2014年の読書を締めくくったのはイレーヌ・ネミロフスキーの『フランス組曲』だった。この本を手にしたのは、映像翻訳を勉強していたときの仲間がFBに読了本として紹介しているのを見たからだ。翻訳教室での彼の訳文は個性的で、課題の発表のときはいつも彼の訳文を楽しみにしていた。結局、彼も私も映像翻訳とはあまり関係のない仕事を続けているのだが、彼の映画好きは相変わらずのようで、時々FBに映画や本の紹介をしている。『フランス組曲』は「ずっと読んでいたい作品」だと言っていた。
この作品は未完である。日本語訳で470ページほどだが、それでも全体の半分くらいのような気がする。全体が4章か5章で構成されるなかの前半2章だが、第1章の「六月の嵐」はともかくとして、第2章の「ドルチェ」はまだ作品の体をなしていない。つまり、未完どころか構想に毛の生えた程度の完成度でしかないのである。それにもかかわらず世界各国で翻訳され米国では100万部を超える売り上げを記録したのだそうだ。
それほど読まれたのは、この作品の出自が劇的だからであろう。イレーヌ・ネミロフスキーはキエフ生まれのユダヤ人で、ロシア革命後にフランスに移住して小説家として活躍していた。フランスは第二次大戦のときにドイツに占領される。ドイツ占領下でユダヤ人がどのような運命を辿ることになったか、多少の世界史の知識があれば想像がつくだろう。彼女は1942年、アウシュビッツで亡くなった。彼女がナチス配下のフランス官憲に連行される際、書きかけの小説原稿を鞄に収めて家族に託したのだそうだ。夫も彼女の逮捕の後に捕まり、その鞄は12歳と5歳の娘たちの手に「母親の大事なもの」として残されることになる。「大事なもの」の正体が明らかになったのは2004年のことだそうだ。まずはフランスで出版されて故人の作品としては初めてルノードー賞を受賞する。それからは各国語に翻訳され、日本語版も2012年に白水社から出版された。
作品の内容はドイツによる占領前夜のパリの様子、占領後の地方都市の生活、までで終わっている。登場するのはいくつかの家族で、それぞれの家族の物語が紡がれながら、それら家族が当事者たちの自覚がないままに相互に連関するのである。映画『グランド・ホテル』のような構成であり、占領後にドイツ軍から将校宿舎として使われる民家の住民たちの生活は映画『海の沈黙』を彷彿とさせるものだ。「六月の嵐」では、戦争あるいは敗戦によって生活が急変したとき、人々はどのようにしてその変化に対応するのか、もっと言えば、人はどこまで自分なのか、自分とは何者なのか、というようなことが鮮やかに描写されている。それは作家自身がそうした変化を経験しているからこそ、ここまで活写できるのであろう。「ドルチェ」では、フランスの片田舎に進駐したドイツ軍の兵士たちと地元の人々との間のぎこちない関係が描かれる。敵とは何者なのか、敵と味方とは何をもって分けられるのか、自他の区別とはどのようなものなのか、その自分とは何者なのか。
結局のところ、人はただ自分自身の気持ちにしたがって、まわりの世界を判断する。(393ページ)
人と人とを隔てたり結びつけたりするのは、言葉や法律、風習、主義主張ではなく、ナイフとフォークの使い方が同じかどうかだ。(409ページ)
私たちは口先では『神の意志がなされんことを』と繰り返しますが、心の底では『主よ、<私の>意志がなされんことを』と叫んでいるのです。(38ページ)
尤も、誰もが無様で醜いからこそ、生活は機能するのかもしれない。私利私欲貪欲こそが社会の原動力だ。作者が『フランス組曲』で描き出そうとした世界に、他ならぬ作者自身が囚われ抹殺されてしまったかのような現実と虚構の混じり合いが、読む者を魅了するのではないだろうか。文学作品それ自体が完成していたり完結していては、文学にはならないのかもしれない。読者が作品の世界と現実の世界との間を行き来できるような媒体が文学ではないのか。そうだとすれば、草稿に毛の生えた程度の完成度であることなど何の問題でもないのである。