熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2016年1月

2016年02月01日 | Weblog

よく読書日記というものを目にするが、私は「日記」というものをつけることができるほどたくさんの本は読まないので月記とする。世間の読書日記は読んだ本の感想とか書評のようなものが多い印象だが、私はそういうものを書く才もなければ、そういうものが面白いとも思わないので、読んだ本を起点にして思いついたことと、何故その本の読んだのかという覚書を記そうと思う。先月読んだ本は以下の通り。

1 小島政二郎 『円朝(上下)』 河出文庫

昨年夏に圓朝祭とか圓朝コレクション展だとかにでかけたのを機に、圓朝関連の本も数冊買った。これはそのひとつで、圓朝の伝記のようなもの。いわゆる名人だとか達人というような人の仕事への異様な打ち込み様なものを見聞すると圧倒されてしまい、自分の何もなさ加減がいかに幸福なものかと安堵する。それでも落語は積み重ねた人生経験が芸の糧になるだろうから、自分の信じた世界をじっくりと探求できる余裕があるように思うのだが、スポーツや身体を使う芸事となると体力との相談ということもあるので無闇に時間をかけるわけにはいかない。だからどのような競技や芸であれ、プロと呼ばれる人たちに対しては無条件に尊敬してしまう。何を尊敬するかというと、若くしてその世界に浸りこむという決断をしたことだ。

いつ死んでも不思議ではない年齢まで生きてみて思うのは、人はいかに決断しないで生きているかということだ。当たり前のように過去、現在、未来と相似形で連続すると思っている。そもそも明日があるかどうかすらわからないことなのに、今日とそれほど変わらない明日、そのさらに明日、また明日と続くことを前提にした仕組みのなかに身を置いて、それを当然のこととしている。それが不思議でしょうがない。

以下、本の備忘録。

モデルがその人のものになると言うことは、容易なことではない。結局、作者というものは、自分しか表現できないということだ。(上巻 338頁)

今日のお前の高座は、今日只今高座に上がるまでのお前の生活の総決算に外ならない。どんなにお前がジタバタしても、お前はお前の生活した以外のものを表現することは出来ないのだ。(上巻 339頁)

話が終わったとたんに来る拍手なんか、ありゃ拍手ではない。客の挨拶に過ぎない。(上巻 347頁)

芸術家は自分の生活を大事にしなければならない。生活がすべてのの芸術の母胎だ。生活を大事にするということは、まず妥協をしないこと。ウソをつかないこと。(上巻 359頁)

落語という家の中に、父や祖父の古物を残して置いてはならない。自分の身に付いたものを捨てるばかりでなしに、そういうものまで、捨てて掛からなければならないのだ。その代わり、一方では、自分自身のものを生み出し、作り出すことを忘れてはならない。(上巻 416頁)

禅は個性を尊ぶ。個性に則して悟ったのでなければ、意味をなさぬ。個性に則して悟る邪魔になるから書いて置かないのだそうだ。(下巻 23頁)

修行に限らず、なんでも骨を折った場合、人は何かいい報いを期待する。(略)ところが、禅の場合は、坐禅をしても、托鉢に出ても、その効果を期待しないのだ。(下巻 27頁)

「迷ふといふは、いかやうなることでござるぞとなれば、わが身のひいきのござるによつて迷ひまする」(下巻 301頁)

自分を否定して否定して否定し尽くしたところに残るものは、なにもなかった。無だ、虚無だ。人間、粘土の器。すべて空なり。いずれも皆、風の道のごとくならざるはなし。「だから、どうだと言うのだ?」どうと言うことはないのだ。それでいいのだ。そこに腰を据えていればそれでいいのだ。(下巻 308頁)

すぐれた人間の仕事ーすること、言ふこと、書くこと、なんでもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。自分にも同じものがどこかにある、それを目ざまされる。精神がひきしまる。かうしてはゐられないと思ふ。仕事に対する意志を自身はつきり(あるひは漠然とでもいい)感ずる。この快感は特別なものだ。いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも、本当にいいものは必ずさういう作用を人に起す。(下巻 314頁)

 

2 桂米朝(編) 『四世 桂米團治 寄席随筆』 岩波書店

落語が好きなので、好きな噺家が書いたものがあれば読んでみる。昨年、米朝が亡くなった後、たまたま書店で「ユリイカ」が米朝の特集を組んでいるのを見つけて買って帰り、米朝に関するところを一気に読んだ。一気に読んだので内容が殆ど頭に残っていなかったのだが、米朝の師匠である四代目桂米團治の書いたものを米朝が編纂して岩波から出したということが妙に気になり、アマゾンで購入した。

以下、備忘録。

真の落語は、落語家自身が具に世の辛酸を嘗めた自己の体験によって、適宜に題材を消化して語るべきものである。(84頁)

米一升が四十円ないし五十円、砂糖一斤百円というのが現在の相場である。これは闇取り引きの値段だから本当の価ではないというのは当たらない。公定価格など政略の都合上無理に定めた嘘の相場だ。だから公定の価格では一物も買えないのは当然である。政府は闇取り引きを罪悪なりとして非常にやかましくいい、かなり重い罰を課したりするが一向改まらない。改まらないのが当然である。これが本当の相場なんだから。いったいこの物資の欠乏した世の中にむやみに紙幣を発行すれば、金と物資とのバランスが取れなくなって、物価の高くなるのは知れきった話ではないか。己れがその因を作っておきながら、その結果を責めるとは何という愚かな事だろう。軍当局といえどもこのくらいの理屈は解っていないはずはない。それでも軍需品生産を急ぐのあまり、やむをえずこの手段を取ったというのなれば、それは無茶というものだ。あまり元手の掛からぬ不換紙幣で欲ばった工業家の面を張れば、なるほど一時の急場には間に合わせ得るかもしれないが、遂には現在の如く紙幣の氾濫に伴う物価暴騰を来しかえって生産力を著しく阻害する。国民は物資不足の上に悪性インフレのために二重の苦しみを味わわなければならぬ。戦時だから多少無理な政事もいたし方がないという事は絶対にない。戦時なればこそかかる暴政は断じて許されざるものとするのが、至当である。昭和二十年五月三日 (169-170頁)

位階勲等などという子ども欺しはもういい加減に廃止されても良さそうに思う。国または人類に対する奉公の行為に等級などあり得るべきではない。勲一等功一級はそれで良いとして、二等二級以下は名誉の表彰なのか、侮蔑なのか解らない。昭和二十年五月三十日 (171頁)

昭和二十年八月十五日、好戦国日本遂に亡ぶ。
国民としては悲涙を禁じ得ないが、大きく人類の幸福という観点より見れば、確かに慶賀すべき事態である。これが逆に日本の勝利に帰していたなればされでだに専横極まりなき軍閥にますます勢力が加わり、内は国民を奴隷化し、外はいよいよ侵略的野望を露呈して世界の平和を撹乱するであろうことは思うだに戦慄ものである。
それにしてもこの降伏のあまりに晩きに失したため、国民に与えた損害の、必要よりはるかに超えた大きさであった事は、遺憾極まる。
軍事には全然門外漢である自分等ごときにさえ、この終結の見通しは大略ついていたのであるから、専門家たる軍人に解らなかったはずはない。原子爆弾は武器としても比を見ざる威力を発揮したが、さらに日本軍閥をして降伏の止むなきに至った事を、国民に得心させる好口実を提供した事に大いに役立った。この新兵器の出現はなくとも日本に勝算は全然なかったはずである。軍閥は国民に対して何かの口実を得るため、あるいは国民がさらにさらに疲れ切り厭戦気分が満ち満ちてくるまで待って、それを口実として降伏し、責の大半を国民に転嫁しようと謀っていたとも取れる。
良鉄は釘に適せずとは、能くも喝破したるもの哉。
軍人というものは誠に卑劣なものである事を、今度こそまざまざと見せつけられた。昭和二十年九月八日 (173頁)

落語は永遠に未完成である。自分の枝が一尺進めば、前方を見る視力が二尺強くなる。だから己れが上達すればするほど落語の難しさが解ってくる。そこで終点に達しようとする望みは捨てなければならぬ。果てなき途を歩み続ける、これが活きた芸である。歩みを止めた瞬間にその芸は死物と化してしまう。目的を達せんがために歩んでいるのでなく、歩む事自体が目的なのである。(200頁)

 

3 赤瀬川原平 『超芸術トマソン』 ちくま文庫

この本の存在は以前から知っていたが、国立近代美術館の売店でたまたま手にとって、思わず買ってしまった。どうしてこんなに面白い本を今まで読まなかったのだろうと不思議になるほど愉快な内容だった。表紙の写真についての記載もあるが、読んでいて小便をちびりそうになった。