ウクライナのゼレンスキー大統領は、同国と交戦状態にあるロシアのプーチン大統領からの威嚇を受けて、自国の核武装を断念したと報じられています。両大統領のやりとり、すなわち、ゼレンスキー大統領が事実上の‘白旗’を揚げるに至るプロセスは、マスメディアの報道によって国際社会が知るところとなったのですが、ウクライナの核武装断念は、NPT体制を維持するための茶番であった可能性も否定はできないように思えます。
何故ならば、ウクライナが本気で戦争を遂行しているならば、あくまでも核武装を目指すはずであるからです。自国の主権が危機的な状況にある場合の脱退は、NPTに定められている合法的な行為です。しかも、国連憲章の第51条では、個別的であれ、集団的であれ、全ての諸国に正当防衛権を認めているのですから、抑止力を目的とした核保有は、本来であれば、何れの国に対しても許されるはずです。ましてや締約国の一国に過ぎないロシアの承認を得るべき問題でもなく、無視しても構わなかったはずなのです。因みに、国連憲章に照らしますと、国家の正当防衛権に制限を課しているNPTそのものが、憲章違反であるとの見方もできましょう。
報じられているように、ゼレンスキー大統領が、実際に過去にあって‘NATOか、核武装か’の選択に悩んだ時期があったとすれば、それは、戦前戦後を問わず、「ブダベスト覚書」が‘空手形’であることが判明した後における、‘NATOの核の傘の下に入るのか’それとも‘独自に核を保有するのか’という二者の内の選択であったのでしょう。何れにしても、核兵器をもって自国を防御し、ロシアの攻撃を抑止することが目的であったはずなのです。戦時中にあっても、核兵器には強力な抑止効果がありますので、ゼレンスキー大統領が、プーチン大統領の脅しに屈したのは、実質的に自国の‘敗北’を認めたに等しいこととなります。核兵器国と非核兵器国との間の戦争は、最終的な破壊力の圧倒的な差によって、はじめから勝負が付いているのですから(NPT体制が成立した時点で、核保有国と非核保有国の間の戦争は、前者の後者に対する一方的な攻撃以外にはあり得なくなった・・・)。
ゼレンスキー大統領が真の戦争遂行者であるならば、ロシアに屈服する形での核武装の放棄は俄には信じがたい愚行とも言えます。しかしながら、同屈服がNPT体制の維持にあるならば、同大統領には別の目的、否、役割があったこととなります。それは、国際社会に向けて、‘当事国でも核保有国との戦争に際しては核武装を試みることはできない’とする前例を作るためのデモンストレーションなのでしょう。ウクライナが核武装を断念した姿を見せることが、同大統領の役割なのです。
このお芝居は、恐怖心に関する11月16日付けの本ブログ記事とも関連します。自らが実際に体験しなくとも、他者が威嚇者の要求に従っているのを見て、威嚇効果を信じてしまう場合にも脅迫効果が生じるからです。例えば、‘あの人の言うことを聞かないと、酷い目に遭うらしい’という噂が流されただけでも、実際にはその人物には他者を害する力も権利もないにも拘わらず、周囲の人々が自発的に従ってしまうことがあります。言葉だけのフラグや虚勢であったとしても、それを信じる人が出現しますと、その恐怖心が他の人々にも伝播することで、多くの人々の合理的判断を狂わせ、行動を萎縮させるなどのマイナス影響を与えてしまうのです。
今般のゼレンスキー大統領の対応も、それを見た他の諸国や人々は、戦時にあってさえ核兵器は保有できないものと見なすことでしょう。冷静かつ合理的に判断すれば不条理なことであっても、恐怖心の共有が目に見えない同調圧力となり、皆が揃って核武装という選択を封印し、自らに不利益な方向に動いてしまうのです。つまり、核兵器をめぐるプーチン大統領とゼレンスキー大統領との言葉のやりとりは、NPT体制を維持したい勢力、すなわち、二度の世界大戦を引き起こしてきた世界権力が同調圧力効果を狙って演出したとも推測されるのです(その一方で、兵器の‘消費’となる通常兵器による戦闘は激化・・・)。
このように考えますと、ウクライナ戦争そのものが茶番であった可能性も浮上してきます。否、おそらく、ほぼ100%近い確率で茶番なのでしょう。日本国民も含め、人類は、人命軽視の果てに第三次世界大戦を誘導しかねない危険極まりない同茶番劇に対して、早急なる幕引きを迫るべきなのではないでしょうか(つづく)。