日本民藝館で「新館長と語り合う会」に参加する。昨年7月に館長に就任した深澤直人氏はいまさら説明の必要がない著名なデザイナーだ。今日はデザイナーという立場で民芸あるいは民藝館を見たらどうなのか、というような話だった。時間的には過半を占めていたが、前段としての話はデザインとは、というテーマ。これがたいへん興味深いものだった。
結局、デザインという仕事は、人とモノとそれらを取り巻く環境の間にある、目には見えない関係性に輪郭を与えることらしい。その輪郭が適切なものであれば、おそらくそれは美しいと感じられるのだろう。つまり、美とは調和の表現形ということになる。目には見えないこと、暗黙のことを見えるようにすることが、その世界にとっての価値であるとするなら、デザインの価値は美を見出すことの価値である。
人とモノと環境は常に変化している。だから、これらによって規定される美もまた常に変化する。同じものが、置かれる場によって美しくも見えれば、そうでもないこともある。環境というのは、そこにある人やモノが共有する経験や文化という「場」のことだ。形とは、そういう環境のなかにある人とモノとの関係を表現したもの。デザインあるいは美というのは、変動し続ける関係性のなかに普遍性を見出すという多体問題のような至難のことでもある。 この多体問題への取り組み方として、深澤氏はパズルのピースを例に語っていた。一つ一つのピースを追求するのか、ある程度出来上がったパズルの欠けたピースを探すのか。欠けているところにぴたりと嵌るピースを見つけることができれば、たぶんそれは美しいものになる。嵌らないものを無理矢理押し込めば、パズル全体が破綻するというのである。 この話を聴いて、今の時代の息苦しさは、嵌らないものを無理矢理押し込もうとする姿勢が自分にも世の中にも当たり前にあるからではないかと思った。なぜ無理矢理になるかといえば、おそらく環境が見えていないからだろう。環境は一目瞭然というわけにはいかない。その人なりの試行錯誤を重ねて漸くなんとなくイメージできるようになるものではなかろうか。しかし、そういう悠長なことが通りにくい、あるいは通りにくいと勝手に決め付けてしまいがちな時代になっているような気がする。