熊本熊的日常

日常生活についての雑記

つながる

2010年11月14日 | Weblog
昨日は落語を聴いてきた。柳亭市馬と桂雀三郎の二人会。どちらも「歌う落語家」として有名だが、落語家の本分は余技ではなく、あくまで噺。その噺は、当然なのかもしれないが、師匠の影響を濃厚に受けるように思う。噺家によっては弟子に稽古をつけない人もいるらしいが、そういう師匠を持っていても何故か芸暦を重ねる毎に師匠に似てくることがある。

市馬の師匠である小さんの噺は、DVDでしか聴いたことがないので、こちらについては何も言えないのだが、雀三郎は枝雀を彷彿させるところがある。「夢の通り路」の船上での客のやりとりなどは、枝雀が演じる「高津の富」で富を待っている人たちの様子に通じるものを感じるし、全体として間が師匠譲りだと思う。

落語に限らず古典芸能や職人芸の多くは、人から人へ伝えられるものだ。マニュアルがあるわけではなく、観て聴いて真似して覚えていく。それは何故かといえば、芸というものは本来的に言語化できない要素を含んでいるからだ。言語化することによって伝達できるものというのは、誰でもできるということでもある。つまり、そこにたいした価値は無いのである。

人と人とが関係することの喜びというのは、結局、「うまく説明できないけれど、通じるもの、通じたものがある」という実感にあるのではないだろうか。よく耳にする「絆」とか「情」といったものの本当の意味は、そういう非言語要素を共有できたと実感できる関係のことだろう。それは一朝一夕に築くことのできるものではないのだが、時間をかけたからといって構築できるものでもない。芸に関して「才能」が無ければ、いくら時間や労苦を重ねてもものにならないように、人間関係も誰とでも構築できるものではないだろう。芸における「才能」と同じようなものが、人間関係の構築に際しても存在するように思う。だからこそ、根気強く試行錯誤を続けないことには、しっくりいく相手と容易に出会うことはないのだろう。

噺の場合、自分が好きな噺家は、舞台に出てきたときの収まりが良いように感じられる。収まりが良い噺家の噺は、始まる前からなんとなく好きになっている。これは、それこそ非言語的感覚だが、何事についても似たようなことがあるように思う。

演目

桂雀太 「道具屋」
柳亭市馬 「高砂や」
桂雀三郎 「三十石 夢の通り路」
(中入り)
柳亭市馬 「掛け取り」
桂雀三郎 「G&G」

開演 14時00分
閉演 16時30分

会場 日経ホール

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