昨年に引き続き、ボジョレーヌーボーの解禁を口実に御宿に住まう妻の友人宅を訪ねた。我々夫婦も訪問先の御夫婦もそれなりに齢を重ねているのでこの先いつまでこの集まりが続くのか頼りない気もするのだが、だからこそ限りある機会を大事にしようという気にもなる。今年は妻の故郷から二人合流した。ホスト役のご夫婦が美味しいご馳走とワインと地元産の無花果をたくさん用意してくれて、夜遅くまで楽しいおしゃべりに興じた。
この集まりは、妻の故郷で行われている私設図書館の活動が縁になっている。土地の人たちが手弁当で施設や労力を提供しあって主に子供向けの図書を集めて公開している。時に読み聞かせの会などの催しもあり、地元の子供たちやその親御さんたちに重宝されているそうだ。東京のような大都市ではちょっと考えにくいようなことが、そこそこの規模の社会だと機能するということが興味深い。もちろん、そこには関係者の努力があるのだが、やはり互いを認識するのに適正な社会の規模というものがあるということも組織の活動には重要な要素ではないかと思う。
自治体が発行している広報誌には毎月月初時点の住民基本台帳に基づく人口が記載されている。私たち夫婦が暮らしているところは、月次では多少の増減があるものの、基調としては微増傾向にある。東京とその周辺はどこも似たようなものだろう。しかし、妻の故郷の町は減少に歯止めがかからず、公共交通機関はダイヤ改正の度に減便されている。かつて賑わっていた地元の商店街はもはや「街」と呼ぶことのできるような状況ではなくなってしまった。
物事には適正な規模というものがある。例えば食卓を囲んでおしゃべりを楽しむのに4~6人というのはちょうど良いと思う。チームスポーツの人員もそれぞれの競技に適した人数であろうし、会社組織にしても事業内容や事業規模に応じた社員数であるはずだ。近年、景気変動や人口構成の変化、テクノロジーの変容などで物事の適正規模、殊にコストに関わる部分の変数が新たな着地を探るかのように変化を続けているように見える。世間一般の話としてよく耳にするのは人が減って仕事の負荷が大きくなったとか、公共施設や店舗で応対する人が少なくなって何か聞きたいことがあるときに適当な相手が見つからないというようなことだ。
何事かを成そうとする際、テクノロジーを駆使して生身の人間と接触することなく必要な情報を集めることができる社会になった。事の成否や巧拙は別にして、ネットで検索をすれば料理のレシピから人生相談まで、一応の道筋を得られるのが今の社会だ。人は「わかった」と思うとそこから先に思考を進めるということをしなくなる。社会は人間関係で構成されているにもかかわらず、生身の人間に接することなく社会を生きているつもりになることができる。生身の相手を知らないままに文字情報の遣り取りだけで相手をわかったつもりになることができる。経験したことがないようなことも、わかったような気になることができる。世の中は皮相な理屈だけではどうにも理解のしようのできないことが満ち溢れているにもかかわらず、見ず識らずの権威を信じて理解できたつもりになることもできる。経験の裏打ちがない言葉や理屈が我が物顔に飛び交うのが今の社会であるような気がする。
そうなると物事のサイズ感が麻痺してくるのではないだろうか。自分の身の回りの関係を律する価値観とそれを取り巻く社会のそれとは必ずしも相似形ではないという当たり前の現実があり、そこに妥協や対立の止揚といった知恵を働かせることが生きるということだと思うのだが、そういう知恵が欠如したままに自分だけの世界が全てであるとしか認識できない人たちが跋扈するようになっているのではないだろうか。そういう人たちは、自分の理屈が思うように通用しないことに苛立ちや不満や不安を覚えながら生きているのではないだろうか。要するに不幸な人たちなのではないだろうか。
自分自身も友人知人の家を訪ねるというような機会がすっかり少なくなっていることが気になっている。今日のようにそういう機会に恵まれてみて、改めて普段の生活のなかで接点のない人たちと食事を共にしながら語らう時間の厚みのようなものを感じるのである。