東京ステーションギャラリーで「ベトナム近代絵画展」を観た。時間つぶしのつもりで入ったのだが、思いがけず素晴らしい作品群に巡り会うことができた。
ベトナム戦争を舞台にした映画や報道映像を観ると、兵士たちが戦闘をしている傍らで悠然と農作業をしている農民の姿を目にすることがある。第二次大戦、インドシナ戦争、ベトナム戦争、中越戦争と、絶え間ない戦火のなかで暮らす人々にとっては戦闘も日常風景の一部と化しているのかもしれない。それにしても、心安らぐ時のないなかで創作活動が営まれ、しかも、それらに陰惨な影が感じられないのが不思議だった。
どの作品も力強く、優雅ですらある。漆絵や絹絵という手法の所為かもしれないが、描かれている人々は優しそうで、お茶を飲みながら静かに話をしたいような相手に見える。なかには従軍している最中に、新聞紙に描いた作品や、戦争のプロパガンダらしい作品もある。それすらも、ほのぼのと感じられるのは何故だろう。
恐らく、戦争のなかで生まれ育ち、戦闘が特別なことではないという所為もあろう。しかし、いつか自分たちで理想の国をつくろう、というような希望が人々の意識の根底に流れていたのではないだろうか。明るい未来を信じる意志の力が、物質的に不自由な生活のなかで絵筆を手にしたり、描かれた作品を眺めたりする余裕を生んだのではないだろうか。
もちろん、希望だけで生きることはできない。ベトナム戦争後、ボートピープルと呼ばれる大量の難民を生んだことは事実である。ベトナムがかかわった戦争の全てが正義の戦いというわけでもないだろう。
それでも、その作品に力強さ、明るさを与えているのは、自らの正義と希望を信じる心だと思うのである。
ベトナム戦争を舞台にした映画や報道映像を観ると、兵士たちが戦闘をしている傍らで悠然と農作業をしている農民の姿を目にすることがある。第二次大戦、インドシナ戦争、ベトナム戦争、中越戦争と、絶え間ない戦火のなかで暮らす人々にとっては戦闘も日常風景の一部と化しているのかもしれない。それにしても、心安らぐ時のないなかで創作活動が営まれ、しかも、それらに陰惨な影が感じられないのが不思議だった。
どの作品も力強く、優雅ですらある。漆絵や絹絵という手法の所為かもしれないが、描かれている人々は優しそうで、お茶を飲みながら静かに話をしたいような相手に見える。なかには従軍している最中に、新聞紙に描いた作品や、戦争のプロパガンダらしい作品もある。それすらも、ほのぼのと感じられるのは何故だろう。
恐らく、戦争のなかで生まれ育ち、戦闘が特別なことではないという所為もあろう。しかし、いつか自分たちで理想の国をつくろう、というような希望が人々の意識の根底に流れていたのではないだろうか。明るい未来を信じる意志の力が、物質的に不自由な生活のなかで絵筆を手にしたり、描かれた作品を眺めたりする余裕を生んだのではないだろうか。
もちろん、希望だけで生きることはできない。ベトナム戦争後、ボートピープルと呼ばれる大量の難民を生んだことは事実である。ベトナムがかかわった戦争の全てが正義の戦いというわけでもないだろう。
それでも、その作品に力強さ、明るさを与えているのは、自らの正義と希望を信じる心だと思うのである。