落語の「舟徳」の舞台である四万六千日。妻が是非お参りをしてみたいというので出かけてきた。
今日は参議院選挙の投票日である。まずは投票に出かける。投票の後、投票所近くのバス停に寄ってバスの時間を見てみる。すぐに来るようならバスに乗って小田急の駅に出て、浅草に行く前に根津・上野に寄って東博で中宮寺と韓国の半跏思惟像を拝もうということになった。バスの時間を見ていたら背後からバスがやってきた。駅に着くとちょうど千代田線直通の急行が入線。根津に着き、地上に上がったあたりで、バスに乗ってからちょうど1時間くらいだ。今日は調子が良い。
昼時だったので、上野方面に歩き出してすぐに目に付いた蕎麦屋に入る。店先で電動石臼がそば粉を挽いている店だ。ふたりでセイロを1枚ずつと天婦羅の盛り合わせを頼む。都内ではどこでもちょっとした蕎麦屋は客が多いものだが、ここも例外ではなく私たちの次の客で満席となった。店を出て静かな住宅街を歩く。このあたりには古い建物がポツポツと残っていて、そういうもののなかにはカフェやギャラリーになっているものもある。立派な屋敷門のある家の前にカフェの看板が出ていた。門も傍の通用口も閉ざされていて「御用の方は呼び鈴を押してください」との貼り紙がある。門を押してみると開かない。通用口には何故かノブがふたつあって、どちらを回してみても開かない。しかしカフェの看板には「Welcome」とある。こういう店は楽しい。いつか自分が家を建てることになったとしたら、ノブを10個くらい付けてみようと思う。ドアと思わせておいて、実は引き戸になっている、なんていうのがいいかなと思う。なかには一般に公開されているなんでもない民家もある。そこの屋敷門は開放されていたので、玄関先まで入ってみる。こじんまりとしているけれど決して狭苦しくはなく、今日のような暑い日でも庭の木々の緑が日除けになって良い風情だ。住宅街を抜けると寺がある。護國院大黒天だ。大黒天ならお参りしないわけにはいくまい、ということで門をくぐると左手に能舞台がある。なかなか立派な寺だ。開運招福お守入というおみくじを引いてみた。妻のほうには恵比寿様、私のほうには達磨様の小さなお守りが入っていた。通りを挟んで寺の向かいに傘のディスプレイがある。妻が見たいというので、その店に入ってみる。店は地下にあるが地下と建物の入り口との間が大きな吹き抜けの空間になっている。群言堂という本店が石見銀山のほうにあるところの支店だそうだ。雑貨や衣類が上品に展示されている感じの良い店だ。申し訳ないが今回は冷やかしで失礼した。妻は買ってもいいかなと思うブラウスがひとつあったという。衣類は婦人物ばかりだった。
ようやく東博を目前にして芸大美術館に「びわ湖・長浜のホトケたち」という看板が出ている。寄ってみようかということで、中に入る。3階の展示室に長浜のホトケ様が並び、地下では平櫛田中コレクション展が開催されている。どちらも拝見してきた。長浜のホトケ様は、拝まれていたというよりも愛されていたのではないかと思う。長浜というところには行ったこともないし、ましてやそこのホトケ様の縁起など知る由もない。ただなんとなくそんなふうに思わせるホトケ様なのである。そこに暮らしている人たちと共にあったというような風情を感じる。昔のムラの社会というのは、今の感覚からすれば堅苦しい決まりごとがいくらもあって、それはそれで不自由や不満に感じることもあっただろうとは思う。先日、バングラディシュのダッカというところでカフェが襲われ、コーランを暗唱できないからといって殺された人たちがいたそうだ。こうなると宗教というよりは狂気だ。コーランがどれほどの分量のものか知らないが、それを暗記しないと命が危ないというのでは私のようなぼんやりとした人間は生きていけない。そこへいくとホトケ様というのは気楽でよい。外のものに脅迫されてどうこうということはなく、ただ手を合わせて自分の内から湧き上がるものに誘われるように自然に頭がさがる。なにがどうというのではなしに、なんとなくありがたいなと思える。歴史を紐解けば、ムスリムだろうが仏教だろうがキリスト教だろうが血なまぐさいことはいくらもあっただろうが、今こうして私の目の前にあるホトケ様たちにはそういう類の血なまぐささは微塵も感じられない。ありがたいことだ。
あっちに引っかかり、こっちに引っかかりしながらようやく今日の目的地のひとつである東京国立博物館に到着する。今回は半跏思惟像を拝むだけ。博物館の入り口では混雑しているという注意をさんざん聞かされたが、展示最終日の昼下がりという割には予想していたほどではなかった。中宮寺の仏様のほうは昨年10月に現地で拝んでいるが、こうして少し見上げるような具合にして拝見すると、お寺で拝んだときよりもお顔が初々しく感じられる。韓国のほうはさすがに大陸の影響を色濃く感じる。陸続きでガンダーラの片鱗を感じないこともない。顔が大きく笑顔がはっきりしているところに親しさを覚える。足の指が長いのに驚く。比較するべきものではないのは承知しているが、どちらの半跏思惟像も長浜のホトケ様とはレベルが違う。常設の仏様も拝んでみるが、こちらも同様だ。長浜に限らず、日本のあちこちにそれぞれの土地の人々によって作られたホトケ様があったはずだ。それぞれの土地の生活の中から生まれたホトケ様だ。それに対し、中央の権力に近いところから民衆を圧倒させるが如くに選りすぐりの材と仏師によって作られた仏様もあっただろう。どちらがどうということではなしに、無邪気に「仏」とひとくくりにはできない気がする。高名な僧侶が作らせた、名人と言われた仏師が彫った、国宝だ、重文だ、という立派な仏様もありがたいとは思うのだが、好きか嫌いかということなら、私は長浜のホトケ様のようなもののほうが好きだ。
上野から地下鉄銀座線で浅草に出る。浅草に来るのは年に数えるほどしかないのだが、四万六千日だろうがなかろうが、週末はいつも同じくらいの賑わいのような気がする。四万六千日といえば「舟徳」だ。噺のなかでは柳橋あたりの神田川沿いにある舟宿から浅草寺に近い桟橋を目指すのだが、こうして暑い中を歩いていると舟に揺られてお参りしてみたいと思う。
今日も寺を訪れたり美術館や博物館で仏像を拝んできたが、齢を重ねた所為なのか、自然に神仏を拝むことが増えた気がする。若い頃には考えられなかったことだが、今は自分の家のなかにお札があったりする。始終仏様を拝みたいと思って、骨董市などで探しているのだが、慢性的に懐不如意ということもあって、なかなかご縁に恵まれない。それでも、日常の何気ないところでピピッと出会うかもしれないと期待はしている。できることなら、落語の「井戸の茶碗」に出てくるような腹篭りの仏様に出会いたいものだ。