ほぼ是好日。

日々是好日、とまではいかないけれど、
今日もぼちぼちいきまひょか。
何かいいことあるかなあ。

勇気あるペシミスト

2007-02-06 | 読むこと。

      『銀のいす』
   ナルニア国ものがたり 4
     C.S.ルイス 作


ナルニアもいよいよ第4巻まできました。
この『銀のいす』は、おもしろいと聞いていたので、とても気になっていた巻です。
「泥足にがえもん」って誰?どんなキャラクター?と、わくわく

そして。
期待を裏切られることはありませんでした。おもしろかった~!もう、すっかり「泥足にがえもん」ファンになっちゃいました 
「泥足にがえもん」って、不思議なネーミングですよね。原作ではどうなんだろうと調べてみると、“Puddleglum”でした。“puddle”は水たまりとか泥だらけになるという意味で、“glum”はふさぎこんだという意味。なんとなく、泥くさくて陰気そうな感じ。それが「泥足にがえもん」となるわけか。う~ん、納得。

彼はナルニアの沼人で、手足が長く、緑色の髪に泥のような顔色をしています。先のとがった帽子をかぶっていて、挿絵で見た魚を釣ってる後姿は、どことなくスナフキンのように見えなくもありません。あくまで「後姿」ですが。
性格はきまじめで、慎重で、ペシミスト。でも、おもしろいことに、ペシミストのくせして、見込みのないリリアン王子(カスピアンの息子)を捜す旅に喜んでついて行くのです。そしていつも最悪の事態ばかり考えている彼が、地下人に囚われて地下の世界へ連れて行かれるとき、希望を失ったジルに向かって、自分たちはアスランの教えに従った正しい道に戻っている、と励まします。

魔女につかまって、みんなが魔女のまどわしの魔法で、ナルニアも、地上の世界も、空も太陽もなく、アスランもいないのだと思い込まされたときも、最後の力をふりしぼって魔法のもとになっていた暖炉の火を自分の足で踏み消したのです!

そしてこう言います。
・・・心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ。・・・夢中で一つの遊びごとにふけっている四人の赤んぼは、あなたのほんとうの世界なんかをうちまかして、うつろなものにしてしまうような、頭の中の楽しい世界を、こしらえあげることができるのですとも。そこが、あたしの、その楽しい世界にしがみついてはなれない理由ですよ。・・・たとえいまみちびいてくれるアスランという方が存在しなくても、それでもあたしは、アスランを信じますとも。
なんと勇気があり、信念に満ちた言葉でしょう。
そして、なんと頼りになる泥足にがえもん



すっかり泥足にがえもんのことばかり書いてしまいましたが、この巻は次から次から困難がふりかかり、それを乗り越えていくユースチスとジルのことが描かれています。
そもそもこのふたりがナルニアの扉を開けてしまったのも、いじめっ子から逃れるためでした(イギリスの学校制度のことはよく知りませんが、教育制度が変わったのか、この作品で作者は男女共学の「まぜこぜ学校」と批判をしています)。
いじめから逃れて違う世界へ、という発想は、ファンタジーだけでなく現代にも通じるものがあって、ちょっと心がズキンとしました。ユースチスとジルには、ちゃんとナルニアへの扉が開いてくれて、冒険への旅が始まるわけですが・・・。

そのナルニアではカスピアン王が年老い、息子のリリアン王子は行方不明になっています。そのリリアン王子を捜す任務をふたりはアスランから与えられるのでした。
捜す手立てとしてアスランは四つのしるべをジルに教えるのですが、その三つまで仕損じてしまい、巨人に食べられそうになったり、地下人に捕らえられ地下の国に連れて行かれたり、といろんな危機に直面します。また何度も誘惑にふらふらとしていまい、そのたびに泥足にがえもんは正しい道を示そうとします。このあたり、キリスト教の影響が大きいと言われるのかもしれません。

さて、タイトルにもなっている「銀のいす」とは何だったのでしょう。
このいすは、物語の中でもひとつの場面に出てくるだけです。魔女の魔法にかかって地下の世界にいるリリアン王子。その彼が唯一正気に戻るとき、彼はそれが呪いだと思い込まされ、自らそのいすに縛り付けられるのです。
いすに縛られ正気に戻ったリリアン王子は、自分は魔女の呪いにかかっている、このひもをほどいて自由にしてくれるよう3人にたのみます。正気でないときのリリアン王子しか知らない3人は、どっちが本当なのか迷いますが、リリアンの口から「アスラン」の名を聞いて、これが四つめのしるべかもしれない、もし違ってて死を招くことになってもしるべに従わないではいられない、と決断します。そして自由の身になったリリアン王子は、真っ先に銀のいすを剣で叩き切ったのでした。

少し調べてみると、銀のいすとは原罪である、みたいなことが書いてありましたが、私はキリスト教徒ではないのでそのあたりのことはわかりません。ただ、この巻を読んで感じたのは、誘惑についふらふらしてしまう人間の心の弱さでした。いつも誘惑に負けて、正しい道を見失ってしまうユースチスとジル。けれど最後の最後で、ふたりはアスランのしるべに従い正しい判断をすることができたのです。銀のいすとは、アダムとイブの時代から誘惑に負けてしまう人間の弱さ、なのかもしれません。

ナルニアの物語にはあちこちにキリストの教義が含まれているようですが、そういうことを考えなくても、物語として充分楽しむことができます。それに、ユースチスと泣き虫だったジルが、ひとまわり大きく成長してこの世界にもどってきて、いじめっ子たちもいなくなって、単純に「めでたし、めでたし」でもいいですよね。
この本を読んで、多くの子どもたちが勇気を持って生きて欲しい、と切に願います。目に見えなくても、ナルニアの扉は必ず開いてくれるのだから・・・。






コメント (2)
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