度は、たとえ同じ種内であっても、環境によって可変的であるから、その個体性を絶対的に計測することは困難である。このような条件下では、個体化がその中で実行される現実のタイプを規定することが必要になってくる。つまり、生命としての統一性を内包したシステム全体の中で有機的組織化の程度が一定であるとき、個体化がどのような動的体制と交換可能状態にあるかを言えなくてはならないということである。そうすることができれば、個体性の程度を計測することができるようになるであろう。
上記のような方法的要請に従うとき、有機的組織化の諸システムにおける統合の研究が有効になってくる。有機的組織化は、個々の生物内において、あるいは、異なった諸存在間の有機的関係によって、実行されうる。後者の場合、内的統合は、一個の生物内で、外的統合によって二重化されている。つまり、その生物個体は集団に統合される。
唯一の具体的現実は、生命としての統一性である。その統一性は、ある場合には、ただ一生物に還元されうるが、別のある場合には、多数の生物からなり、それら個々とははっきりと識別されうる集団という形を取る。
シモンドンの個体化論をここまで読んできながら、個体とは何かという問いに個体の一般的定義を与えるという仕方で答えるということはこれまでしなかった。それは、そもそもそのような答え方ができないからである。何か最小あるいは最大の実体的個体が常に同一性を保って存在するわけではなく、個体認識はその基準に拠って可変的である。むしろ、多様な動的個体化過程の重層性と異層間の関係・交流の全体として存在を把握することがシモンドンの個体化論の目的であると言うべきだろう。
物理的個体、生命的個体、心理的個体、社会的個体という順番で個体化過程が論じられていることは、一方では、より単純なモデルから複雑なモデルへという個体化の階梯を示してはいる。しかし、他方では、そのような順番で個体化過程を考察していくことで、それらの異なった階梯が単純に下層から上層へと積み重なっているのではなく、それら階梯間の相互作用、相互内属性・相互通底性が明らかにされていく。より複雑で全体的な個体化過程の把握の仕方が確定することではじめて、その過程に属する下位の個体化過程が規定可能になる。つまり、個体化過程の全体に〈類-種-個〉という固定的なカテゴリーを適用することはできない。
ILFIの第二部第一章第一節は、生命体の個体化研究の諸原理を主題としている。その冒頭に、個体性の異なった複数の水準をどう規定するのかという問題が提起され、それに対するシモンドンの解決案が示されている。その冒頭から、同じ文脈の中で « individuation » と « information » との関係が定式化されるところまで、今日から何回かに分けて読んでいく。
まず、冒頭の段落における問題提起を見てみよう。
生理学は、個体性を規定する水準の多様性という困難な問題を提起する。種によって、そしてある一個体の生存過程の段階によって個体性の規定は異なる。同じ生物個体であっても、様々に異なった水準において存在しうる。例えば、胚は、成体と同じレベルで個体化されてはいない。他方、近接している複数の種の中に、種によって個体化の程度が異なる生命に対応する行動を観察することができる。しかも、この個体化の程度の差異は、有機体としての組織の複雑さの程度には必ずしも対応しない。つまり、組成の単純な生物個体はその個体化の程度も低いとは限らないし、高度に複雑化した組織を有する生命個体はその個体化の程度も高いとは限らない。
今日からILFIの第二部「生命体の個体化」(« L’individuation des êtres vivants »)を読み始めるが、テキストを引用しながらの本文に密着した読解に先立って、第二部の鍵概念について差し当たりの見通しを立てておこう。
第二部は二つの章から成り、それぞれの章がさらに二節に分かれ、それぞれの節は二項から五項に分けられている。章・節・項のいずれにもタイトルが付けられているが、二つの章のタイトルは、それぞれ « Information et ontogénèse : l’individuation vitale » « Individuation et information » となっており、「個体化」(« individuation »)と「形成」(« information ») とが中心概念であることがわかる。前者は、同著全体の主題であるのだから、それが章節の見出しにもしばしば現われることには何の不思議もないし、後者もまた同書のタイトルに含まれている語であるから、それに重要な意味が与えられていることは容易に想像がつく。
シモンドンにおける « information » 概念は、« individuation » 概念との関係でそれがどのような意味で使われているのか理解することではじめて、そのシモンドン固有の意味を捉えることができる。しかし、この概念の多義性さらにはその曖昧さがシモンドンの哲学の理解を困難なものにしているという批判もあることを念頭に置いてテキストを読んでいく必要がある。
他にももちろん重要な論点が第二部に含まれていることは言うまでもないが、今回の連載では、生命レベルにおける « information » 概念と « individuation » 概念との関係に特に留意して読んでいくことにする。
昨日丸一日と今日の午前中、コルマールの或るリセの一教室を試験会場としたバカロレアの日本語口頭試問があり、試験官としての責務を果たしてきた。昨年に続いて二度目である。
通常、バカロレアの試験官および採点官は高校教師の仕事なのだが、アルザス地方の高校には正規の日本語教師が一人しかおらず、その教師が普段教えている生徒たちの試験官あるいは採点官になることは規則上できないので、大学教師に手助けを求めてくるのである。当初は、五月上旬に試験日が設定されていて、大学のポストの審査員長としての仕事と重なってしまい、断ったのだが、試験日をずらすから引き受けてくれとストラスブールのアカデミーから懇願され、二週間ずらしてもらって引き受けた。
受験者一人あたりの試問時間は三十分。各受験者は、最初の十分間で、試問開始時に与えられたテーマと資料について発表を準備する。続いて十分間の発表。そして試験官との質疑応答が十分。受験者の能力が不十分な場合は、話が続かず、三十分もかからないこともある。
与えられるテーマは、「進歩」「交流」「伝承」「権力」のいずれかで、受験生たちは、この四つのテーマについて、少なくともこの半年余り、高校の授業で、あるいは通信教育などによって、様々な資料を基に学習した上で口頭試問に臨む。試験官である私がその場でこの四つのテーマのうちの一つを選び、受験生に日本語の資料を手渡す。
受験生たちの多くは、日本語を第三外国語として選択している生徒たちなので、高校の三年間、授業としては週三時間日本語を学習しているだけである。日本語学習に熱意のある子たちは、もちろん授業外でも自主的に勉強している。
昨年は、二十数名の受験者の中に、内容の優れた発表ができ、高いコミュニケーション能力をもった子たちが何人かいて、とても感心したのだが、今年は、それに比べるとやや低調であった。それでも、全部で二十四名の受験者のうち、なかなかいい発表をし、こちらの質問に落ち着いて的確に答えてくれた生徒が三人いた。それ以外に一人、母親が日本人という男子生徒がいた。日本の普通の高校生の水準を遥かに抜く見事な日本語で、「進歩」というテーマについて内容的にもよく考えられた発表をしてくれた。ストラスブール政治学院に進学するという。将来有望と見た。
他方では、見ていて可哀想になるくらい緊張してしまい、普段の調子が出せない子もいる。そういう子たちには、少しでも緊張が解けるようにと、ごく簡単な質問をいくつかして、調子を取り戻せるように配慮する。
試問の終わりに、すべての受験生に対して同じ質問をする。卒業後の進路を聞く。これは彼らが必ず想定している質問なので、大抵は流暢に、しばしば目を輝かせながら答えてくれる。ほとんど例外なく大学進学を目指しているが、分野は多様で、それを聞くのが楽しい。今年の受験者の志望分野を列挙すると、数学、医学、生物学、動物学、政治学、法学、地理学、フランス語教育など。日本学を専攻するつもりと答えた学生は、わずかに二名。一人はパリに行くという。ストラスブールの日本学科に登録するつもりと答えたのは一人だけ。
経済が停滞し、社会が活気を失い、他者への憎悪が絶えず燻り、爛熟の果てに文化的に退廃しつつある今のフランスのような国に生きる十八歳前後の彼らが素直に未来に対して希望を抱くことは難しい。それは普段教えている学生たちを見ていてもよくわかる。同情しさえする。
それだからこそ、これからの遼遠なる彼らの人生航路の門出に幸あれと願わずにはいられない。
先週土曜日は、パリのイナルコでの日本哲学研究会に参加した。
朝、そろそろストラスブール中央駅に路面電車で向かおうと、ネットで時刻表を確認しようとしたら、「該当する電車はありません」との表示。嫌な予感がして、少し早め目に家を出て、自宅から最寄りの駅まで行くと、案の定、「本日ストライキのため、電車運行時間が大幅に乱れている」との電光掲示。いつ次の電車が来るかわからない。TGVの出発時間までまだ一時間以上ある。ストラスブール中央駅まで歩いて歩けないことはない。すぐに意を決して線路沿いに歩いて駅に向かう。途中停車駅の脇を通過するたびに電光掲示板を見て次の電車がいつ来るか確認するが、待っていて時間通り来る保証はない。
四十分くらい歩いて、市の中心街の停車駅 Homme de fer まで来たところで、ちょうど中央駅を通るA線が来たのでそれに乗る。結果としては、TGV出発二十分以上前に駅に着くことができた。でも、背中は汗びっしょり。
研究会前に予定されていた発表者二人と私も含めた研究会責任者三人との昼食時間までに少し時間があったので、ノートルダム寺院の周りを少し歩いて写真を撮る。初夏の汗ばむような陽気だったので観光客も多かった。フランス語以外の言語を話している人たちが圧倒的多数であった。
二つの発表は、それぞれ道元の「思量不思量」と大森荘蔵の『物と心』について。前者の発表者は、この二月に、道元とストア派の比較研究で博士号を取得したばかりのルーマニア出身のオルレアンのリセの哲学教師。後者のそれは、ブリュクセル自由大学で大森荘蔵についての博士論文を準備しているベルギー人学生。来年(あるいは再来年)に予定されている彼の博士論文の審査には私も審査員として参加する予定になっている。どちらも発表内容が面白く、発表後の質疑応答も活発で、いい会になったと思う。
会後、他の三人の出席者とイナルコのすぐ脇のカフェで一時間ほど歓談。
最終のTGVでストラスブールに戻る。ストラスブールの路面電車については、ストライキによるダイヤの乱れは午後六時には収束すると今朝電光表示があったから、まあ夜は平常ダイヤに戻っているのだろうと思いつつ、一応TGVの車中からスマートフォンで時刻表をチェックすると、午後九時半以降が空欄になっていて、何度検索をかけても同じ結果。これはその時間以降もう路面電車はないということである。通常は午前零時半が最終電車なのだが。やれやれ、駅から自宅まで一時間近くかけて徒歩で帰らなくてはならないのか。一瞬タクシーにしようかと思ったが、ストライキのせいでこっちが余計に払わされるのは業腹だし、よく晴れて穏やかな宵の風が吹いているから、散歩のつもりで歩いて帰ることにする。下に貼った写真は、その帰りに道に歩きながら撮ったストラスブール市内の月下の風景である。
今日から三日間、連載「ジルベール・シモンドンを読む」をお休みする。小休止である。今日は、先週木曜日のことを少し記す。
先週十九日木曜日に、学科の新ポストの最終面接審査があった。
前日深夜になって外部審査員のうちリヨンから来る予定だった二名がSNCFのストライキのために来られなさそうなことがわかり、審査当日の朝、その二人には一応リヨンのTGV始発駅まで行ってもらったが、結局審査に間に合う電車はなく、欠席ということになった。
このような場合、「外部審査員の数は、内部審査員の数と同数あるいはそれより多くなければならない」というフランス全大学に共通のルールにしたがって、内部審査員を減らさなくてはならない。こういう事態は珍しいことではないのだが、誰に外れてもらうのかというデリケートな問題がある。今回の場合、全十二名の審査員の中、日本学関係が九名、その他が三名であった。その三名は、一人がギリシア言語学者で、日本学科の教員もそこに属する研究グループの最高責任者、一人がイギリス文学研究者、一人がイタリア文学研究者であった。ポストのプロフィールに鑑みて、後二者に外れてもらうことにする。他の審査員と合議の上、当人にこういうことをお願いするのも審査員長の仕事の一つである。
結果として、八名の審査員で面接することになる。かくして面接は予定の時間通りに始まった。
面接に残ったのは、二十二名の応募者中書類審査を通過した五名。一人一人面接する。面接は、まず候補者による十五分のプレゼンテーション、引き続き審査員からの質問が十分から十五分。最後に審査委員長である私からすべての候補者に同じ質問を二つする。それらの中身については書けないが、今年は「豊作」ということもあり、いずれの候補者も十分な仕方で審査員たちの質問に答えてくれた。今回初めて面接に臨む候補者たちの緊張は手に取るようにわかるが、それ自体は当然のことであり、それが否定的な評価をもたらすことはない。
審査の経過および結果についてもここに書くことはできないが、結論として一言だけ言えば、学科の将来にとって最良の結果になったとだけは言えるかと思う。
審査が全部終了し、候補者の順位付けが投票によって確定して、審査委員会の仕事は終了である。パリ、ボルドー、トゥールーズにそれぞれ帰る外部審査員たちに丁重にお礼を述べた後、私を含め学科の三人の審査員は、すぐに今後の段取りについて打ち合わせる。
その日の夜、第一位にランクされた候補者に結果を知らせ、今後のスケジュールについて打ち合わせる。厳密には、審査委員会の順位付けは、大学評議員会の承認を経てはじめて、正式決定となるのだが、事実上は委員会の結果が正式決定にそのまま反映されるのが普通である。
翌朝、審査結果を所定の報告書に記入し、その他の必要書類と合せて人事課に提出。これで審査員長としての仕事はすべて終了。大学からの帰り道、晴れ渡った空を見上げ、ほっと安堵の息を吐く。
今日は、ILFI第一部「物理的個体化」の最後の段落を読む。まず原文を引用する。
On comprendrait ainsi pourquoi ces catégories d’individus de plus en plus complexes, mais aussi de plus en plus inachevés, de moins en moins stables et autosuffisants, ont besoin, comme milieu associé, des couches d’individus plus achevés et plus stables. Les vivants ont besoin pour vivre des individus physico-chimiques ; les animaux ont besoin des végétaux, qui sont pour eux, au sens propre du terme, la Nature, comme, pour les végétaux, les composés chimiques (p. 152-153).
昨日まで読んできた第一部最後の箇所からだけでも、以上のように結論づけるシモンドンの議論の道筋はおおよそ理解できる。
あるカテゴリーに属する個体群は、それらがより複雑になればなるほど、その意味でより高度な存在になればなるほど、しかし、他方では、より未完成なものとなり、それだけ安定性を欠き、自己充足性が乏しくもなる。それゆえ、それらの個体群が結びつけられた環境として、より完成度が高く、より安定した個体群の層を必要とする。
生物は、生息するために物理化学的諸個体を必要とし、動物たちは植物たちを必要とする。植物たちにとって化合物がそうであるように、植物たちは、動物たちにとって、語の本来の意味において、〈自然〉である。
こうシモンドンは第一部を締め括っている。そこで見逃すわけにはいかないのは、« la Nature »(〈自然〉)と特に大文字にしていることである。単に生存の条件として与えられたものが〈自然〉なのではない。個体がそこにおいて生まれ、形を与えられ、その構造が複雑化すればするほど、それに伴い機能が高度化すればするほど、その個体は己がそこから生まれてきた環境に依存する存在となる。この依存関係は、しかし、単なる一方的な従属関係ではなく、異なった個体カテゴリー間の情報交換の現場であり、動的な相互性である。この意味で、〈自然〉は、異なった大きさの次元に属する個体群間の絶えざる情報生成と流通の〈場〉そのものだと言うことができるだろう。
〈自然〉は、己の内に不定形なものとして無尽蔵に含まれている潜在性に、高次化する個体化過程を通じて、ある一定の仕方で限定された種々の構造と機能を与え、その結果として形成された互いに異なる個体群間に多様な相互媒介性を生成し続ける過程そのものだとシモンドンは言いたいのではないか、というのが私のさしあたりの解釈である。