以前にも書いているように、日々の食材の調達を生協の宅配に依存している。配達は週一回なので、一週間で消費できる量を毎回注文しているつもりなのだが、予定外の出来事が起って昼食時を外で過ごすことになると、それだけ食材の消費が減り、在庫を抱えることになる。事前にわかっている予定については発注に反映できるが、短期間のうちに入る予定には対応できない。1月の個展の準備やその後の配達などで食材の消費の周期が変動し、その影響が未だ多少は残っている。ここへ来てようやく落ち着きが出てきたものの、玉葱や南瓜などの保存に耐えるものは、なお余剰在庫を抱えている。毎朝、原則としてパン類を食べているのだが、明日の朝用のパンが切れているにもかかわらず、敢えて補充をせず、翌朝用のために帰宅後に南瓜を煮た。狭い家なので、南瓜を醤油と味醂と黒砂糖で煮た香りが漂うなかで就寝することになる。
自分が食べるものを自分で作るというのは、生活の基本であると考えている。そのことによって、毎日摂取する栄養や熱量を感覚的に把握できるようになるし、それが健康管理にも通じることになる。また、調理器具や食器の後片付けを通じて、動物性脂肪の汚れの落ちにくさを実感し、それと同じことが体内で起こっていることも直観され、自然と過剰な脂肪分の摂取を控えるようになる。結果として、日々摂取する栄養の均衡が図られ、健康の基本とも言える体重管理が容易になる。尤も、「管理」などと言っても体重を計っているわけではないのだが。
一人暮らしを始めて3年半近くになるが、結婚していた頃の同居人に家事執行能力が欠如していたおかげで、一人暮らしを始める以前からいろいろ鍛錬を重ねる機会に恵まれ、少なくとも家事に関して不自由は全く無い。ありがたいことである。しかし、家事に不自由が無いということが、生活に不自由が無いということにはならないように思う。
何を「不自由」と感じるかは人それぞれだろうが、単独生活というのは人として自然なありようではない気がするのである。人は共同体のなかで生きるようにできている。ひとりで暮らしているように見えても、様々な共同体に属している。近頃は地縁や血縁が薄くなっている印象があるが、それでも全く無いわけではないし、仕事関連のつながりは時間配分という点においては多くの有職者にとって最大のものではないだろうか。とはいえ、精神面においては家族あるいは擬似家族の存在ほど良きにつけ悪しきにつけ影響力のあるものは無いだろう。
ひとつ屋根の下で生活を共にするというのは、よほど相性の良い相手でないと単に苦痛でしかない。それは例外がないことで、親子であっても良好な関係性を構築することは容易ではない。親子というのは特別な関係ではなく、人が生涯の間に取り結ぶ数多ある関係のひとつに過ぎないのだが、時間をいくら重ねたところで、それだけでは何も生み出さないということの傍証としてはこれに勝るものはない。それほど構築し維持することの難易度が高いからこそ、家族という関係を避けていては生きていることにならないのではないかとさえ思う。
自分の中で、様々な時間軸においてそれぞれに課題を設定している。過去の経験に照らせば、年齢の区切りにこだわるとろくなことが無いのだが、それは年齢の節目を意識するあまりに結論を過度に急いだ結果、無理や安易な妥協をしたことが原因だと認識している。そうは言っても、期限を設けないことには物事は前に進まないので、あくまでも目安として時間軸を設けることは必要だろう。そうした意味で、ここ2年くらいのうちには生活を共にする相手についても考えなければならないと思っている。
自分が食べるものを自分で作るというのは、生活の基本であると考えている。そのことによって、毎日摂取する栄養や熱量を感覚的に把握できるようになるし、それが健康管理にも通じることになる。また、調理器具や食器の後片付けを通じて、動物性脂肪の汚れの落ちにくさを実感し、それと同じことが体内で起こっていることも直観され、自然と過剰な脂肪分の摂取を控えるようになる。結果として、日々摂取する栄養の均衡が図られ、健康の基本とも言える体重管理が容易になる。尤も、「管理」などと言っても体重を計っているわけではないのだが。
一人暮らしを始めて3年半近くになるが、結婚していた頃の同居人に家事執行能力が欠如していたおかげで、一人暮らしを始める以前からいろいろ鍛錬を重ねる機会に恵まれ、少なくとも家事に関して不自由は全く無い。ありがたいことである。しかし、家事に不自由が無いということが、生活に不自由が無いということにはならないように思う。
何を「不自由」と感じるかは人それぞれだろうが、単独生活というのは人として自然なありようではない気がするのである。人は共同体のなかで生きるようにできている。ひとりで暮らしているように見えても、様々な共同体に属している。近頃は地縁や血縁が薄くなっている印象があるが、それでも全く無いわけではないし、仕事関連のつながりは時間配分という点においては多くの有職者にとって最大のものではないだろうか。とはいえ、精神面においては家族あるいは擬似家族の存在ほど良きにつけ悪しきにつけ影響力のあるものは無いだろう。
ひとつ屋根の下で生活を共にするというのは、よほど相性の良い相手でないと単に苦痛でしかない。それは例外がないことで、親子であっても良好な関係性を構築することは容易ではない。親子というのは特別な関係ではなく、人が生涯の間に取り結ぶ数多ある関係のひとつに過ぎないのだが、時間をいくら重ねたところで、それだけでは何も生み出さないということの傍証としてはこれに勝るものはない。それほど構築し維持することの難易度が高いからこそ、家族という関係を避けていては生きていることにならないのではないかとさえ思う。
自分の中で、様々な時間軸においてそれぞれに課題を設定している。過去の経験に照らせば、年齢の区切りにこだわるとろくなことが無いのだが、それは年齢の節目を意識するあまりに結論を過度に急いだ結果、無理や安易な妥協をしたことが原因だと認識している。そうは言っても、期限を設けないことには物事は前に進まないので、あくまでも目安として時間軸を設けることは必要だろう。そうした意味で、ここ2年くらいのうちには生活を共にする相手についても考えなければならないと思っている。