明日、個展の案内状の打ち合わせでデザイン事務所を訪ねることになっている。会場となるギャラリーでの過去の催事の案内状の見本がないかと思い、夕方にFINDを訪ねた。
店に着いたのは午後4時頃だった。入口のところに見覚えのある自転車が停まっている。店の前に、ちょうど着いたばかりの町内会長がオーナーの岩崎さんと立ち話をしているところだった。そこに私が現れたものだから、岩崎さんに「待ち合わせですか?」と尋ねられてしまう。「いや、ちょっと狼煙が見えたもんですから」とは言わなかったが、なんとなく来てるかもしれないなとは思っていた。
店を出たのは午後7時半頃。まだ数えるほどしか顔を合わせていないオヤジふたりが、よくもまぁ、途切れることなく会話が続くものだと、当事者でありながら感心してしまう。尤も、私も羽生田さんの店にコーヒー豆を買いに行って、1時間ほども油を売ってくるのだから、私の側に問題があるのかもしれない。「問題」というのは店の側から見てのことであり、本人同士は気持ちよく会話をしているのだから何の問題も無い。
かつての社会には、居住地の隣近所の関係というのは当たり前にあった。買い物といえば近所の商店で食材毎に店を渡り歩いて済ませるものだったし、店屋物を注文するにしても店主の顔が見えている店ばかりだった。それが、気がついてみれば、買い物はスーパーで誰と会話するでもなく完了してしまい、店屋物も宅配専門店のようなところで、誰が作ったかわからないものを注文するのが当たり前になってしまった。この利点としては効率が良いということだ。あちこちの店に行かなくても一箇所で必要なものが全て揃い、しかも大量流通の商品ばかりなので個人商店の商品よりも相対的に安価である。安さを求めた結果、人間関係を失った、ということだろう。確かに、買い物で顔を合わせるだけの関係など「関係」のうちには入らないかもしれない。しかし、そこで挨拶を交わす、挨拶から世間話のひとつやふたつもする、という程度のことであっても、それが無くなったことで、他人との交渉事がすっかり日常生活から消えてしまった、というようなことは案外多いのではないだろうか。職場だけ、家庭だけ、学校だけ、というような限られた世界のなかで人間関係が完結してしまうと、そこで何事か障害が発生したときに修復の手立てが限られてしまう。結果として、金銭を支払って専門の業者に依頼することになり、ますます生活のなかに市場原理が入り込むことになる。気がつけば、習慣だけで行動する機械のような存在になり、他人との会話ができないというようなことに陥っていたりする。
ここは習慣には流されず、強く意識をして自ら会話の場を求めないと、人は自然に孤独に陥る。狼煙を上げるのは楽ではないが、楽をしていると楽しくはならない。
店に着いたのは午後4時頃だった。入口のところに見覚えのある自転車が停まっている。店の前に、ちょうど着いたばかりの町内会長がオーナーの岩崎さんと立ち話をしているところだった。そこに私が現れたものだから、岩崎さんに「待ち合わせですか?」と尋ねられてしまう。「いや、ちょっと狼煙が見えたもんですから」とは言わなかったが、なんとなく来てるかもしれないなとは思っていた。
店を出たのは午後7時半頃。まだ数えるほどしか顔を合わせていないオヤジふたりが、よくもまぁ、途切れることなく会話が続くものだと、当事者でありながら感心してしまう。尤も、私も羽生田さんの店にコーヒー豆を買いに行って、1時間ほども油を売ってくるのだから、私の側に問題があるのかもしれない。「問題」というのは店の側から見てのことであり、本人同士は気持ちよく会話をしているのだから何の問題も無い。
かつての社会には、居住地の隣近所の関係というのは当たり前にあった。買い物といえば近所の商店で食材毎に店を渡り歩いて済ませるものだったし、店屋物を注文するにしても店主の顔が見えている店ばかりだった。それが、気がついてみれば、買い物はスーパーで誰と会話するでもなく完了してしまい、店屋物も宅配専門店のようなところで、誰が作ったかわからないものを注文するのが当たり前になってしまった。この利点としては効率が良いということだ。あちこちの店に行かなくても一箇所で必要なものが全て揃い、しかも大量流通の商品ばかりなので個人商店の商品よりも相対的に安価である。安さを求めた結果、人間関係を失った、ということだろう。確かに、買い物で顔を合わせるだけの関係など「関係」のうちには入らないかもしれない。しかし、そこで挨拶を交わす、挨拶から世間話のひとつやふたつもする、という程度のことであっても、それが無くなったことで、他人との交渉事がすっかり日常生活から消えてしまった、というようなことは案外多いのではないだろうか。職場だけ、家庭だけ、学校だけ、というような限られた世界のなかで人間関係が完結してしまうと、そこで何事か障害が発生したときに修復の手立てが限られてしまう。結果として、金銭を支払って専門の業者に依頼することになり、ますます生活のなかに市場原理が入り込むことになる。気がつけば、習慣だけで行動する機械のような存在になり、他人との会話ができないというようなことに陥っていたりする。
ここは習慣には流されず、強く意識をして自ら会話の場を求めないと、人は自然に孤独に陥る。狼煙を上げるのは楽ではないが、楽をしていると楽しくはならない。