初詣というのは、本来なら自分が氏子になっている神社に年の初めに詣でることを言うのだろう。生まれてからそれほど多く引越しをしたわけではなく、実家が今あるところは暮らし始めて既に40数年経過しているが、氏子だとか檀家だとかと言う類いの付き合いは全くない。しかし、この国の文化としてはそういう付き合いがあることを前提とした習俗が数多くある。そういうものの良し悪しはともかくとして、いわゆるコミュニティが崩壊している現状の背後にはそうした人間関係の崩壊があるのだろう。もともと存在した人間関係が崩壊したのは、農本制とでも呼ぶことができそうな社会の仕組みが崩れたからであり、その原因は生産性の向上で農業に従事しなくても食べていくことのできる余剰が生じ、且つ余剰を実際に持ち運ばなくても遣ったりとったりできる仕組み、端的には貨幣経済あるいは市場経済が整備されたことによる。現に、我々は生命維持の基本である食糧を直接生産することなく生活している。そればかりか、おそらく圧倒的大多数の人々は自分がどのような価値を生み出しているのか自覚していない。だからこそ、安易に給料や労働時間の多寡を語るのである。そういう時代の初詣は特定の関係に拘束されない浮遊感に満ちたものであってもおかしくはないだろう。
今年最初のお詣りは明治神宮だ。神社としては比較的新しく、祭神はその名が示すように明治天皇、神宮の杜は人工的に造成されたものである。天然だろうが人工だろうが長い時間が経過すれば同じようなものになってしまう。明治神宮の杜は、まだ天然には見えない。明治天皇あるいはその治世は既に十分過去ではあるけれど、その名残はまだ生々しい。そういう人工な感じや生な感じが消えるまでここが存在しているとすれば、人間の英知というものは大したものだ。神社に詣でて祈るのは、人間が大したものであってほしいということだ。
明治神宮前から目黒経由で白銀高輪に出てキフキフで食事をしてから家路に着く。キフキフに高知県黒潮町の黒砂糖をほんの少しお裾分けしてきたので、来週あたりはメニューに黒砂糖アイスクリームが載るかもしれない。ここのこの黒砂糖を使ったアイスクリームの旨さは大したものだ。