和田誠『もう一度 倫敦巴里』ナナロク社
贅沢な本だ。立派な装丁に、そうでもない内容。つまり、丸ごと遊びなのである。売れるかどうか、おっかなびっくりセコセコ書いたり作ったりしているものが本に限らず世間に溢れかえっているが、そういうものでは世の中は良くならない。こういう本がもっとあっていいと思うが、こういうものを作ることのできる人たちというのは少ないのだろう。
柳田国男『不幸なる芸術・笑の本願』岩波文庫
柳田はいろいろな本を書いているものだ。本書が書かれたのは昭和20年。柳田は当時の社会で「笑いの衰頽」がおこっていると認識していたらしい。何を基準に「衰頽」していたと見ていたのか本書だけではわからないのだが、柳田が今の時代の笑いをみたら、たぶん「衰頽」どころではないと悲観するのではないだろうか。
そもそも笑い、あるいは笑うとはどういうことなのだろうか。
柳家小三治『どこからお話ししましょうか』岩波書店
特に新しいことが書いてあるわけではない。それがかえってよい。勇気づけられる思いがする。
自分はこれまで、どうしたら食っていけるかということを考えながら生きてきた気がする。自分の思うようにやってみて、食えなかったら食わなければいい、とは思いもしなかった。しかし、生まれようと生まれてきた人などいるはずもなく、唐突に生を与えられて「さあ、がんばれ」と言われているようなものが現実の生だろう。一体どうしろというのか、生まれた本人はもちろんのこと、産んだり産ませたりした側にしても確かな考えがあるわけでもない。世のしくみとしては、何事か世間の役に立つようなことをして、うまく折り合いをつけて生きていくことが期待されている。不思議なことに、誰もがその期待に応えることをよしとしている風である。そんな義理などあろうはずはないと思うのだが、そうなっているのは類としての生存戦略なのだろう。
どうしたら食っていけるかというのは、どうしたら世間で存在価値を認めてもらえるかというのと同じだろう。承認欲求があって、経済的価値という直接的評価軸があり、カネで欲求が釣られているのが現実に見える。食わなくていい、つまり、無理に生きなくていいと開き直ることができたら、どれほど生き易いだろうか。近頃そんなことを一層強く思うようになった。
南伸坊『私のイラストレーション史 1960-1980』亜紀書房
さんざん生きてしまってから、そしてもう先がないというところに来てようやく、生きるとは、というようなことを考えるようになった、気がする。名前が世間に認知されたり記憶されたりするような人は、その人に何か才能があるのは当然とした上で、自己顕示欲が並み以上に強いとか、先人に憧れる度合が大きいとか、エネルギーを発散する方向を一点に集中できる、というようなところがあるのではないかと思う。そういうエネルギーのベクトルが明確だから、それに沿うように人やモノとの出会いがあり、そこから化学反応のようなものが生じて様々な展開繰り広げられる。結果として、突出して世間の記憶の対象になる、ということだろう。
フツーは、様々な欲求があっても、様々に程々なので昇華しないのである。それが良いとか悪いとかいうことではなく、フツーとユーメイとの間には単にそういう差異があるというだけのことだ。自分があとどれくらい生きるのか知らないが、先が短いからこそ、もっとおもしろいことを追求することに精を出したほうが良いと思う。それこそ、食えるか食えないかということは二の次にして、自分の自然に素直でありたいと思うのである。
『伊丹十三選集 三 日々是十三』岩波書店
伊丹の本は2015年に新潮文庫に収められているものを何冊か読んでいるので、本書に掲載されている文章も読んだことのあるものが多いはずなのだが、けっこう新鮮な思いで読んだ。付箋を貼ったのは以下の箇所。
恐怖に根ざした注文は人を動かさない。(135頁)
いい大人が集まって「何でもない」仕事をするのはどう考えても普通じゃない。(139頁)
つまり、彼は仕事に参加していない。他人の仕事に、いやいや使われている。彼にとって、仕事は、自分の営みではないのである。どんな仕事も、やる以上は自分の仕事だ、と自分で思いこもうとする工夫すらない。自分の仕事じゃないからつまらない。つまらないから、疲れる。(144頁)
全員がプロであるとき、各各が安心してアマチュアにかえれる。(146頁)
つまりね、子供が親の性を知るということは、タテマエとしての親の権威の消滅を意味するわけでしょう。親子関係の根底に横たわる嘘がとっぱらわれ、親であるがゆえの権力というものが崩壊してしまうと、親は当然、一個の赤裸裸な人間として子供と向かい合う、という結果にならざるをえない。ひいては、大人対子供、教師対生徒、男対女の間に現存する、あらゆる上下関係や差別が消滅して、全く別の、人間対人間という、別次元の信頼関係を成り立たせざるをえなくなってくるじゃありませんか。(249頁)
性教育というというものは、だから、ただ性のインフォメーションを与えることに終始するものじゃないんですね。性教育というものは、結果的には、好むと好まざるとにかかわらず、徹底的な自由と平等を招来してしまう。権威や管理や差別から人間を解放してしまう。つまり、性教育は、実に、社会を根底から変えるような副次的な効果を持つのであり、いってみれば、先進国における静かな文化大革命なんですね。ただセックスを教えりゃいいっていうもんじゃぁない。(250-251頁)