熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2016年7月

2016年07月31日 | Weblog

1 モンテーニュ(著) 原二郎(訳)『エセー』 4 岩波文庫

ようやく後半に入った。ここまでくると面白いとかつまらないとか、そういうことはどうでもいいのである。読み通すことに意義がある、と思うよりほかにどうしようもない。

 

2 岸上伸啓 『クジラとともに生きる アラスカ先住民の現在』 臨川書店

みんぱくフィールドワーク選書の第3巻。

岸上先生にはみんぱく体験セミナー「鯨と人のくらしを考える」(2012年7月14-15日)でお世話になった。そこで日本の捕鯨の歴史とか室戸岬という土地のことなどを初めて知ってたいへん印象深いセミナーだった。そのセミナーのことはこのブログでも2012年7月14日付の「ほんとうのことは誰も知らない」と翌7月15日付の「わっ、くじらだぁっ!ほげぇ!!」に書いた。

そのセミナーのときに、ひょっとしたら伺っていて単純に記憶から漏れていただけかもしれないが、本書でアラスカの先住民が捕鯨を商業目的とは異質の目的で行っていることを初めて知った。もちろん、かつては鯨の髭が高値で売買されるなどしていたので、捕鯨によるまとまった現金収入があり、それが先住民の生活を支える時代もあったらしい。しかし、そもそもは食糧源であり、捕鯨やそれに続く鯨肉類の分配を通じて共同体秩序の確認と維持にも資すること大であったそうだ。今は捕鯨に対して喧しく言われる時代となり、鯨を売買することができなくなっている。つまり、捕鯨それ自体からは収益が得られないのである。にもかかわらず、アラスカ先住民は昔ながらに捕鯨をしている。日本の古式捕鯨同様に、現在のアラスカ先住民捕鯨も捕鯨集団による捕鯨を行っている。集団の構成員を統率するリーダーは自腹で捕鯨に必要な道具類を揃え、配下のハンターの面倒を見ている。鯨から収入が得られないのに、捕鯨が継続しているのである。そのあたりの事情は本書にあるので、ここでは触れない。

よく、金で買えないものはない、という。確かにそうかもしれない。今もメディアに頻繁に登場する有名な起業家もそう言っていた。が、残念なことに彼の場合は金が少し足りなかったらしく、前科者になってしまった。尤も、彼の部下だった人のなかに那覇市内のカプセルホテルで「自殺」した人もいるので、今も元気に識者としてメディアで活躍できているのは、やはり金がものを言っているのかもしれない。那覇で「自殺」した人は失血死なのだが、死体が発見されたとき、内臓が引っ張り出されていたという話を聞いたこともある。ただの証取法違反事件とは思えないスケールの大きさを感じる。金で買えないものはないといいながらも、あの事件はちょっとやそっとの金額でどうこうなる類のものではなかったのだろう。

好むと好まざるとに関わらず、世間ではあらゆるものが金銭に換算されて表示される。例えば裁判制度においても、刑事事件ならば懲役という罰則もあるが、罰金、科料、過料、損害賠償など殆どの案件は金で決着することになっている。地獄の沙汰も金次第なのである。しかし、我々の日常はほんとうに金銭に換算できるのものなのだろうか?

 

3 印東道子 『南太平洋のサンゴ島を掘る 女性考古学者の謎解き』 臨川書店

6月11日に本書と同タイトルの印東先生の講演を聴講した。本書に登場するミクロネシアのファイス島はサンゴ島で、地層においては黒い層と白い層があり、黒く見えるのは炭化物で農耕などの人間活動の痕跡なのだそうだ。白い大地を人間が黒くする、というのが単なる物理的なことを超えて何事かを象徴しているように思えて面白い。ファイス島では、子供ができると、その子が泳げるようになるまで、次の子を作らないのだそうだ。この話も、家族のあり方とか生きるということについての考え方についての示唆を与えてくれる。なんとなく世界全体の緊張が高まっているかのような印象があるのだが、身の回りの風景はケータイやゲームを手に緊張感のかけらも感じられない輩に溢れている。つくづくお目出度い国に暮らすことができて、ありがたいことだと思う。

ところで本書のことだが、ミクロネシアの島の生活の歴史が示唆することの重さを思った。人がどこから来てどこへ向かうのか、というのはいろいろな意味でしばしば問われることだが、文字通りに地理的物理的にどのように移動するのか、何を求めて移動するのか、ということは単に生活物資だけが動機になっていることではないような気がする。例えばミクロネシアの島々のなかに「サウェイ」と呼ばれる交易関係があり、それは物資の交換だけでなく互助関係でもあったというのである。その起源はまだ明らかではないそうだが、現代の変化が興味深い。少し本書から引用する。

「現代では、台風被害が大きいことがわかると、直ちにアメリカのFEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)から食料や建築資材などの救援物資が届けられる。これまでは、吹き飛ばされた屋根はココヤシの葉を編んだ屋根材ですぐに葺き直していたが、FEMAからは雨漏りも少なく、何年も使えるトタンや合板が届く。ファイスにトタン屋根が増え、ヤシの葉で屋根を葺いた家が少なくなっている背景にはこのような事情がある。確かにトタン屋根には、雨水を集めてドラム缶に溜められるという利点はあるが、風で飛ばされたりさびて穴があいたりしたら、ココヤシの葉では補修がきかないし、トタンを購入するには貨幣が必要である。」(144頁)

つまり物理的な充足には貨幣経済、その背景に広がる所謂「グローバル社会」に組み込まれることが手っ取り早い方法である。しかし、ひとたびそういうものに取り込まれるとそれまで存在した不安定ながらも自立したシステムは機能しなくなるのである。そして、生活に必要なあらゆる物資と行為が貨幣価値という単一の尺度によって計られることになる。

ここで素朴に疑問に思うのは、人間の生活を全て貨幣価値に置き換えるというのは可能なのだろうか、ということだ。可能も不可能も現実にそうなっている、と言われてしまえば返す言葉はない。しかし、そこに表示されている「価値」と自分の実感は常に一致しているのか、とやはり素朴に疑問に思うのである。あくまで個人的な印象だが、そもそも自分の実感というものが無い人のほうが多い気がする。つまり、貨幣経済というのは物事を「実感」するような「個人」の存在を想定していないのではないか。「グローバル」に機能する経済という「システム」は感じたり考えたりするものではなく、ある条件に対しある種の法則に従って反応するだけの存在を「主体」として成り立つようにできているのではないか。例えば「ポケモンGO」が流行すれば、それがインストールされた端末を手に亡者の如く街を徘徊する輩が其処此処に出没する風景は、それが世界中至る所で見られるという点で「グローバル」なのである。確かに彼らは人間なのだが、システムを構成する要素でしかない。要素、つまりモノでしかないので、そこに緊張など生まれるはずはないのである。「グローバル社会」とか「グローバル経済」というのは、モノが溢れているという点においては確かに豊かな社会だ。ただ、モノを消費したり享受したりする主体のことは、システムの埒外に放置されたままのような気がする。