七十二候が作られたのはどこだろう? 東京では雪に覆われた正月というのは滅多にない。少なくとも自分には記憶がない。ここ数年、元旦は自分の実家で過ごし、あとの三が日は妻の実家で過ごすことが慣例になっている。妻の実家のほうは雪に覆われた正月ということもある。2015年がそうだった。新幹線に乗っている間は車窓の風景が雪景色であってもどこか他人事なのだが、在来線に乗り換えると途端に我が事になる。ホームも屋根のないところは雪に覆われているし、線路が雪に覆われレールだけがかろうじて顔を出している。こんなところを走って大丈夫なのだろうかと思うのだが、それが当たり前の風景となっているところでは、これくらいどうということはないらしい。少しの雪でも積もれば大騒ぎになる東京とは別世界だ。
その雪に覆われることもある妻の実家への手土産のなかに虎屋の御題羊羹と干支羊羹を入れた。
今年の歌会始のお題は「語」である。人の生活は誰かと語り合うことで成り立っている。今は独居の人が多くなり語る相手に恵まれないという反論もあるかもしれない。しかし、無人島のようなところで暮らしているなら話は別だが、社会のなかに居る限り、自分以外の誰かが手をかけたもののなかで暮らしているはずだ。言葉に出して語り合うことはなくても、何かしら他者との交渉はある。また、自分も意識するとしないとにかかわらず何かしら社会に対して働きかけているはずだ。そうでなければ生活の糧は得られない。そういう交渉も含めての「語」(かたる)だろう。
歌会始のお題にちなんで作られる虎屋の御題羊羹は「吉事の雪」(よごとのゆき)。『万葉集』の最終歌に想を得て作ったのだそうだ。
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
「三年の春正月一日に、因幡国の庁で国司郡司らに饗応した宴の歌一首 大伴家持」とある。歌だけ見れば、「正月と立春が重なり、雪が積もるように、吉事もつもれ」ということだが、このときの大伴家持の立場を考えると単なるおめでたい歌とも言えない。「三年」とは天平宝字三年(759年)のことである。これに先立つ天平宝字元年(757年)、橘奈良麻呂が孝謙天皇を背景に権勢をふるう藤原仲麻呂を倒そうとするが、密告により企てが露見して未遂に終わるという事件があった。大伴家持はこの事件には関わりがないとされたのだが、この事件を機にその地位が一層確かなものとなった藤原仲麻呂政権下では冷遇され、因幡守に左遷されたのである。この歌はその頃に詠まれたものだ。
冷遇された所為かどうか知らないが、その後、藤原仲麻呂暗殺計画に加わったり、天皇が代わって中央に返り咲いたり、いろいろあった後、最終的には中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍兼陸奥按察使持節征東将軍として生涯を閉じる。ところが、没後に藤原種継暗殺事件への関与が露見して官位剥奪を受け、その後恩赦で地位復活。今以上に政治はドロドロしていたらしい。
本人がそうした生涯をどのように受けとめていたのかは知る由もないが、歌人としては不動の地位を築いたのは確かである。死後1200年以上も経て、和歌になじみのない人にも羊羹を通じてその名が語られるのである。目出度いではないか。