昨日11月24日付けの日経新聞朝刊の2面は、藤井輝夫東大総長のインタヴュー記事で占められていました。同記事を読んで驚かされたのは、日本国の大学の最高峰とされる東大が、グローバリズムに乗っ取られてしまっている現実です。その理由は、藤井総長の返答が、悉くグローバリズムの‘模範回答’となっているからです。
仮にグローバリストが東大総長のポストの採用試験を実施したとすれば、藤井総長は、100点満点のトップの成績を収めたかも知れません。この場合、まさしく‘模範解答’となるのでしょうが、既に受け答えの内容が想定問答として出来上がっていたのではないかと疑われるほどに、採用者側と目されるグローバリストが理想として描く大学像をそのままそっくり言葉として表現しているのです。
同記事を読みますと、藤井総長が目指す大学改革とは、大学の一種のグローバル営利企業化に他ならないことが分かります。先ずもって紙面をめくりますと「「稼ぐ力」なくして自立なし」とするメインタイトルが目に飛び込んできます。サブタイトルにも「授業料上げ、もう待てず」、「入試、定員削減より多様性」とあり、改革に際しての同総長の決意が示されています。記事の本文にも「ファイナンをマネジメントできる組織になることも欠かせない」として、「最高投資責任者(CIO)職や最高財務責任者(CFO)を新設した」とありますので、同総長の改革は、経営者視点からの営利団体としての機構改革にまで及んでいるのです。
それでは、何故、かくも東大のグローバル営利企業化への改革が急がれたのでしょうか。その主たる理由として述べられているのが、グローバル競争における劣位です。東大は、世界大学ランキングでは28位に留まり、中国の精華大学や北京大学のみならず、シンガポールの国立大学といったアジアの大学よりも下位にあるというのです。つまり、ランキングの上位を目指すには、さらなるグローバル化に向けた改革が不可欠であると認識されているのです。しかしながら、ここに、‘秀才型の東大生’の弱点が見えるように思えます。
まずもって第1の弱点として挙げられるのが、激しい受験戦争に勝ち抜いてきた負けず嫌いのメンタリティーに由来してか、常にランキングに敏感に反応してしまう傾向です。このため、世界大学ランキングの順位を上げるために改革を行なうという、本末転倒が起きてしまうのです。改革の必要があるとすれば、それは、学生が良質の教育を受け、かつ、研究者が研究に集中して打ち込める環境を整えるなど、学生並びに研究者本位であるべきなのではないでしょうか。
第二に、‘秀才型の東大生’は、与えられた問題や課題を、既存の解法通りに解くことは得意です。想定問題の繰り返しにより条件反射的な回答もありましょうし、暗記力に頼ることもありましょう。今般の東大改革のように、グローバル営利企業化という課題が課せられた場合にも、グローバリズムの手法をそのままなぞって手際よく実行しているように見えるのです。。
第二の弱点と関連して第三に挙げられるのは、出題の方が間違っている可能性を考えないことです。今日、グローバリズムには形を変えた植民地主義とする批判もあり、各国にあって既に国民からの抵抗も見られるようになりました。グローバリズム=理想=善とする構図は崩壊過程にあり、既に見直しの時期に入っていると言えましょう。当然に、東大もグローバリズムに対して懐疑的な方向に転じて然るべきなのですが、藤井総長は、グローバル原理主義者の如くに自らの改革方針を疑おうとはしないのです。この側面は、ランキングの評価基準にも言えることです。設定されている評価そのものが無意味である可能性については初めから排除されているのです。
そして、弱点の第4点目は、テストの回答を提出したり、設定された課題を達成した時点で満足してしまう点です。これは、大学生の多くに5月病が見られる要因でもあるのですが、東大改革が何を意味するのか、あるいは、後に何が起きるかについては、深くは考えていないのかも知れません。東大の自立とは、日本国から東大を切り離し、優秀な学生や研究者、並びに、研究施設等を丸ごと世界権力に献上することを意味するかも知れませんし、グローバル企業が圧倒的に有利となるグローバル市場では、東大で養成されたグローバル人材が海外のグローバル企業に勤め、やがて日本企業を駆逐しないとも限りません(現地人の取り込みは植民地支配の常套手段・・・)。また、ランキングに拘るばかりにグローバル・スタンダードの評価基準に従えば大学の多様性が失われ、金太郎飴のように全世界の大学が画一化してしまいます。こうしたリスクについては、全く眼中にないようなのです。
同改革方針が、藤井総長の個人的な発案であるとは思えませんし、仮に、そうであるとすれば、東大の私物化ともなりましょう。そもそも、学長への権限集中化こそグローバリストの意に添った文科省による大学改革であったのかも知れないのですが、おそらく同総長は、‘秀才型の東大生’、否、‘秀才型の東大総長’であって、グローバリストにとりましては、最も忠実に自らの期待に応え、大学の営利団体化を実行させるには最適人材なのでしょう。
東大改革については、それが国立大学でる以上、国民的な議論に付すべきですし、国民の多くは、‘部下’としては有能な秀才型ではなく、‘天才型の東大総長’の登場を求めているのではないでしょうか。世界大学ランキングには参加せず、営利ではなく学問の追求によって、世界のどこにもないようなユニークな大学を目指す方が、余程、国民の賛同を得るのではないかと思うのです。