万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

NPT&核兵器禁止条約は‘刀狩り’か-世界支配の構造的基盤

2024年10月16日 12時05分40秒 | 国際政治
 アメリカの銃社会に対する批判として、しばしば日本国の銃刀法が引き合いに出されます。確かに日本国は、同法によって一先ずは‘銃なき社会’が実現しています。しかしながら、同法の歴史を振り返りますと、必ずしもその目的が人々の安全を護るためではなかったことに気付かされます。

 日本国の銃規制の歴史を辿りますと、明治政府によって廃刀令が発せられたのは明治6(1873)年であり、その後、明治43(1910)年には、鉄砲類の所持については登録制となりました。もっとも、今日の銃刀法の起点は、第二次世界大戦後の連合国による占領政策にあります。1945年9月から翌年にかけて、GHQは、日本国の武装解除を目的として民間人の所有する刀剣類を米軍に引き渡させると共に、ポツダム勅令として鉄砲類の所持を禁じたのです(銃砲等所持禁止令)。現行の銃刀法自体は、主権回復後の1958年に制定されており、日本国内の治安の向上に貢献することとなりましたが、その出発点にあっては、勝者・支配者側による敗者・被支配者側の抵抗や反乱手段の物理的な排除という目的があったことは否めません。

 国内の武器規制のみならず、戦争における敗戦国が、戦勝国から軍事力の縮小を強要されるのは、世の常でした。古くは防壁や砦を取り壊されたり、武器類を没収されたりしたものです。近代にありましても、第一次世界大戦にあって敗戦国となったドイツに対して厳しい軍備制限が課されたため、ロカルノ条約の破棄を訴えたナチスが台頭し、第二次世界大戦の遠因ともなったとされています。日本国も、降伏後の1945年11月には、旧日本軍、すなわち帝國陸海軍が解体されています。

 かくして、軍備縮小には、力に優る側による劣る側の抵抗力の排除という意味合いがあるのですが、この観点から見ますと、NPTも核兵器禁止条約も、これらの条約前文が謳うように、人類に惨害をもたらす核戦争を回避し、‘人民の安全を保障する’ために制定されたのか、疑わしくなってきます。実のところ、核兵器の放棄は、如何なる国のとりましても、最大級の軍縮であるからです。否、核兵器の場合には、各国がそれを開発・保有する前に、その権利を未然かつ自発的に放棄させられてしまったとも言えましょう。

 世界各国が、抑止力の意味においても自国の命運に関わる主権的権利とも言える核兵器保有の権利を、かくも簡単に条約をもって封印してしまったのは、合理的に考えますと不可思議でもあります。もちろん、広島や長崎から伝わる被爆地の惨状のみならず、アメリカをはじめとした軍事大国による圧力と説得があったことは否めません。あるいは、核兵器を持たない段階にあったからこそ、その攻撃・抑止の両面における絶大なる効果については無自覚であったのかも知れません。見方を変えれば、先行して核を保有した諸国は、その威力を知るからこそ、芽のうちに摘んでしまい、他の諸国には持たせまいとしたとも考えられましょう。その証拠とも言えるのは、核保有国は、決して自らは核を手放さないという一貫した態度です。これは、秘密裏に核兵器を開発・保有したイスラエルや北朝鮮等にも言えましょう。

 戦国時代にあって、豊臣秀吉は、天下を平定し、自らの支配体制を固めるに当たって、‘刀狩り’を実施しています(もっとも、後に天下人は徳川家康に取って代わられますが・・・)。同事例も示すように、他者の武装解除と軍事力の独占、あるいは、圧倒的優位性は、支配体制の確立を意味します。今日の世界の構造にあっても、大枠としてはアメリカ、ロシア、中国といった核保有軍事大国による分割統治体制であり、国連の常任理事国にして核保有国のイギリス・フランスがアメリカを側面から支えると共に、イスラエルや北朝鮮は、‘鉄砲玉’としての役割を担っているようにも見えます。その一方で、核保有国は、軍事同盟国に対しては‘核の傘’を提供することで、安全を自らに依存せざるを得ない状況に置いているのです(一方的な依存は、しばしば属国化をもたらす・・・)。そしてこれこそ、全ての諸国を背後からコントロールしようとする世界権力の支配を支える仕組みなのでしょう。しかも、この仕組みは、核保有国相互の間では戦争は起きなくとも、戦争ビジネスのために非核保有国が犠牲となる形で地域紛争を頻発させるように仕組まれているのです。

 一つの政策が、たとえ一つの崇高な目的をもって説明されたとしても、他の側面においてより重大な効果やマイナス影響を及ぼすことがあります。核兵器は、その威力が絶大であるだけに、NPT体制にあって(核兵器禁止条約も含めて・・・)、世界権力による人類支配の主要な構造的基盤の一つとなっている現実にも注意を払う必要がありましょう。この場合、核廃絶の理想は、体の良い‘目隠し’の役割を果たしているのです。‘核なき世界’を理想とする人々は、おそらく本記事に対しまして核=絶対悪とする意識から反感を抱くものと推測されるのですが、核廃絶の理想の陰に隠れたもう一つの目的についても、タブーを排して直視すべきように思えるのです。


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