昨日、Royal Academy of Artsで開催中のBYZANTIUM展を観てきた。ビザンツ帝国は、ローマ帝国が395年に東西に分裂した後の東側のことだ。ローマ帝国という共通のルーツを持ちながら、西ヨーロッパが政教分離と封建制を政治の基本としたのに対し、ビザンツ帝国は皇帝が神の代理人として聖俗双方を支配し、テマ制と呼ばれる官僚制による統治体制が敷かれた。ユスティニアヌス1世の時代に現在のイタリア、東欧、トルコ、パレスチナ、北アフリカの地中海沿岸地域を領有したが、最後は首都であったコンスタンティノープルが唯一の領土となるまでに勢力は衰退し、1453年にそのコンスタンティノープルがオスマン帝国によって滅ぼされてローマ帝国の歴史は終わるのである。
前書きが長くなったが、この展示を観ていて信仰とか信心というものについて考えたのである。キリスト教だのイスラム教だの仏教だのと、世の中には何百年という時を超えて教義が固定化され、大勢の信者を擁する宗教がある。本来、信仰あるいは信心というものは極めて個人的なものであるはずだ。それが何故、共通の教祖、教典、教義などを持った組織になりうるのだろうか?
ローマ帝国が東西に分裂して以降、西欧では皇帝や国王という俗界の統治者と教会とは互いに独立して存在してきた。ビザンツ帝国では、教会はコンスタンティノープル総主教という皇帝から形式的には独立した存在があったが、皇帝に神の代理人という地位が与えられており、実質的に教会は皇帝の支配下にあった。ビザンツ帝国におけるキリスト教は、統治の装置という側面もあったはずである。それ故に、貴金属や宝石で飾り立てた十字架であるとか、金糸や銀糸で編んだイコンであるとか、教会関連の華美な道具類は教会や支配層の権威付けとして重宝されたのだろう。個人の信念や信条に関するはずのことが、物理的な文物を欲し、個人の外部にある権威によって強制を受けるというのは理屈に合わないことである。
個人の在り方と宗教というものの在り方との間にある矛盾を克服するのは、個人の隷属と権威の絶対化の少なくとも片方であろう。マスとして人心を掌握するには、宗教の権威付けが不可欠である。その方法論の一部として、小道具が有効だということなのだろう。しかし、各宗教がそれぞれに絶対的権威を求めれば、結局はどのような形であれ、宗教間の対立を生む。それによって引き起こされる不安定な状況が人々の不安心理を刺激して、宗教のような精神的支柱への欲求が喚起されるという不安の循環があるように思う。
前書きが長くなったが、この展示を観ていて信仰とか信心というものについて考えたのである。キリスト教だのイスラム教だの仏教だのと、世の中には何百年という時を超えて教義が固定化され、大勢の信者を擁する宗教がある。本来、信仰あるいは信心というものは極めて個人的なものであるはずだ。それが何故、共通の教祖、教典、教義などを持った組織になりうるのだろうか?
ローマ帝国が東西に分裂して以降、西欧では皇帝や国王という俗界の統治者と教会とは互いに独立して存在してきた。ビザンツ帝国では、教会はコンスタンティノープル総主教という皇帝から形式的には独立した存在があったが、皇帝に神の代理人という地位が与えられており、実質的に教会は皇帝の支配下にあった。ビザンツ帝国におけるキリスト教は、統治の装置という側面もあったはずである。それ故に、貴金属や宝石で飾り立てた十字架であるとか、金糸や銀糸で編んだイコンであるとか、教会関連の華美な道具類は教会や支配層の権威付けとして重宝されたのだろう。個人の信念や信条に関するはずのことが、物理的な文物を欲し、個人の外部にある権威によって強制を受けるというのは理屈に合わないことである。
個人の在り方と宗教というものの在り方との間にある矛盾を克服するのは、個人の隷属と権威の絶対化の少なくとも片方であろう。マスとして人心を掌握するには、宗教の権威付けが不可欠である。その方法論の一部として、小道具が有効だということなのだろう。しかし、各宗教がそれぞれに絶対的権威を求めれば、結局はどのような形であれ、宗教間の対立を生む。それによって引き起こされる不安定な状況が人々の不安心理を刺激して、宗教のような精神的支柱への欲求が喚起されるという不安の循環があるように思う。