熊本熊的日常

日常生活についての雑記

饒舌な日

2011年01月15日 | Weblog
今日は初釜。午前11時から午後4時まで席入りの稽古、炭手前の拝見、食事、濃茶、薄茶と続いた。濃茶は原則私語厳禁だが、他は和気藹々と楽しいひと時を過ごす。その後、一旦帰宅して荷物を持ち替えて、実家へ向かう。途中、十条で下車してFINDで作品展の搬入時間の確認を兼ねてコーヒーとケーキをいただく。たまたま他に客のいない時間だったので、コーヒーのことやあれやこれやと1時間ほど店の人達と話し込む。なんとなく会話に満ちた一日だった。

お茶で隣の席の人と会話をしていて深く同感したのだが、その方曰く、
「私たちは生活のなかで手を省くことばかり考えるけど、お茶は逆に手をかけることを考えるんですよね。それが所作の美しさになりますね。」
私はこのように返事をした。
「手をかけるのは、相手に対する配慮の表現でしょうね。思い思われるというところに、人としての美しさがあるんじゃないでしょうか。」

正直なところ、お茶の稽古は難儀だ。一番難儀なのは長時間座っていなければならないことで、次に難儀なのは細かい所作の約束事がなかなか身につかないことだ。それでも、美味しいお茶やお菓子がいただけたり、先生や他の生徒さんたちとの会話が楽しかったり、所作・作法から考えさせられることがあったり、そうした諸々の魅力があるので、なんとか2回目の初釜を迎えることができたのだと思う。

茶道を習い始めたのは、陶芸をする上で茶碗というものについて知りたかったからだ。茶道そのものに興味があったわけではなかったのだが、始めてみればそれなりに関心が高まるものだ。茶道に関して、これまでは受動的な関わり方しかしてこなかったが、そろそろ腰を据えて向き合うことを考えてもよいのではないかと感じている。目下最大の関心は所作や作法そのものよりも、その背後にある考え方なのだが、何事においても実践を抜きに思考することはできない。物理的に存在するところの身体動作や道具類を自分自身の経験として咀嚼しないことには思考したことにはならない。

思考することで眼前に現れるものの豊饒を多少なりとも実感すれば、それまで単なる風景でしかなかったものが、饒舌に語りかけてくるようになるのである。ただの世間話でしかなかったもののなかに物事の核心に触れるかのような原石がちりばめられていることを発見するのである。勿論、生活のために不本意なことも受容しなければならない局面も多々あるのが現実だが、その現実も単なる忍耐の対象とするのではなく、思考の種の宝庫と捉えることができれば、生活の実感はそれまでとは全く違ったものになる。

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2 コメント

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Unknown (まるちゃん)
2011-01-16 14:52:25
充実した人生ですね。今度の会は出られないけど、また、雰囲気とか教えて下さいね。私も私なりに充実した生活を送ろうと、ペースを掴みつつあります。
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Unknown ()
2011-01-17 02:16:05
充実、ねぇ。別に充実させようなんて考えたことはないんですよね。自分の思い描く生活のイメージがあって、それと現実との乖離があって、一方で死ぬ時期をある程度想定していて、残り時間を気にしながら、齷齪している感じ、なんだけどね。
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