何日か前、電車の窓から外を眺めていて、妻が「地震雲だ」と空をさした。層状の雲が夕暮れの赤みかかった空に広がっていた。今日、夕飯を食べようと蒲田の商店街を歩いていたら地面が揺れているのを感じた。外を歩いていて感じるのだからかなりの規模だろうと思った。揺れを感じたのが、ちょうど韓国料理屋の前だったので、これも縁だと思ってそこに入った。席について料理を注文して一段落してから携帯電話を見ると小笠原のあたりの深いところを震源とする地震で、都内は震度4くらいだったとのこと。震度4なら鉄道はすべて一旦止まってしまう。このところ火山の噴火だの地震だのと日本列島は大揺れだ。
常々不思議に思っているのだが、世間ではコスト削減とやらでさまざまなことが自動化省人化されている。背景には情報通信技術の進歩があって、なんでも遠隔で操作できるようになっている。また、電子機器は小型化を超えて微細化が進み、人間の眼では見えないところで動作する機器類ばかりになっている。このブログを書いているパソコンが典型的な例で、キーボードを打ったとき、それがどのようなメカニズムで文字を表現するのか、見た目では全くわからない。要するになんだかよくわからないけれど動作するもので生活が成り立っているのである。
昔はたぶん違っていた。例えば、鉄道の運転手というのは、ドライバーが1本あれば多少の故障は自分で直すことができたそうだ。今は、不具合が発生しても自分ではどうすることもできないようなことが殆どだという。東京大空襲のときでも、山手線は爆撃を受けた箇所に応急処置を施しながら運転をしたのだそうだ。8月6日に原爆が落ちた広島の路面電車は8月9日には運転再開にこぎつけた路線があったそうだ。あれから70年。今、同じことが起こったとして、同じように運転を続けたり再開したりすることができるだろうか?広島銀行は8月8日に比較的被害が軽かった日銀広島支店の一画を借りて営業を再開したそうだ。今、そんなことができるだろうか?そんなことが可能だったのは、機械は人間の手で直すことができる程度に仕組みが見えたからであり、銀行員の記憶が客を識別できたからであろう。人間の感覚を超えて複雑化した機構や仕組みは、それを稼働させる動力源を喪失したらただのゴミである。
なんだか知らないが、自動化だの省力化だのが世のため人のためになっていると盲目的に信じている人ばかりのような気がしている。自分の創意工夫のなかで物事が容易になるというのはよいのだが、自分の理解を超えたもので結果だけを与えられる生活というのはなんだか居心地が悪い。天災の報道を見聞きしたり、こうして大きな地震に遭ったりするたびに、そんな居心地の悪さを改めて思う。