午前中、山手線の或る駅で子供と待ち合わせをして、国立新美術館へ行く。
手元に「シュルレアリスム展」の割引券が2枚あったので、二人で観にいくのにちょうどよいと思ったのである。しかし、割引券は1枚しか使えなかった。私が在学中の大学が国立美術館キャンパスメンバーの参加校なので、学生証を提示すれば割引券が無くとも割引になるのと、その割引制度は他の割引との併用ができないという事情による。
今回の「シュルレアリスム展」は内容も規模もかなりなものだ。ここ3年ほどの間は、ここにも多くの作品が出品されているマルセル・デュシャン、マン・レイ、フランシス・ピカビアに関連した企画展を観る機会に恵まれており、この展覧会もその延長線上にあるような、どこか近しい感じがする。子供のほうは初めて目にするものばかりである上に、所謂「モダン・アート」にたいしては批判的なので、会話のネタとしてはかえって面白い。
展示の章立ては時代順になっており、そう思って眺める所為か、初期の作品にはどことなく高揚した緊張が感じられ、戦後の作品になると規模が大きかったり技巧を凝らしている割には冗長な感じが拭えないような印象を受けた。どのようなことにも始めと終わりがある。物事が始まるには、そうなるための事情や環境があり、終わりに至るのは、そうなる状況の変化があったということだろう。
シュルレアリスム運動に関しては「皇帝」とまで呼ばれていた提唱者でもあるアンドレ・ブルトンの死とともに終息したとされているらしい。運動とか組織といったものが特定の個人の影響力に左右される場合、その個人の存在感に陰りが見え始めると、組織そのものが瓦解に向かうのは芸術や文化だけのことではあるまい。このところ落ち着いたようだが、政情の安定度が高いとされていたタイで首相の汚職を巡って一時騒乱状態に陥ったのは、国王の高齢化と無関係ではないだろう。同じことは中東の一連の政変にもあてはまることではないだろうか。独裁が真に問題なら、もっと以前に騒乱が起こっているはずだ。混乱は独裁権力に脆弱化の兆しが見えたからこそ起こるものだろう。権力の安定に必要なのは円滑な権力移譲だ。独裁者自身の能力やカリスマ性は勿論重要だが、その存続ということを考えた場合、権力の移譲先の同様の能力も負けず劣らず重要になる。権力存続にまつわる困難は「カリスマ性」あるいは人を惹きつける力というものは伝授するということができる性質のものではないことに起因する。
一旦、美術館を出て、シェ・ピエールで昼食をいただく。今日はふたりとも仔牛のカツをメインにしたランチコースにする。ここに来るのは久しぶりだが、いつも気持ちよく美味しい食事を楽しむことのできる店だ。
昼食の後、21_21で開催中の「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」を観る。このギャラリーを訪れるのは初めてだ。展覧会よりも建物に興味があって、ずっと訪れてみたいと思っていたのだが、これまでは何故か機会に恵まれなかった。実際に訪れてみると、特別に感心するほどのことは無かった。
国立新美術館へ戻り「東京五美術大学連合卒業・修了制作展」を観る。さすがに実績のある美大ともなると感心させられる作品が少なからずある。尤も、五大学分なので規模がやたらと大きく、観て回るだけでも大仕事になってしまう。やはり大学毎のカラーのようなものは感じられる。どこがどうというような明確なものではないのだが、なんとなく違うのが面白い。
子供と別れてから実家に寄る。巣鴨の住処に戻った頃にケータイにメールが入る。23日付の「意地」に書いた、自分の生活圏外のコーヒー豆店についての質問の主からだ。昨日、出勤前に依頼主の生活圏内にある豆店をいくつか回ってみた。結局3つの店で豆を買い、その味見をしてみた。今日は結果について手短に葉書にまとめ、投函しておいた。ケータイのメールは、必要最小限のことだけならよいが、これで何通もやり取りするというのは、馬鹿馬鹿しい気分になってしまう。急ぎの用件ではなく、相手が友人かそれ以上に親しくて、言葉だけではなくて気持ちも伝えたいと思えば、葉書くらいのものがちょうどよいのではないかと感じている。尤も、なかなか葉書を書く機会には恵まれなくて、今日書いたものが今年2通目だ。こういうことを面白がってくれる相手を増やさないといけない。さらに言えば、そういうものの行間を読み取ってくれるような人と、数は多くなくてよいので、出会いたい。
手元に「シュルレアリスム展」の割引券が2枚あったので、二人で観にいくのにちょうどよいと思ったのである。しかし、割引券は1枚しか使えなかった。私が在学中の大学が国立美術館キャンパスメンバーの参加校なので、学生証を提示すれば割引券が無くとも割引になるのと、その割引制度は他の割引との併用ができないという事情による。
今回の「シュルレアリスム展」は内容も規模もかなりなものだ。ここ3年ほどの間は、ここにも多くの作品が出品されているマルセル・デュシャン、マン・レイ、フランシス・ピカビアに関連した企画展を観る機会に恵まれており、この展覧会もその延長線上にあるような、どこか近しい感じがする。子供のほうは初めて目にするものばかりである上に、所謂「モダン・アート」にたいしては批判的なので、会話のネタとしてはかえって面白い。
展示の章立ては時代順になっており、そう思って眺める所為か、初期の作品にはどことなく高揚した緊張が感じられ、戦後の作品になると規模が大きかったり技巧を凝らしている割には冗長な感じが拭えないような印象を受けた。どのようなことにも始めと終わりがある。物事が始まるには、そうなるための事情や環境があり、終わりに至るのは、そうなる状況の変化があったということだろう。
シュルレアリスム運動に関しては「皇帝」とまで呼ばれていた提唱者でもあるアンドレ・ブルトンの死とともに終息したとされているらしい。運動とか組織といったものが特定の個人の影響力に左右される場合、その個人の存在感に陰りが見え始めると、組織そのものが瓦解に向かうのは芸術や文化だけのことではあるまい。このところ落ち着いたようだが、政情の安定度が高いとされていたタイで首相の汚職を巡って一時騒乱状態に陥ったのは、国王の高齢化と無関係ではないだろう。同じことは中東の一連の政変にもあてはまることではないだろうか。独裁が真に問題なら、もっと以前に騒乱が起こっているはずだ。混乱は独裁権力に脆弱化の兆しが見えたからこそ起こるものだろう。権力の安定に必要なのは円滑な権力移譲だ。独裁者自身の能力やカリスマ性は勿論重要だが、その存続ということを考えた場合、権力の移譲先の同様の能力も負けず劣らず重要になる。権力存続にまつわる困難は「カリスマ性」あるいは人を惹きつける力というものは伝授するということができる性質のものではないことに起因する。
一旦、美術館を出て、シェ・ピエールで昼食をいただく。今日はふたりとも仔牛のカツをメインにしたランチコースにする。ここに来るのは久しぶりだが、いつも気持ちよく美味しい食事を楽しむことのできる店だ。
昼食の後、21_21で開催中の「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」を観る。このギャラリーを訪れるのは初めてだ。展覧会よりも建物に興味があって、ずっと訪れてみたいと思っていたのだが、これまでは何故か機会に恵まれなかった。実際に訪れてみると、特別に感心するほどのことは無かった。
国立新美術館へ戻り「東京五美術大学連合卒業・修了制作展」を観る。さすがに実績のある美大ともなると感心させられる作品が少なからずある。尤も、五大学分なので規模がやたらと大きく、観て回るだけでも大仕事になってしまう。やはり大学毎のカラーのようなものは感じられる。どこがどうというような明確なものではないのだが、なんとなく違うのが面白い。
子供と別れてから実家に寄る。巣鴨の住処に戻った頃にケータイにメールが入る。23日付の「意地」に書いた、自分の生活圏外のコーヒー豆店についての質問の主からだ。昨日、出勤前に依頼主の生活圏内にある豆店をいくつか回ってみた。結局3つの店で豆を買い、その味見をしてみた。今日は結果について手短に葉書にまとめ、投函しておいた。ケータイのメールは、必要最小限のことだけならよいが、これで何通もやり取りするというのは、馬鹿馬鹿しい気分になってしまう。急ぎの用件ではなく、相手が友人かそれ以上に親しくて、言葉だけではなくて気持ちも伝えたいと思えば、葉書くらいのものがちょうどよいのではないかと感じている。尤も、なかなか葉書を書く機会には恵まれなくて、今日書いたものが今年2通目だ。こういうことを面白がってくれる相手を増やさないといけない。さらに言えば、そういうものの行間を読み取ってくれるような人と、数は多くなくてよいので、出会いたい。