平成28年9月11日(日)、下関市長府の功山寺を訪ねる。1864年(元治元年)、長州藩は、危機に直面していた。「蛤御門の変(禁門の変)」で薩摩・会津に敗れ、幕府から「長州征討」の大軍。英・仏・米・蘭の4ヶ国連合艦隊による下関攻撃。そのような中、「幕府への恭順もやむなし」とする「俗論派」が藩政を掌握した。このとき、高杉晋作が敢然と、幕府恭順派の藩政府打倒を目指して、決起した場所である。
『世に棲む日日』(司馬遼太郎)には、次のように書かれている。「高杉は、何処から引出したか緋縅(ひおどし)の小具足を着け、桃なりの兜の緒を首にひっかけて背中に負い、頭はザンギリであった」。「功山寺の石段は、雪におおわれている。登りきると、大きな二層の桜門がある。それをくぐると、さらに石段がある」。三条実美ら5卿を前に、「馬の前脚が上がったとき、ふりかえりざま、『今から長州男子の胆っ玉をお目にかけます』と、いった」。