万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

多文化主義が殺戮をもたらす悲劇

2014年12月17日 15時43分58秒 | 国際政治
シドニー立てこもり 終わり見えないテロとの戦い 試される「多文化主義」(産経新聞) - goo ニュース
 オーストラリアのシドニーで起きた人質事件では、他者を護ろうとした勇気ある二人の市民が犠牲になられました。犯人は、イスラム教徒の青年と報じられておりますが、この事件は、人類に対して、多文化主義が内包する問題を突き付けております。

 多文化主義とは、異質な者同士が反発しあったり、敵対することを避けるために、人間集団の自然発生的な多様性、つまり、違いを認め合おうとすると善意に基づいております。そもそもは、寛容と平和を説く思想なのですが、目的と結果が逆となる現実に愕然とせざるを得ません。それでは、何故、多文化主義は、悲劇をもたらすのでしょうか。国際社会は、民族自決の原則に基づいており、いわば”棲み分け”によって成り立っています。どの国も、固有の歴史を背景に、特定の言語、宗教、習慣…があり、移民国家であるオーストラリアもまた、イギリス領であったことから英語が公用語であり、社会制度などもイギリス起源のものが多くあるのではないでしょうか。つまり、少なくとも国内レベルでは、多文化主義はあり得ないのです。このことは、国民各自が、異なる言語をしゃべる状態を想像してみれば、直ぐに理解することができます。ところが、多文化主義が提唱されますと、マイノリティーのみならず、マジョリティーもまた、ストレスに晒されます。マイノリティーのストレスは理想と現実のギャップである一方で、マジョリティーもまた、異質なものに対する本能的な警戒感や自らの社会が変質を迫られる圧迫感に苛まれることになります。

 多文化主義は善意に満ちていますが、現実を見据えますと、この思想が真の善であるのか、疑いが湧いてきます(偽善かも知れない…)。各国の固有の社会や文化の尊重、最低限のモラルの設定、どうしても居住国に馴染めない、あるいは、攻撃的な移民の帰国支援…など、マジョリティーとマイノリティー双方を含む人間の本質に即した解決策を模索した方が、よほど人道的なのではないでしょうか。


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コメント (2)
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