小泉武夫『醤油・味噌・酢はすごい 三大発酵調味料と日本人』中公新書
発酵調味料賛歌。自分でも味噌は毎年仕込むようになったので、読んでいて素朴に楽しくはあるが、やや誇大広告的な雰囲気が無きにしも非ず。それでも本書に盛り込まれているデータ類は、出典が明らかにされていないところが難だが、興味深いものばかりだ。調味料から食を想像して古い時代の生活を再現してみるというのは、食の変化や人の「自然」を考える上で真っ当なアプローチだと思う。「日本食ブーム」などという言葉があるが「日本食」の意味するところが不明瞭であることが何故問題にされないのか不思議でしょうがない。もっと言えば、「日本」とは何なのか、「日本人」とはどのような人のことを言うのか、あまり考えられていないように思う。何を旨いと感じるのか、毎日食べて飽きないものにはどのような特徴があるのか、そのことと「日本」の「文化」にどような関係があるのか、などなど疑問は尽きないのだが、そういうことを説得力を持って語ったものにあまり出会わない。こちらが熱心に調べないということは当然あるのだが、それだけでもないような気がする。突き詰めれば「自分」とは何者か、というところにまで行ってしまうのだろうし、そうなると答えなどないということになってしまうのだろうが、その突き詰めるところに至るものがどれほどあるのだろうか。
ロバート キャンベル・十重田裕一・宗像和重 編『東京百年物語』全3巻 岩波文庫
ある特定の時期に書かれた小説を並べることで、その時代の社会を読み解く試み。編者のほうは歴史を意識しているのかもしれないが、読者である私のほうは、人間というものの在り様は100年ほど遡ったところで変わらないとの思いが強くなる。それはこのブログのほかのところでも書いているが、『徒然草』でも『エセー』でも同じ感想だ。もちろん、現象面の大きな変化はある。維新、震災、戦争、復興を経て、わずか100年ほどの間に物理的な風景は江戸から現代へと激変する。物理的な風景の変化はテクノロジーの変化の端的な表現でもあり、人々の生活様式も同様の変化を見せる。しかし、人の心情のほうは風景の変化ほどに変わってはいないように見える。改めて人とは何だろうと思う。
ところで、2巻に収載されている谷崎潤一郎の「人面疽」のなかの記述が妙に引っ掛かった。
中でも一番不気味なのは、大映しの人間の顔が、にやにや笑ったりする光景で、― そういう場面が現れると、思わずぞうっとして、歯車を廻して居る手を、急に休めてしまうと云います。そんな場合には、怒る顔よりも笑う顔のほうが余計に恐いと、M技師はよく云って居ました。(第二巻 50頁)
いつのことだったか、アカデミーヒルズでの講演かなにかで講師のひとりだった津川雅彦が聴講客の求めに応じてその人と一緒に写真を撮る場面に遭遇した。その時が初対面のようだったが、カメラを向けらた時の津川氏の笑顔があまりに自然で素敵だった。前後の脈絡と関係なく、求められた表情を作ることができるのが俳優というものであるということと、笑いと笑顔は別物なのだということを、その時思った。
「人面疽」での笑顔の記述を読んだとき、ふと津川氏の笑顔が思い出された。同時に、仏像の表情も思い浮かんだ。弥勒菩薩だとか大日如来のように柔和な表情の仏様がおられる一方で、蔵王権現であるとか不動明王のような忿怒形の仏様もおられる。忿怒の表情というのは、どこか不自然な気がするのである。そもそも恐怖心を起こさせることで人心を掌握しようという了見がいかがなものかと思う。確かに恫喝することで動かすことのできるものはあるだろう。しかし、外部の力で動いたものは、その外部の力がなくなれば元に戻ることを思わなければならない。見せかけの合意ではなく、双方納得ずくの合意でなければ関係性など維持できるものではない。そういう意味で、極端な感情の表現というのは、笑顔であれ忿怒であれ、見た目ほどに強いものではないと思うのである。