ほぼ是好日。

日々是好日、とまではいかないけれど、
今日もぼちぼちいきまひょか。
何かいいことあるかなあ。

ダ・ヴィンチ・コード

2007-06-13 | 観ること。



週末に「DVDのレンタルが88円!」ということで、おとーさんがわんさか借りてきました。
こんなにたくさん、一体いつ観るの~!?と言いつつ、眠い目をこすりながら観てしまった「ダ・ヴィンチ・コード」。

小説を読んで、これは映画にぴったり、と期待していたのですが、ラングドン教授をトム・ハンクスがすると聞いてがっかり。
だって、私のイメージじゃなかったんですぅ
前評判もあまりよさそうではなかったので、迷ったあげく観に行くのをやめたのでした。

でもDVDで観てみると、あのややこしいストーリーをうまくまとめていたし、トム・ハンクスも慣れると意外に違和感なく見れました。
ただ小説を読まずに観ると、ちょっとわかりにくいだろうなあと思います。

そもそも私たち日本人が、キリスト教の複雑な宗派とか教義のことを理解するには無理があるんじゃないかなあ。
いろいろ物議をかもしだしたように、この映画(小説)では、簡単に言うとキリストには妻子がいて、その子孫が今も存在する、という話になっています。
私たちはそういう仮説があるということだけで、単純に「へえ~、へえ~、へえ~」と驚くばかり。

しかし、これがキリスト教の信者や教会ともなれば、黙ってはおれないでしょうね。
自分たちの信じていたものが、根底から覆されるわけですから。

この映画を観て感じたのは、人間の狂気というもの。
信じるもののためには殺人をも犯す。
殺したあとで自ら鞭打ちながら神に贖罪を求め、それで許されるのでしょうか。
それでも神(司祭?)を信じきっていたシラスは哀れでした。

神を信じる=絶対的な他者に身を委ねる、という生き方は、ある意味ラクなことなのかもしれません。
自分で人生のすべてを背負うのは、それはしんどいことですから。

でも、神以外目に入らなくなったとき、人は狂気に陥るのでしょうか。
神は拠りどころにはなっても、自分の頭で考えることをやめてしまってはいけない。
問題になってる新興宗教にしても、他者に全てを預けてしまったときに、不幸は始まるのだと思います。

まあ、信じる神を持たない私がえらそうに言えたことではありませんが。

お正月には初詣に行き、クリスマスを祝い、死んだら寺の世話になる、という日本人のゆる~い宗教観というものが、最近私はきらいではありません。
宗教の違いで戦争すら起きることを思えば、この「いいかげんさ」は先人の知恵だったのかもしれませんね。


ところでこのDVD、何の予備知識もなしに観たのです。
だからサー・リーが登場したとき、あれ?

たまたま通りすがり(?)の長女に、

「ほら、ほら、ダンブルドア!」
「・・・?」
「ほら、観て!ダンブルドア!」

すると長女が遠慮がちに

「・・・お母さん、それってガンダルフの間違い?」
「・・・(絶句)・・・

まあ、魔法使いには間違いないか・・・

コメント (6)
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