目下、アメリカ民主党政権、否、世界経済フォーラムを中心とする世界権力の強力な後押しの下で、日本国政府は、6月9日におけるLGBT法案の衆議院可決を目指して奔走中です。グローバリスト勢力による世界画一化の波は社会全体にも及んでおり、男女共同参画に向けた政策もその一つです。岸田政権も、6月5日には、改めて「女性版骨太の方針2023」の原案を公表し、(1)女性活躍と経済成長の好循環の実現に向けた取組の推進、(2)女性の所得向上・経済的自立に向けた取組の強化(3)女性が尊厳と誇りを持って生きられる社会の実現の三つの方針が示されました。
内容そのものは、‘骨太’という‘新自由主義用語’が示すように既定路線の再確認、あるいは、焼き直しに過ぎず、‘新しい資本主義’と銘打つほどの新奇性にも乏しいのですが、とりわけ、グローバル企業における女性役員比率を上げるという方針は、世界権力から命じられている達成すべき至上命題のようです。今般の「女性版骨太の方針2013」には、具体的な達成目標年と比率も定められており、「2025年を目途に、女性役員を1名以上選任するよう努める。」「2030年までに、女性役員の比率を30%以上とすることを目指す」としています。
しかしながら、冷静になって考えてみますと、双方とも世界権力が推進しながら、LGBTQ運動と女性枠の設定との間にはそもそも矛盾があります。性別によって‘枠’が設けられている場合、LGBTQの人々は、一体、どの枠に入るのか、という素朴な疑問があるからです。そして、こうした矛盾以上に女性枠において疑問に感じる点は、組織論から見た同制度の妥当性です。
この問題は、女性枠に限らず、アメリカ民主党政権の政策手法であるアファーマティブ・アクションにも見られ、社会的に差別されてきたマイノリティーを優遇するために設けられる‘○○枠’一般に観察されるのかもしれません。もちろん、逆差別という法の前の平等原則に反する重大な問題も内包しているのですが、組織論からしますと、役員といった特定のポストに一定の枠を設ける方法は、一見、平等という価値を体現しているように見せながら、その実、人事権の所在や選任の仕組みを無視しているという問題があるのです。
今般の女性枠で言えば、具体的な人数やパーセンテージが設定されているのですから、結果だけを見ますと、男女共同参画と理念に近づいたようなイメージがあります。しかしながら、誰を選ぶのか、という人事権に注目した場合、選ぶ側の大多数が男性である、あるいは、世界権力のメンバーである、といった場合には、真の意味での平等が実現するわけではありません。‘男性’、あるいは、特定の人物が選んだ女性であるケースが多数を占めることが予測されるからです。
実際に、最近、企業の社外取締役に女性の芸能人、タレント、スポーツ選手が就任したとするニュースが増えたように思います。おそらく、プライム企業の東証上場条件ともされるグローバル・スタンダードを満たそうとした数合わせの結果なのでしょうが、どこか違和感が漂っています。それは、同人事は役員としての知識や能力を基準として選定されたのではなく、男性であると思われる選任者がこれらの人々の個人的なファンであった、あるいは、ヤング・グローバル・リーダーのように世界権力が指導者として選んだと推測されるからです。しかも、最近では、女性社外取締を斡旋する人材紹介会社まで出現しており、落下傘的に知名度の高い内外の女性達によって役員枠が埋められるとしますと、企業内部にあって長年勤務してきた一般の働く女性にとりましては、女性枠の設定は、必ずしも歓迎できるものではなくなりましょう(執行役は社内の男性、取締役は外部の女性という一種の‘棲み分け’が成立するかもしれない・・・)。
何れにしましても、平等の実現を根拠として○○枠を設ける場合には、組織全体のシステムの問題として制度設計しませんと(決定、実行、人事、制御、評価機能の適切な配置・・・)、むしろ、地味であっても仕事において優秀な女性達が昇進のチャンスから遠ざけられ、一般女性の大半が不利益を被るという本末転倒の結果を招きかねないように思えます。そして、システマティックな視点から企業組織を今一度見直してみますと、必ずしもグローバル・スタンダードが唯一かつ最適の企業組織形態ではないことに気がつかされることでしょう。外部の視点が必要ならば、むしろ、一般消費者やユーザーの視点から企業経営を評価してもらうほうが、余程、自らが気づかなかった問題点や改善点を知ることができるかもしれません。また、企業役員について適任者を選ぶに際して、そもそも性差は関係ないことにも思い至るかもしれません(客観的な人事評価を可能とする制度の方が重要・・・)。
このように考えますと、日本国政府、否、世界権力が進めている新自由主義を骨格とする‘骨太の方針’とは、‘平等’という誰もが否定し得ない価値を掲げつつ、企業を含めて自らがコントロールをしやすい社会・経済に誘導するための、一種のマインドコントロールなのではないかと疑うのです。