自分が子供の頃、正月は日本中がファミリーイベントであるように思えた。少なくとも三ヶ日は、商店も含めて日本中の人々がそれぞれの家庭に籠る日のような感があった。年末はそのための食糧備蓄を行う時期であり、単なる保存食ではなく、正月というハレの場を演出する華を仕込む時期であったと思う。そのために、人々は街へ繰り出し、人混みをものともせず、買い物に勤しんだのだろう。買い物という行為も、ハレの準備も、なんとなく心躍るものであったと思う。年末の人混みは、殺気立ったところがなく、心地よい興奮に満ちていた。
今も正月は国民的なイベントであることに変わりはない。しかし、正月でも営業している商店は珍しくもなく、家庭に籠らない人々も多いだろう。少なくとも年末に正月のための保存食を調達する必要性は無いといえる。それでも年末の繁華街はごった返している。
正月に家族が集うので準備が必要な人は当然いるだろう。年末に正月のための買い物をするということが習慣になっている人もいるだろう。正月は「おせち料理」を食べるものと頑に信じている人もいるだろう。しかし、本当に必要があって必要な分量の買い物をしているひとばかりなのだろうか? 本当は孤独なのに「年末年始は忙しい私」を演じているだけの人の少なくないような気がする。
時間は連続している。今日と似たような明日があると信じて生きている人が殆どであろう。時間は連続しているが、その経過につれて物事が変化していることに思い至る人がどれほどいるのだろう。明日は今日と似ているかもしれないが同じではないのである。そうした変化を受け容れることができず、昨日も今日も明日も変わらないつもりでいる自分の思い込みを周囲に押し付けている人は存外多いのではないだろうか。物事をあるがままに受け容れることは容易なことではないが、合理的に物事を理解しようとする姿勢を持たないと、世間の理屈から隔絶されたところに取り残されてしまう。自分の幻想に拘泥すれば、他人から疎まれ、人は容易に孤独になる。
これから春が来て、夏になる。そして、冷蔵庫を開くと朽ち果てた正月の食材が眠っている。そんな風景は案外よく見られるのかもしれない。
今も正月は国民的なイベントであることに変わりはない。しかし、正月でも営業している商店は珍しくもなく、家庭に籠らない人々も多いだろう。少なくとも年末に正月のための保存食を調達する必要性は無いといえる。それでも年末の繁華街はごった返している。
正月に家族が集うので準備が必要な人は当然いるだろう。年末に正月のための買い物をするということが習慣になっている人もいるだろう。正月は「おせち料理」を食べるものと頑に信じている人もいるだろう。しかし、本当に必要があって必要な分量の買い物をしているひとばかりなのだろうか? 本当は孤独なのに「年末年始は忙しい私」を演じているだけの人の少なくないような気がする。
時間は連続している。今日と似たような明日があると信じて生きている人が殆どであろう。時間は連続しているが、その経過につれて物事が変化していることに思い至る人がどれほどいるのだろう。明日は今日と似ているかもしれないが同じではないのである。そうした変化を受け容れることができず、昨日も今日も明日も変わらないつもりでいる自分の思い込みを周囲に押し付けている人は存外多いのではないだろうか。物事をあるがままに受け容れることは容易なことではないが、合理的に物事を理解しようとする姿勢を持たないと、世間の理屈から隔絶されたところに取り残されてしまう。自分の幻想に拘泥すれば、他人から疎まれ、人は容易に孤独になる。
これから春が来て、夏になる。そして、冷蔵庫を開くと朽ち果てた正月の食材が眠っている。そんな風景は案外よく見られるのかもしれない。