「今後着物はどうなりますか?」
「どうなりますかではなく どうしたいですか?」
と聞き返している
物事は自分がしたいようになっていく、だからいつも前向きに考えたらいいと思う
着物が次から次へと扉を開けて日本の本当の文化をチャ子ちゃん先生に見せてくれて50年余になる
そしてまだ扉はいくつもあるようでその扉の先に全部入ることが出来るのかどうかは私自身が知りたいと思うかどうかにかかっていると思う。知りたいと思うから扉が開く
この50年の着物との生活の中で、日本文化のすべてを見せてくれたのは「茶道」であった
茶道は日本の衣食住、そして礼儀作法、自然との付き合い方、命の尊さ、愛の深さのすべてを教えてくれる
しかもこのとき着物を着て学ばないとそのすべての神髄はわからない
チャ子ちゃん先生は中学生のころから茶道に親しんだ、が着物を着るのが嫌でそしてあの甘いお菓子が苦手でじっと座っているのも嫌で、特に濃茶は吐き気をもよおし、お香の香りを辛気臭いと感じ、作法をめんどくさいと思い、だんだん足が遠のいたどころか、その月謝を着服してピアノレッスンに当てていた(ばれたけど)
それから何十年かたち着物を着るようになったとき「茶道を身に付けないと立ち居振る舞いがあかんな」とにわかに思い立ち茶道教師の姉に出張してもらってまた一からやり直し、今度は10年非常にまじめに励んだ。取材でいろんな茶道の先生方のお茶会を撮影させていただいたり、茶席の着物という特集を組んだり、寺の茶会に伺ったり、茶道から離れずに姉に連れられて様々な茶会に参列した
ここ30年はお稽古もやめているが、茶道にはすべてが含まれていてその空間に座っているだけで本来の自分に戻れる快感がある。ある意味瞑想と同じような効果もあるとみる
この大変革が始まってこの先のことを考えすべてをシンプルにしたいと思う人が多くなると思う
その時「座って丹田に聞く」という時間が必要になってくる。その時着物であった方がより丹田に気が行く
そういう日本人である限り着物は常に必要であろう
しかしその着物は「技術」だけを競うものではなくなると思う
より手のこんだ技術を見せて高額な着物を作るより、着る人が創意工夫できるシンプルなものが生き残る
模様で競う、技術で競うそういうことではもう人は着物は着ない、その代わり内面を磨きたくなるだからこそ茶道
単純でわかりやすいものほど美しい