母の日っていつから始まったのだろう
母の日に山崎あきら(転換できない)さんが黒豆と夜叉で染めた着物をプレゼントしたらとても喜んでくれた、仕立ては姑に頼んだ(姑には前年渡した)
二人の母に着物を贈れるということの凄さをわかっていなかった
今思うと「できないよ、当時は稼いでいたんだなあ」と感心する
照れがあって、わざわざありがとうなんて言えなかったので、まとめて有難うがきものだった
しかし送ったことすら忘れ、母がこの世をさったあと、母のタンスの中に、しつけもとらぬまま鬱金の風呂敷に丁寧にくるんでしまってあり、しかもその中に私がだした手紙まで封を切ったあとそのまま添えてあった
「なんできなかったのかしら?」
「よほど嬉しかったのよね、みんなに見せてたもの、ヒサちゃんが、着物の仕事を始めて、こんなに良いものを送ってくれたのよ、て言ってたよ」と姉が言う
「ちょっと地味だったのかなあ」
「そんなことないわ、ほらこの帯合わせようとしたのよ」と取り出したのはこれもかなり後に母の日に送った鬱金で染めた無地の帯だった
母とは天敵みたいに反発ばかりしていたので、母の日にしれっと花など送ることもできなかった、素直でない
でも今、このコロナ騒ぎの中で、母の戦後のたくましさと、家族を思いやる愛の深さに想いを馳せると母の偉大さに胸が詰まる。大変な日々を実に明るく賑やかに過ごしていたーその胸の奥を知ろうともしないで、反抗ばかりしていたのだなあと、深く頭を下げるしかない
最後にあったのは、母の入院先の病院だった。お見舞いをして玄関まで元気に歩いて送ってきて
「さよならまたくるね」と言いながら振り向くと、いつものように満面の笑みで
「ヒサちゃん着物似合うね」
と言う言葉が最後の母の声だった