熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「鰍沢」

2015年11月15日 | Weblog

三題噺というものがある。三つの題を出し、それらを盛り込んで噺を作るのだそうだ。余興なのだが、それでも三題噺から生まれた古典落語もある。「鰍沢」は三遊亭円朝が篠野採菊、瀬川如皐、仮名垣魯文、河竹黙阿弥ら酔狂連の三題噺の会で作ったものだそうだ。お題は「小室山の御封、玉子酒、熊の膏薬」。その続編の「鰍沢」は「花火、後家、峠茶屋」で黙阿弥が作ったといわれている。「鰍沢」のほうは、その後、円朝の弟子である4代目橘屋円喬が磨きをかけ、古典として定着。さらに6代目円生、彦六、10代目馬生、9代目扇橋なども演者として知られている。2006年のドキュメンタリー映画「小三治」では小三治が「鰍沢」を口演するところでエンディングになっている。

「鰍沢」は、怖いといえば怖いが、怪談というわけではない。愉快な噺でもない。それなのに何故か聴き入ってしまう不思議な噺である。おそらく、噺家の力量が問われる噺なのだろう。尤も、殆どの落語は噺自体が面白いわけではない。或る物語があって、それを構成する要素の個性を操作することで笑いや涙を誘うのが噺であり噺家というものである。人は経験を超えて発想することはできないので、物語の構成要素の脚色は噺家の人生経験とそこから導き出された世界観に裏打ちされることになる。当たり前に物事を眺めていては人を惹きつけるような噺を語ることはできないし、世情や人情にそぐわない噺では聴く人を不愉快にしてしまう。世間の常識をわきまえた上で、微妙にその常識を飛び越えて見せなければ「おもしろい」とは思われないのである。つまり、噺家の仕事とは、そういう万人を惹きつける世界観を身につけることであって、噺をすることは積み上げてきた仕事を披露することだと思う。噺それ自体はなんでもよいのである。だから、落語を文字で起こしたものを読んでも、おもしろくもなんともないのは当然かもしれない。

ということは、噺を聴くということは噺家が披露する世界観を理解し楽しむということになる。もちろん、理解というのは人それぞれのことだ。その人なりの人生経験によって培われた教養と知性と感性に応じて噺が咀嚼されることになる。口演する側とそれを聴く側の世界観、教養、知性、感性が重なり合うところに芸が成り立つのである。落語に限らず芸事を鑑賞する楽しみというのは、自分の世界観と折り合う世界観を持った他人を発見する安心であり、自分が決して孤立した存在ではないことを確認する安堵でもある。笑いも涙も安心や安堵のないところには生まれない。なんていうようなことを考えるのもまた楽しいことである。

本日の演目

入船亭辰のこ「子ほめ」
柳家喬太郎「鰍沢(前段) 祭囃子・猫・吾妻橋」
入船亭扇辰「鰍沢」
柳家小満ん「鰍沢2」
余談会 鰍沢あれこれ

開演 14:00     終演 16:45

会場 イイノホール

観客全員に小満ん師匠から小室山妙法寺の消毒符を頂戴した。
小満ん師匠、ありがとうございます。