で、モフセン・マフマルバフ監督の『独裁者と小さな孫』を観に行った。
栄華を極める「ある国」。そこは独裁者の大統領が圧政を敷く国だった。
ある日、その栄華が銃声とともに破られ、大統領とその孫は一転、憎悪の対象となった。
新たに政権を握った者たちにより懸賞金がかけられ、誰もが「敵」となる中、彼らは市民から服などを奪い、変装して逃亡を続ける。
その逃亡の旅の途中で、大統領…祖父と孫は、彼らの為政による犠牲に直視させられる。幼い孫にもそれは伝わっていたのだろうが、その犠牲を強いた本人である祖父の目には、復讐の火種としてだけでない複雑なものとして映っていたようだった。
次々と訪れるピンチにハラハラさせられる逃避行に、東西冷戦下の攻防を描いたヒッチコック作品が重なった。けれども、ヒッチコック作品に見られる痛快さはなく、凄惨さや無常さを感じさせるエピソードが続く。
現実が急激に変化するのに対し戸惑う孫に対し、祖父は「これは芝居だ」という。その展開に『ライフ・イズ・ビューティフル』を思い出した。けれども、強制収容所でも笑顔を持てた少年とは違い、幼い孫は常に戸惑い続けていた。
圧政を敷いた「悪」とされ大統領の座を追われた老人に対し、その圧政に対し蜂起した者たちは「正義」だとして振る舞う。また、圧制により苦しめられた者たちは、自らの悪行を正当化する。
マフマルバフ監督は、「悪」とされる独裁者だけでなく、彼らを倒し「正義」を自称する者たちにも鋭く視線を向ける。そして、その視線は観客である僕にも向けられているような気がした。
逃避行の途中、ある事件が起きる。牙をむく者に対し周りにいる誰も声を上げることができない。犠牲になった人が「誰も助けてくれなかったじゃないか」と叫ぶ声が僕の心に突き刺さった。特にこのシーンとラストシーンには、マフマルバフ監督の想いが強く込められていたように感じた。
「正義」の名のもとに暴力に及ぶというのは、枚挙に暇がない。それは、世界各地で起きる紛争のほとんどに当てはまるだろう。そして、そのシーンを観ていてふと、昨年起きた2020東京オリンピックエンブレム問題を思い出した。「パクリ疑惑」や「デザインが良くない」という思いから、僕もTwitterで当事者に対する思いを書いた。でも、その中には当事者を罵る汚い言葉もあった。当事者家族に対する脅迫などは論外だけど、僕の放った言葉の一部も「正義」を纏った暴力に違いなかった。
昨年の夏、僕らの前に突然、政府から「安保法制」という戦争参加を可能にする流れが提示された。いや、振り返ってみるとその流れは政権交代以降着実に既成事実を積み重ねられてのものだった。少なくともその間、僕は流れに抗する行動をしてこなかった。
いつかまたこの国に戦争による犠牲者が出てしまった時、「しっかり反対してくれなかったじゃないか」という声なき声が聞こえてくることを想像しながら、この映画を観たことをきっかけにまた「民主主義ってなんだ」と考えてみよう。