熊本熊的日常

日常生活についての雑記

笑うということ

2014年04月12日 | Weblog

素朴に好きなので暇さえあれば動画サイトなどで落語を聴いている。月に一回程度を目処に落語会や寄席にも足を運ぶ。同じ噺が口演者によって違うものに聴こえるのはなぜだろうと常々思う。同じ口演者の同じ噺が時と場によって違って聴こえるのも不思議なことである。古典落語は話の内容からサゲ、話の端折り方といったことまで知っていても、面白いときは面白い。実は「不思議」とは思っていないのだが、何故その時々で違うのかということを上手く説明できないので、方便で「不思議」だとか「なぜだろう」と書いただけのことである。

人が何故笑うのか、ということについては大昔から今日に至るまで、様々な人がそれぞれの立場からいろいろに論じている。そういう現象があるということは、そのことについてひとつの解答が無いということの証左だ。たぶん、太陽が時速70,000キロで未体験空間を驀進しているからではないかと思う。落語に限らず世の中のことというのは普く一回性の事象なのだろう。何度でも再現できることというのはその程度のことであって、再現できないことのほうが多いのが現実だろう。ナントカ細胞の論文に不備があったことがマスコミで大きく取り上げられても、ナントカ細胞を何度でも作ってみせれば済むことではないかと思うのだが、そうならないのは所謂「先端技術」というものが数多くの条件を整えないと証明することができないからなのだろう。世の中は一回性のことに満ちているので、そういうことを組み合わせなければならないムズカシイことは、そもそもコピペの組み合わせではお話しにならないのである。なんだか当たり前のことのような気がするが、ナントカ細胞騒動の問題点というのは何なのだろうか。

ついでに言わせてもらえば、ナントカ細胞騒動の件でマスコミに取り上げられる内容は細胞のことでもなければ論文のことでもなく、それを発表した人の個人的なことであったりするのは、世間の関心がナントカ細胞そのものに無いことの証左だろう。知らないことやわからないことに対しては何も言えないのである。わからないことに無理矢理何かを言わなくてよいのではないかと思うのだが、言わずにいられないのが人の性なのかもしれない。だから問題そのものではなく、問題にまつわることでネタにできることだけつまみ食いするのである。腹が減ったときに食事をするのではなく、試食品を喰い漁るようなものかもしれない。食事には単に腹を満たす以上の文化的な意味があるものだが、カロリーや栄養の補給さえできればよいというのであれば、畜生と変わるところがない。

さらについでに言うと、近頃書店の店頭に「雑談力」というものについての本が平積みされているのを見かける。雑談するのに「力」が必要なのかと思う。「力」なしでできる会話が「雑談」ではないのか。日本語が変化しているのか、雑談する力も無い人が増えているのか。雑談する力がないような人は本を読む力も無いだろう。「雑談力」についての本は誰を読者として想定しているのだろうか。「活字離れ」が言われて久しい。本を読む習慣が失われているのかもしれないが、本を企画する側に人を食ったような発想しかできない奴が増えているということはないのだろうか。

落語会や寄席に出かけると、世の中捨てたもんじゃないなと思える瞬間を体験できることがある。あるいは、しっかり生活しないといけないと反省させられる瞬間に遭遇することもある。その一瞬を期待しながら雑談のような無駄話のようなものに1時間も2時間も付き合う楽しさが好きだ。

本日の演目
笑福亭羽光 新作
柳家三三 「薮入り」
(仲入り)
春風亭一之輔 「粗忽の釘」
東京ボーイズ
柳家喬太郎 「井戸の茶碗」
開演 14:00 終演 16:40
会場 北とぴあ さくらホール 


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